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第1話 車窓
1909年8月、マルセル領へ向かう汽車の窓からミュリエルは空を見上げた。
目の覚めるような青い空は、見ているだけだというのに、夏半ばの盛暑がミュリエルの肌を焼いたように感じた。
ミュリエルが生まれ育った首都パトリーの夏もそれなりに暑いが、パトリーより南に位置するマルセルはそれ以上に暑いらしい。
フィンは暑い夏が好きだと言っていた。自分はどうだろうかとミュリエルは考えた。
春は花が咲き乱れ美しい季節だ。秋は宝石のように青々と輝いていた木の葉が、枯れゆく様を眺めては、命の終わりを少し悲しく思う。冬は世界の全てが時間を止めてしまったかのように、ひっそりとした気配を感じる。
夏は?ミュリエルは夏を連想させるものを頭に思い浮かべた。ジゼルの家庭菜園、赤く熟れたトマト、あっさりとしていてクセのないズッキーニ、舌を楽しませてくれるパプリカ。夏野菜はどれも瑞々しいから好ましい。
だが、夏が好きかと問われたら、特段好きではないと答えるだろうという結論に達した。ミュリエルが好きなのは冬だ。
寒い日の暖かい暖炉の火、布団の中の温石の温もり、ほのかに甘く香るホットミルク、どれも幸せを感じる。
マルセルの夏を存分に楽しもうとミュリエルは心に決めていた。
今回のマルセル旅行は、フランクール王国国王陛下オーギュスト・ルフェーブルから贈られたミュリエルとフィンへの結婚祝いだ。
ミュリエルはその資金を使い、ミュリエルの養父母モーリスとジゼル、祖母のような存在のシャンタル、ミュリエル薬店の従業員イザベルとギャビーとユーグとティボー。
フィンの家族からはニーブール伯爵ヘリベルト・グライナー、その妻アンネリーゼ、三男でフィンの兄ジークフリート、次女でフィンの妹エルフリーデを招待した。
フィンの両親から結婚を許可されたらの話だが、婚約式を教会で行う予約もしっかりと入れてある。
「何考えてるの?」フィンが車窓を見つめるミュリエルに訊いた。
「楽しい思い出になればいいなと思っていました」
ミュリエルの伏せられた目元と、ほんの僅かに上がった口角にフィンは優しく口づけた。
「当然楽しいさ、海で泳いでバーベキューして、夜遅くまで酒を酌み交わす。楽しさ満載だろう?」
「急遽だったにも関わらず、フィンさんのご両親とご兄妹の都合がつき良かったです。無理をさせてしまったのではと心苦しいです」
「気にすることないさ、領地は実質、長男のアルベルト兄さんと、次男のディートリヒ兄さんが切り盛りしてるようなもんで、父さんは殆ど隠居してる、名ばかりの伯爵だよ」
「お会いするのが楽しみです」
パトリーからマルセルまで汽車を乗り継いで3日だが、ザイドリッツ王国ニーブール領からだと汽車を乗り継いで1週間もかかるため、先にマルセル領へ向かい、疲れを癒してもらっている。
汽車は4人1室のコンパートメントで——フィンとミュリエルで一部屋、モーリスとジゼルとシャンタルで一部屋、イザベルとギャビーとユーグとティボーで一部屋—–分かれて座った。
「ミュリエルさん、あとどのくらいでマルセルに着きますか?」ユーグがミュリエルとフィンのコンパートメントに顔を出した。
「あと2時間くらいでしょう」ミュリエルが答えた。
10歳のユーグと、3月に誕生日を迎え、6歳になったティボーはまだ幼いし、長旅をしたことが無いので、ほぼ半日を、汽車の中で座っていなければならない道程は、辛いだろうと思っていたが、ミュリエルの心配をよそに2人は楽しそうだった。
汽車に乗るのも初めてだったので、興味津々に車掌室を見学したり、遠くに見える牧場の牛を数えようとして目を回したり、道中宿泊したホテルでは眠れないほどに興奮し、始終はしゃいでいた。
はしゃぎ過ぎて疲れないといいがと、違う心配をすることになった。
「海に入れる?」弟のディボーもユーグの後ろから着いてきてミュリエルの向かいに座った。
パトリーは海に面していないので、ティボーは海を知らない。フィンから海の話を聞き、瞳を輝かせた。それ以来ティボーは海に夢中だ。
「今日はもう遅いから、海は明日だな」フィンが答えた。
「フィン兄ちゃん、僕、海で人魚と友達になれるかな?」御伽話の人魚を、人魚は絶世の美女なんだと、フィンがさも本物かのように語って聞かせたせいで、ユーグは人魚に夢中だ。
「もう、何言ってんのユーグ、人魚なんているわけないでしょう、フィンさんが、からかっただけよ」ギャビーが呆れて言った。
「姉ちゃんだって海に行ったことないんだから、いるかどうかなんて分かんないだろ。こういうのは、純粋な子供にしか見えないって決まってるんだ。俺は人魚を絶対に見てやるんだからな!」ユーグは言い返した。
ミュリエルとフィンのコンパートメントに走っていったユーグとティボーを、ギャビーが連れ戻しにきたようだ。
夫を強盗に殺され、女手一つで3人の子を育てなければいけなくなったイザベルは、仕事に明け暮れた。
その代わりにギャビーは9歳の頃から弟たちの母代わりとなるしかなく、14歳にしては大人びていた。
最近はミュリエルの提案で、目標だった看護師を目指すか、薬師を志すか、心が揺れているようだ。
ギャビーがユーグとティボーを連れて戻っていくと、またフィンと2人だけの空間になった。
「どうしたの?心配ごと?」
フィンはマリオネットという、不名誉な徒名までつけられるほどに、表情を動かさないミュリエルの、微小な表情を敏感に察知できる希少な人材だ。
ミュリエルはフィンも魔法が使えるのかもしれないと、いまだに疑っている。
「いいえ、ギャビーさんも、ユーグさんも、ティボーさんも、悔いのない人生を歩んで欲しいと考えていただけです」
伝説の人魚も霞むほどの絶世の美女が、隣で自分に向かって微笑むことを、フィンは幸運に思った。
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