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7月23日・長崎大水害があった日です
遅くなりましたが翼覆嫗煦の結果発表は夜にさせてくださいねー。
さて、先日の雨の日にはご心配おかけしてすみません、無事です(今ごろ)
この先、多分豪雨の被害が増えていくのではないかと感じています。
ちょっとだけお話しさせてくださいね。
42年前のこの日、長崎では大きな水害がありました。
まだ今のように情報が即座に行き渡らないこともあって、その日私は呑気に部活やってました。
そろそろなんか雨強くなってきたねーくらいの時点でさすがに帰っていいよと言われて後片づけして体育館を出た頃には、足首まで水がきていました。
この程度、という思いがあり、まったく大ごととは考えていませんでした。
相当に歩きにくかったにも関わらずです。
まだ大丈夫だと余裕のあるここ辺りが運命の分かれ目だと思ってください。
ふくらはぎまでで危険、膝まで水がきたら大人でも移動が困難とされています。
危機管理の意識も薄い時代だったと思います。
人が本能的にヤバイと感じる雨量が1時間100㎜。
当時住んでいた土地では180㎜を超えた時間帯があったと聞きました。
このくらいになると感覚がおかしくなって、いつものようには動けなくなります。
長崎のこの季節は夜8時近くまで明るく、まだ夕方といっていい時間でしたが雨の轟音と水しぶきで周りの様子がつかめませんでした。
何とか帰りつきましたが、家の裏の小さな川は溢れる寸前。
その頃は高台に住んでいて避難所の方が土地が低く、避難は諦めて家財道具を2階に移動させました。
近所の大きな川沿いに住んでいた伯父やいとこたちの家は2メートル浸水して、仕事帰りの伯父と父がいとこたちを救出するのが精一杯でした。
本来なら救助を待たないといけない状況ですが、とても待てなかったそうです。
親たちが建設業で家の仕組みや身体の動かし方を知っていたからできたことだと思います。
辛うじて浸からなかったうちが避難場所になりました。
水道やガスは使えませんでしたが、島育ちの母が風呂にも家じゅうの鍋やバケツにも水を溜めていました。
火を通さずに食べられるものや日持ちするものもある程度蓄えていました。
トイレはまだ下水道が整備されていなくて汲み取り式。
これは幸いだったのか災いだったのか。
町中が水に浸かった跡に消毒薬が混じった匂いはちょっと忘れることができません。
生活線の復旧は早かったと思います。
夏休みはあちこちの水没した親戚の家の泥をかきだしたり洗ったりして終わりました。
宿題がどうとかだれも言わなかったのは、この年だけだと思います。
この災害でなくなられた方々に哀悼の意を表します。
そして忘れることのないように心にとどめておきたいと考えています。
とりとめのない文章ですが読んでくださった方、ありがとうございます。
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