15人が本棚に入れています
本棚に追加
1
愛美を見た気がした。
海沿いを走る、路線バスの車窓。
惣太はその日、有休を利用し、伊豆のとある港町を訪れていた。
I駅で降り、温泉街の一角にある小さな宿に向かう。
早春の光を反射する海を眺めていた惣太の視界を、不意に横切った一人の女性。
長い黒髪の彼女は、堤の上に腰掛け、海を眺めているふうだった。
「愛美!」
思わず声が出る。
バックミラーの運転士の目が、チラッと惣太を見る。そんな事には当然気づかず、遠ざかる女性の姿を追う。
(愛美……?)
さっきはそう見えたが、一瞬のことで自信がなくなってくる。
反射的に降車ボタンを押していた。『ブーッ』という音に続き、
「はい、次、止まります」
運転士の事務的な声がした。
「びっくりしたよ」
斜め前の席のお婆さんが、半身になりながら惣太を見やる。乗客は、惣太とそのお婆さんだけだ。
「あっ、すいません」
我に返った惣太が、お婆さんに軽く頭を下げる。
「いやいや、いいんだけど。お兄さん、見慣れない顔だね」
いかにもお喋りが好きそうなお婆さんは、ニヤッと笑って、
「病院に行くのに、週に3日はこのバスに乗ってるんだけど……」
惣太には全く興味のない話を続けてくる。
大卒1年目の若さに加え、人懐こくて聞き上手な惣太は、職場でもおばちゃんに人気だ。
「……そうなんですね。それは大変ですね」
なんとか笑顔を交えつつ、お婆さんの話を聞き流しているうちに、バスが停車し、プシューッと扉が開く。
「ここで降りるのかい?」
訝しげなお婆さんの声を背中に聞きながら、電子マネーをかざして飛び降りた。
バスが走り去ると、そこは小さな船着き場と数軒の家が見えるだけの集落だった。
(確かに、お婆さんも不思議に思うよな……って、そんなことより!)
今バスが走ってきた県道を逆方向に歩き出し、さっき女性が座っていた堤を目指す。
山が海岸までせり出し、曲がりくねった道を速足で歩く。
バスではあっと言う間だが、歩くと結構あった。しかし、辿りついた堤に、女性の姿は、もうなかった。
女性が座っていた辺りに腰を掛ける。そして、海を眺めながら、愛美のことを考えた。
最初のコメントを投稿しよう!