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「では始めましょう」
狐村がくるりと向こうをむくと、それを合図に神月と名乗った男がキューを台に向け、ブレイクショットの態勢に入る。神経を研ぎ澄ますためだろう、グローブは使わず素手だ。スタンダードブリッジに構えた左手の指にキューを差し入れた。
「……」
さっきまでの嘲るような表情が陰を潜めた。背中から漂う毛羽立った殺気がハリネズミを思わせる。
ふと心配になって横を見やるが、十六夜は普段と同じようにぼぅっと突っ立っているのみ。ある意味で平常心というか。
神月のキューが白い手玉へと近寄っていく。
『1の黄色と画像で判別しにくいから』という理由で9の黄帯は通常よりかなり細いが、あとの的玉の色と番号は通常のビリヤードと同じ組み合わせ。
周囲が静まり返る。空気が張り詰める。肌寒さを覚えるほどの緊張感。
いやそもそもの話、この神月という男は本当に『一撃だけで全ての玉をポケットに沈める』等という芸当ができるのか?
その疑問が頭をかすめた瞬間だった。
耳をつんざく衝撃音が狭い部屋を走った。ブレイクショットだ。思ったよりも素早いスタート。あえて間を置かないことでこっちの隙を突く作戦か。
「……っ!」
自分のすぐ近くにもポケットが1個ある。十六夜のように全部を記憶できなくとも、せめて1個だけでも記憶できれば。或いは少しでもアシストできれば。
玉は物凄いスピードで台の上を駆け回る。バウンドを繰り返しそれぞれが勝手な方向目掛けて疾走ってゆく。
数秒もしないうちに最初の玉がポケットに落ちる『ガコン!』という音がする。咄嗟にそっちへ目を向けたがもう玉はポケットに沈んだ後、色を判別することはできなかった。
だめだ、音を追っていたのでは間に合わない。やはり私のような凡人は眼の前のひとつに集中するのが精一杯!
そうこうするうちにも次々にボールがポケットへと落ちていく。とても目で追えるものではない。自分としては目の前にあるポケット1個の視認が限界!
そう考え直して目を凝らした次の瞬間、『何か赤いもの』が眼前を通過してポケットに吸い込まれていった。赤い玉……『3』だ。
よし、覚えた。あとは。
顔を上げたときに、台には白い手玉だけが残されていた。後は、何もない。
「……本当に一撃で全部沈めたの?」
思わず声が上ずる。見えていなかったが、追撃はなかったのか。
「ああ、そうだな。確かに一撃だったよ。見事なモンだ」
十六夜は相変わらず平然としている。
「褒めている場合じゃないですよ」
嗜めるが、しかし。そう言い切ったということは、全体を俯瞰できていたということだろう。
「さぁ、神月君の仕事は終わった」
再び狐村が顎をしゃくった。
「では、1個ずつカメラを確認していこうか」
嫌らしい目つきで手元のカメラを指さして見せる。
「これから始めようじゃないか。さて、何色だったかね?」
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