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あなたに会えるなら、命が燃え尽きることも厭わない。
病院のベットの上で仰向けになって寝ることしかできない私には、叶わぬ夢だった。
夕暮れの秋の街並みに、夕陽が強く差し込み、街全体は黄昏色に染まっていた。
妻と結婚する前に交際した女性がいた。
その女性はある時忽然と姿を消して会うことができなくなった。
失意の中、心の隙間を埋めてくれたのが妻だった。
妻とは自宅付近の居酒屋でたまたま知り合って、お互いに常連客となり、次第に距離が近づいた。
妻には特に愛情は無い。ただ寂しかったから埋め合わせる為の目的で、投げやりになりながら結婚した。
妻はそれに気がついていたようだが、何も言わず、自暴自棄な生き方をしている自分を献身的に支えた。
ある日、馴染みのラーメン屋に一緒に入った時に、店主が良からぬ噂を耳打ちする。
妻が知らない男と歩いているところを見た、というのだ。
結論から言えば、妻には浮気相手がいた。
その事実に驚きではあったが、妻を問いただすと、いつも心ここにあらずで振り向いてくれない私との生活に疲れた、と。
妻から注がれた無償の愛が、永久に続くものだと過信していたが、それが誤解だったと知る瞬間だった。
妻が去った部屋に一人残されて、テーブルの上に置かれた手切金の札束を2日間、飲まず食わずで睨みつけたが、流石に空腹に耐えかねて、札束から1枚拝借してコンビニへ駆け込んだ。
買って帰ると、コンビニの買い物袋からおにぎりとお茶のペットボトルを、テーブルに向けて投げつけるように、無造作に取り出す。
喉に染み渡る食べ物の味。
茶の入ったペットボトルを飲み干すと、口元を拭う。
風呂にも入っていない。着替えもしていない。
寝室のタンスを開けると、綺麗に端を折りたたんだ下着が現れた。
自然と涙が込み上げてきた。
妻はいつもいつも、こんなに細かい仕事をきちんとこなしながら、仕事もしないで毎日寝てばかりいる、引きこもりのような自分に、愛情を注ぎ続けていた。それなのに何もわかってやれなかった。
突然の嘔吐。吐瀉物が喉を締め上げる。喉つまり。
だんだんと目の前の景色がモノクロ映像へと変化し、気を失った。
目が覚めると病室で点滴を打たれながら横たわっていた。
一時は危なかったらしい。
集中治療室で蘇生術を受けて、なんとか一命を取り留めた。
なぜ助かったのかというと、別れた妻のおかげだった。
妻がたまたま忘れ物をとりに帰宅したところ、倒れている自分に気がついて、救急車を呼んだのだ。
妻は数時間前までそばで看病をしてくれていたが、用があると言い残して病室を後にしたと、女性の看護師が丁寧に経緯を説明してくれた。
自分は虚に弱々しくうなづく事以外に、会話の術がない。
次に目を覚ますと、見慣れぬ女性が病室の椅子に腰をかけていた。
ずっとこちらを眺めていたのだろう。目を覚ますと目と目が合った。
「ずっとうなされてました。私の名前をうわごとのように何度も繰り返しなさるから。恥ずかしくて。」
紛れもなく、妻と別れる前に交際した女性だった。
この女性の自己紹介は、妻の親友とのことだったので、さらに驚いた。
「鈴子があなたに一目惚れして。私はあなたと遊びだったから、鈴子にあなたをあげる事にしたの。それとなく、あなたが通い始めていた居酒屋を紹介して、常連を装って接近してもらい、事前にあなたの好みとか、性格とかを全部教えてね。そうしたら、パタパタと驚くほどの勢いで結婚が決まって。正直嫉妬もしたわ。私はまだ独り身だし。一度くらい結婚してみたかった。でも鈴子が、思いの外あなたに真剣で・・・。」
次に目を覚ますと、妻の鈴子の姿があった。
「ちょっとやりすぎてしまったわ。あなたを振り向かせようとして、ラーメン屋のご主人に手伝ってもらって、小芝居したのよ。ちょっとした断食と同じで、空腹状態から急にそんな食べ方しちゃダメじゃない。いつも慌てずゆっくり食べてって言ってたのに。」
それで全てが理解できた。
妻には浮気相手はいなかったのだ。
「でも・・結局、私と、早苗、どちらを選ぶの?」
妻はベットの上に横たわる自分を覗き込むかのように上から問うた。
目を見ていられなくなって目をそらす。
「わかったわ。」
妻は椅子の上に置いていたハンドバックを肩にかけると、ハイヒールの音をカツカツと鳴らしながら、病室を出て行ってしまった。
そしてそれ以来、二度と自分の前に姿を現さなかった。
長いリハビリを乗り越え、ほんの少しだけ、片手に麻痺は残ったが、無事に退院することができた。
金は使い果たし、貯金も底をついていた。
ハローワークに向かうため、身支度を整えた。
(終わり)
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