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しかし、もうそのお役目も御免となる。さすれば珠も一介の村民でしかなくなる。わざわざ、不慣れな土地で職を求めて奔走するような、面倒を背負う必要はない。
「わし、もうじき匣の役目を負わずともようなるんじゃ」
「……何?」
「もう魑魅を植え付けられんでもええんじゃ。お務めもなくなる。やっと村の男として認めてもらえるんじゃ」
「…………珠」
「空言じゃあねえ! ほんとじゃ! 真新しい匣も見せてもろうた、じゃから、ここで暮らす、墨尾さまも無理しようとせんでええ」
珠は、墨尾の言葉を遮るように言い募りながら詰め寄った。ずいと膝行し、蒼ざめた頬へ愛おしげに手を伸ばす。見た目通りにひやりとしていた。
理解ってほしい。珠が口にしたその本懐を。
――今の墨尾さまでは、ここを離れたとて……。
珠には分かる。墨尾にとって、己はお荷物にしかならぬ、と。
墨尾一人ならば、おそらく頼れる縁者の一人や二人見当がつくだろう。しかし珠がついてくるとなると話は別だ。珠には女子供でもできるような雑事しかこなせない。畑仕事は健全な同年配の青年の半分も出来ればいい方だろう。芸事にも疎く、読み書きもかなわぬ。ただでさえその病躯がゆえに爪弾き者となった墨尾に、これ以上の枷を纏わせることは憚られる。
ならば鄙で二人暮らせば良い――そう口にするのは簡単だが、現実はそう易くはない。珠の稼ぎでは、墨尾の薬代まではまかなえぬ。そもそも職が見つかるかも危うく、田畑を工面出来るかも怪しい。一人で食いつなぐのが精いっぱいだろう。
墨尾が稼ぎを得たとて、宮処育ちの貴人に貧農暮らしが過酷なことに変わりはない。このまま病状が悪化し続け、荼毘に臥す未来が容易に想像できる。
病を寛解させるためには生家へ戻るほかない。そして、そこに珠の居場所はない。
つまるところ、二人で共に生きられる未来など存在しないのだ。
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