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「そんなことはない、村の外は広い。宮処以外にも町はたくさんある、城下も、宿場も。流れ者を引き入れてくれる家もあろう」
「はっ、そこで、今みたいに慰み者になれいうんか」
珠が吐き捨てると、墨尾は途端に目を丸くした。
自分でもらしくない振る舞いだと思う。こんなにも感情を剝き出しにしたのは、母が命を落として以来初めてのことかもしれない。
「わしに出来ること言うたらそれぐらいなもんじゃ。そねえな暮らし、ここにおるんとなーんも変わらんでねえか」
乾いた笑みに、声は湿り気を帯びて濁っている。涙からはぼろぼろと大粒の涙が溢れ続けていた。嬉しいのに悲しくて、切なく苦しい。
表情も心情も、珠を構成する何もかもが歪だった。
「じゃけえ、わしはここに残る。墨尾さまはいつでも好きな時に山を下りんさったらええ。見送りぐらいは、するけえ」
珠は今気が付いたとでも言うように自分の頬を袖で乱暴に拭った。無様に泣き崩れた貌を見られたくなくて、くるりと墨尾に背を向ける。墨尾はその背に漂う哀愁にいざなわれたように忍び寄り、言葉もなく背後からその痩躯を抱きすくめた。
珠は抵抗しなかった。出来なかったという方が正しい。触れてくれたことが嬉しいのに、それを易々と受け入れるには至らなくて、浮かした手を再び下ろした。
「お前の想いはしかと受け止めた。すまない……急を要するがゆえ、お前の心を慮る配慮が足りなかった」
「……いや、わしもかっとなってしもうて、ひどい言い草じゃった」
「無理もない。だが、珠、どの路、近いうちにこの村は滅びる運命にある」
「そねえなこと……」
「私が、そうする」
はっきりと呟かれた声に、珠は弾かれたように背後を顧みた。
「何じゃと? 墨尾さまが、なぜ」
墨尾は何かを躊躇うような素振りをみせたあと瞑目し、ぱちぱちと爆ぜる囲炉裏へと視線を移した。
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