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数秒の沈黙ののちに、墨尾は重々しく唇を開き、その内情を何かを諦めたかのように吐露する。
「……私は、その戸口を出てすぐ、眼下に見下ろすことができる沼からやって来た」
「……沼?」
「左様。ヌシ、カミ、と呼ばれていた時代もある。水を泳ぐ蛇――蛟(みずち)と称される化外の者である」
「……墨尾さま、人じゃあねえんか」
墨尾はこくりと首肯し、視線を珠へと戻した。
「一月ほど前に、小さな蛇の世話をした覚えがあろう? あれが私だ」
「あの細え黒蛇が……?」
「ああ。お前の言うとおりだ、細く小さく……頼りない。力が衰えた私の『ヌシ』としての姿が、あれだ」
「そいで、蛇になって、墨尾さまは何をなされとったんじゃ」
「澱みの根源を辿ろうとした結果、この神事場へ辿り着き、匣と呼ばれていたお前にであった、珠」
逸らされた視線は、壁の向こうの沼地へと向けられている。墨尾が棲んでいたという、寂しく鬱蒼とした、生物の気配のしないあの沼を。
珠は理解に窮した。
あの沼を濁らせる、いや澱ませる原因がここにあるというのか。それとも、墨尾の目を澱ませたものを指すのか。
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