墨尾と魑魅

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墨尾と魑魅

「お前には想像もつかないだろうが、ほんの二百年前までは大の男一人を丸呑みにできるほどの力を持っていたのだ。胴など、この村の柱や梁でも支えきれぬほど太く、近隣の民から畏れられ祀られていた。それが揺らぎ始めたのは、この村に匣がもたらされてからのこと」 「匣が……」 「ああ。それがいつだったのか、正確には私も覚えていない。眠りについている時間の方が多かったがゆえに。気づいた時にはこの土地はよどみきっていた。お前たちの言うところの穢れや魑魅のような良くないものが滞留し、私は衰えた」 「なぜに……確かに手ひどい目には遭うが、血やこでちょらん。かんなぎやらあそびめの類が春をひさぐんは、どこでもあることやと」 「私は祀られる側であり、お前たちの作法には詳しくはない。だが、おそらくはこれが神事ではないためであろう」 「……真似事なのが、よくないんか」 「それどころか、土地神たる私を侮辱しているのだ。この神事場を見ろ、この神棚を見て拝んだ方角には何がある? ……何もないのだ、山神のまします頂は左手に逸れ、途中には水場もない。お前たちが手を合わせているのは虚空――いや、その隙間に入り込んだ異物だ」 「わしら、知らんうちに化物を拝んどったんか?」 「ああ。だが、あれの正体は私にも掴みかねるところだ。そしてお前たちはそれのみか……お前たちが使用した水は川や大地を経て私の住まう沼にまで流れ込む。あの沼よりも『上』にお前たちは住処をこさえた。本来、祀られるものは祀る者より『上』に存在しなければならない。お前たちが地面に膝をついて神仏を拝するのもそのひとつだ。私という化生は、お前たちの信仰の対象から外れたと天が見なした」  墨尾の語りは難解な表現が多いものの、大まかなところは理解できる。できてしまう。ゆえに、珠は色を失い唖然と聞き入るほかなくなっていた。
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