第四話「薄氷」 一

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第四話「薄氷」 一

 燐寸(マッチ)の箱を口にくわえて火をつける。小さなそれを付け木に移し、息を吹きかけて風を送る。やがて傍らの炭に火がついて、赤々と燃えはじめる。  火鉢に火を入れた千隼(ちはや)は、具合よく灰をならして立ち上がった。十二月もなかばを過ぎて、朝晩はかなり冷える。火のそばが恋しくなってくると、いよいよ年の瀬が迫るのを感じる。 「ああ、ありがとう。まかせちゃってごめんね」  向かいの席で佐一(さいち)が言った。一限の授業で使うのか、あれこれ書類や教本をまとめている。千隼は笑って首を振る。 「このくらい俺にもできる」  午前八時半、揮皇館(きおうかん)の教務員室はあわただしい空気に包まれている。次々に出勤してくる教官たちは、授業の準備をしたり、机まわりをととのえたりと忙しい。今朝の千隼のように、一限の授業がない者は、なるべく雑用を引き受けてやるのがいつものことだ。 「山田は今日もぎりぎりかな? あいつ、俺が説教してもこたえやしない」  佐一がぼやく。千隼の隣の席で、やはり授業の準備をしていた長谷部が応える。 「さあ、どうかな。案外早く来るかもしれないぞ」 「どうしてです?」 「あれさ」  長谷部は壁にかかった暦を指さした。千隼もつられてそれを見た。今日から三日間の日付に、朱墨でしるしがつけてある。同じく朱墨で書き込まれた予定を見て、佐一が呟く。 「……ああ、なるほど」  ちょうどそのとき、教務員室の戸が開いた。 「おはようございます!」  悠然と現れた山田を見て、三人は顔を見合わせた。いつもは九時ぎりぎりに飛び込んでくる最年少の教官は、自分の名札を表に返してこちらへやってきた。生ぬるい目で見つめる同僚たちに気づいて、ぎょっとしたように立ち止まる。 「え、何ですか? 俺、何かしました?」  佐一がため息をついた。 「現金なやつ」 「早く来ようと思えば来られるなら、普段からそうしろよな」 「おはよう、山田教官。今朝は馬鹿に早いな。いつもこのくらいだと助かるんだが」  いっせいに皮肉や小言を浴びせられて、山田は怯んだ顔をした。 「ええ……何で俺、せっかく早起きして怒られてるんですか? だって、今日から査察が入るんですよね? 遅刻したら恥ずかしいじゃないですか」 「いつもは恥ずかしくないのか……?」  千隼が呆れて呟いたとき、ふたたび教務員室の戸が開いた。 「みなさん、おはようございます」  おだやかな声に、教官たちはいっせいに立ち上がった。現れたのは二階堂だ。揮皇館の学長であることを示す銀の肩章が、その左肩に輝いている。一同をさっと見渡して、口を開く。 「忙しい時間にすみません。今日から三日間、当校に皇派軍(こうはぐん)の査察が入ります。授業の様子を見たり、みなさんに何か質問したりすることがあるかと思いますが、みなさんは何も気にせず、普段どおりでかまいません」  二階堂は傍らに立つ二人の男に視線を向けた。くすんだ深緑の制服は、宿陽(すくよう)の治安部隊である皇派軍の正装だ。頬髭をたくわえた四十がらみの男と、その補佐役らしい若い男が、一同を見返している。 「久木(ひさぎ)査察官と谷垣補佐官です。今日から三日間、よろしくお願いします」  紹介を受けて、千隼たちはそろって一礼した。二人の皇派軍は挨拶もせず、教官たちをながめ回していた。うち一人、久木と呼ばれた髭の男が千隼に目をとめる。 「…………」  男はじろじろと無遠慮に千隼をながめた。何かを探るような目が、自分の左腕に向けられているのを感じて、千隼は居心地が悪くなる。軍人とはいえ事務方の人間は、こうした傷を持つ者がめずらしいのだろうか。  やがて二人の皇派軍は、二階堂にともなわれて教務員室を出ていった。その背中を見送って、佐一が不快そうに吐き捨てる。 「何だよあれ、感じ悪いな」  いつも飄々とした友人が、そんなふうに負の感情を露わにするのはめずらしい。気遣わしげにこちらをうかがう様子からして、あの髭の男が千隼の左腕ばかり見ていたことに、彼も気づいているのだろう。千隼はため息をついてかぶりを振った。 「さあな。俺みたいなやつがめずらしいんだろう」  揮皇館に査察が入るのは年に一度、毎年この時期だ。皇派軍の育成にふさわしい教育をしているか、伝習生に偏った過激な思想を植えつけたりしていないか。卒業後に伝習生を受け入れる側の皇派軍が、みずからの目で確かめる。毎年同じ査察官が派遣されてくるわけではなく、今年の二人も初めて見る顔だった。 「……今年は嫌なやつが来たなあ」  呟いたのは山田だった。佐一が驚いたように彼を見る。 「知ってるの?」 「髭のえらそうな方——久木査察官は、俺の皇派軍時代の上官です。直属の、ではなく、ずっと上の方でしたが」 「『嫌なやつ』というのは人柄のことかね? それとも仕事ぶりが?」  長谷部の問いに、山田は肩をすくめる。 「うーん、両方ですかね。何というか、考えが偏ってるんです。たとえば『皇派軍は士族にかぎる』とか『八十(やそ)の者は優秀だが、田舎者は使えない』とか。そういう自分勝手な思い込みを、仕事の場にも平気で持ち込むんですよ」 「なるほど、それは確かに嫌なやつだな」  長谷部が唸る。 「査察官といえば、何よりも偏りがなく公平であることを求められる立場だ。皇派軍はなぜ、そんな問題のある人物をよこしたんだろう」  そうこうするうちに、一限の授業の始まりが近づいてきた。千隼を除く三人は、あわただしくそれぞれの教室へ向かっていった。  その日の午後、四限の授業は基礎鍛錬だった。二人ひと組になって腹筋を鍛える伝習生たちを見守っていた千隼は、ふと視線を感じて振り向いた。校庭の一角、教務員室の窓の手前にたたずんで、二人の皇派軍がこちらを見ていた。  髭の男が何か言い、若い方がうなずく。今朝と同じ、好意的とは言いがたい視線が突き刺さるのを感じて、千隼は彼らに背を向けた。  山田が言うには、久木という査察官は士族ではない者や、地方の出身者が嫌いらしい。ずいぶんと狭い世界に生きているようだ。自分のように多奈(たな)の農村から出てきた教官などは、さぞ気に食わないことだろう。もっとも、相手がこちらの経歴をいちいち知っているとは思えないが。  校庭の銀杏(いちょう)はすっかり葉が落ちて、冬空に寒々とした枝を伸ばしている。冷たく乾いた風が砂埃を巻き上げる。あとはもう気にせず、千隼は授業を続けた。相手がどんな人物だろうと、見られて困るものは何もない。いくらでも見たままを、上に報告すればいい。  夜になった。 「それにしても、感じの悪い連中だったなあ。あれから何か言われたり、またじろじろ見られたりしなかった?」  長屋の寮へ向かって歩きながら、佐一が言った。仕事を終えて二人で湯屋へ行き、いつもの飯屋で夕食をすませた帰り道だ。千隼はかぶりを振った。 「基礎鍛錬の授業を見ていたが、とくに何か言われたりはしなかったな」 「そっか……」  呟いて、佐一が羽織の前をあわせる。月明かりに吐く息が白い。  いまのところ、査察は何ごともなくおこなわれているようだった。帰りぎわの教務員室で、誰の授業を見ていたとか、ちょっとした質問をされたとかいう話を耳にしたくらいだ。この調子であと二日、無事に終わってくれればいい。千隼は思う。  口にしたのは別のことだった。 「まあ、じろじろ見られるのは慣れてるよ、昔からな」 「昔から……?」  佐一が聞き返す。千隼は短く刈り込んだ前髪をつまんでみせる。生まれつき淡い色の髪は、ほとんど白に近い亜麻色だ。 「この髪と、肌の色だ。子どものころはずいぶんからかわれた。でも生まれつきだから、気にしたって仕方ない。自分ではどうしようもないことだしな。この左腕だって、それと同じだ」 「ああ、なるほど」  佐一がうなずいた。そして切れ長の目をやわらかく細めて笑う。 「俺は千隼の髪、好きだけどな。白くてふわふわで、綿毛みたいだ」  子どものように無邪気な言葉に、千隼もつられて笑う。自分ではどうしようもないことなら、「嫌い」よりは「好き」と言われる方がいい。朝から何となく重かった気分が、少しだけ軽くなった気がした。  佐一と話しているといつもこうだ。のんびりした声を聞いていると、何となく気が楽になる。何か心配ごとを抱えていても、どうにかなるような気がしてくる。優しくて気のおけない、得がたい親友だ。  ふと思う。佐一には、そんな相手はいるのだろうか。何でも話せて、心の支えになるような相手が。あるいは自分が、その役目を果たせているだろうか。  長屋の路地を入ると、角の一軒目が佐一の家だ。ほかの家々から障子越しに明かりが洩れている。寒空の下、どこかでしきりに犬が吠えている。 「それじゃあおやすみ、また明日」 「ああ、おやすみ」  千隼は路地を進んで、二軒隣の自分の家の戸を開ける。五寸ほど開いたところで、がりっと嫌な音がした。 「…………?」  千隼は右手に力を入れた。腰高障子の引き戸はびくともしない。ならばと一度閉めようとしても、打ちつけられたように動かない。 「どうしたの?」  気づいた佐一が路地をやってきた。戸が開かない、と言うと、長身を隙間にねじ込んで、押したり引いたりしはじめる。どれだけそうしても、戸は動かなかった。  師走の冷気が容赦なく肌を刺す。五寸ほどしか開かないのはともかく、真冬に戸が閉まらない家では寝られない。  しばらく二人で格闘した末、とうとう千隼は言った。 「悪い、佐一。今晩泊めてくれるか?」
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