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第一話「玻璃の庭」 一
「佐一、遅れるぞ!」
どんどんどん、と戸が叩かれる。少年っぽく澄んだ声は、朝の冷気の中をよく通る。灰色のラシャの制服に腕を通しながら、松本佐一はのんびりと応える。
「いまいくよ」
肩まで伸びた髪をおざなりに撫でつけ、鉄瓶から湯冷ましを注いで喉へ流し込む。ゆうべの酒が残った胃袋がちゃぽちゃぽと音を立てた。
「佐一!」
ふたたび戸が叩かれる。棟続きの長屋だから、音はたちまち隣近所へ響きわたる。朝からだいぶ騒がしいが、ここは借り上げの独身寮だ。この時分にまだ眠っている者はいない。いるならむしろ起きるべきだ。
「はーい」
佐一は土間に下りて革靴をつっかける。ふと思い立って、畳に放ってあった襟巻きを拾い上げた。大判のそれを首に巻きつけて戸を開けると、戸口に立っていた男がじろりとこちらを睨みつけた。
「遅い」
「ごめんごめん、寝過ごした。おはよう、千隼」
へらへら笑ってみせる佐一に、相手はひとつ舌打ちする。長身の佐一と並ぶと胸くらいまでしかない小柄な男は、先に立って路地を歩き出した。
「行くぞ、遅れる」
同じ寮に住む同僚、和泉千隼はそう言って、さっさと路地を出ていく。佐一もあとを追った。
八十の首都、宿陽の朝は早い。表通りへ出ると、二人と同じように勤め先へ向かう人の姿がひとり、ふたりと増えてくる。ゆったりと流れる八千川の川面が、右手に朝日を照り返している。
「飯はまだだろ? 食堂へ行くか?」
川上へ向かって歩きながら、千隼が訊ねる。佐一は少し考えて首を振った。
「うーん、今日はいいや。胃の調子がよくないから」
「何だよ、二日酔いか?」
「まあね」
短く答えると、千隼がじっとこちらを見つめた。勝ち気そうにつり上がった大きな目の童顔は、佐一のひとつ上、二十六という年齢よりも幼く見える。短く刈り込まれた亜麻色の髪が日射しに透ける。ほとんど白にも見えるその髪と、同じく白い肌は彼の生まれつきだ。大きな瞳も黒ではなく、明るい鳶色をしている。
「よくないぞ、そういうの」
千隼が言った。友人の不摂生をとがめたようでもあり、その陰にある別の何かをとがめたようでもあった。佐一は苦笑して、ことさら軽い調子で答える。
「授業がない時期でよかったよ。教壇で吐いたら格好悪いしね」
千隼は眉間にしわを寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
三月もなかばとは思えない、寒い朝だった。白い日射しにぬくもりはなく、ただ冷えびえと道を照らしている。折からの風が砂埃を巻き上げて、真冬のような冷気が肌を刺した。
千隼が左腕を押さえた。冷たい風からかばうように、付け根あたりをさすっている。佐一は自分の襟巻きをはずして、友人の肩にかけてやった。
「いいよ、おまえが風邪ひくぞ」
「大丈夫。俺は寒いだけで、痛くはないから」
肩から腕までを覆うようにしっかりと巻きつける。毛織の襟巻きに顎をうずめた千隼は、目を伏せて小さく礼を言った。
「……ありがとうな」
「どういたしまして」
古傷に寒さが染みるというのはどんな感覚だろう、と佐一は思う。断ち切られた骨に冷たい風が食い込む痛みを、自分は知らないし、知りたいとも思わない。だが、否応なく知ることになった者もいる。
千隼の袖が風に翻る。佐一と同じ制服の、左の袖の中には何もない。空っぽだ。千隼は隻腕だった。
川沿いの道は土手になり、左へ切れ込む上り坂になった。歩くにつれてゆっくりと川音が遠ざかっていく。どこからか、風に乗って早咲きの桜の花びらが流れてくる。何気なくそれを目で追って、佐一は思う。
——今年も、もうそんな時季か。
ここ数年、桜の花をまともに見た覚えがなかった。春の暖かさや明るさを、はっきりと感じた覚えもない。忙しかったのかといわれれば、そうでもない。ただこの時季は何となく、いつもあいまいに過ぎていくのだ。
やがて、行く手に大きな門が見えてきた。石づくりの門柱にガス灯を掲げたたたずまいは、近ごろ宿陽でよく見かける西国式のものだ。青銅の銘板には力強い字で、次のように刻まれている。
『揮皇館』
埃っぽい道はきれいにならされて、門の中へと続いていた。佐一と千隼は足早に門をくぐった。
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