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春
線路の両側の木立の中に、桜の樹があるのだろう。チラチラと、視界に淡いピンクの色が映る。
冬樹は、装備を詰めた大きなリュックを傍らに置いて、車中から窓の外を見ていた。
今日は、あの無人駅には降りないで、終点の温泉町まで行ってみようと思う。終点までに幾つかの駅はあるのだが、周辺には、ほとんど人家が無くて、利用者も少ない。そんな所で、聞き込みをしたら、不審に思われる。少しでも人が多い方が、情報も得られやすいに違いない。
今日は、温泉町にある民宿に、宿の予約を入れてある。人の多い旅館やホテルより、安価だし、話も聞きやすいと判断したからだ。
終点の温泉町は、一時期の賑わいを失って、明らかに寂れていた。大きな宿は、2件ほどしか無く、あとは民宿レベルの、小じんまりした宿が数軒、軒を連ねているだけだ。
冬樹の滞在する宿は、中心から外れた、山側寄りの奥まった場所にあった。『竹林荘』という、名の示す通り、背景に幾ばかりかの竹林を背負っていた。思ったより、新しい外見だった。
宿泊客は、冬樹の他には居なかった。
おかげで、夕食は囲炉裏ばた、女将さんの付きっ切りの給仕で、話がし易かった。
「…筋交ねえ…。珍しいねえ。そんな苗字、この辺じゃ聞かないねえ」
「この辺じゃ無くてもいいんです。この路線の沿線にある集落のどこかに、そういう家はありませんか?」
「私は、他所から、嫁に来たからねえ。ここいらの事、分からねえ事も多いんだ。そうだ、あんた!」
通りかかった、旦那さんを呼び止める。
「あんた、知らないかい?筋交って家」
「知らねえな。婆ちゃんなら、分かるかも知れねえよ。今、呼んでやるから」
と、奥に引っ込んで、自分の母親と思しきお年寄りの手を引いてきた。恐縮してしまう。
囲炉裏端に座って、こちらをにこにこと見る。
「ばあちゃん!スジカイって家を知ってるかい?ここらにあるかい?」
大声で、女将さんが尋ねる。耳が遠いらしい。
「…ここらには、無い」
がっかりする。
「ここらには、無いけど…、ほら、あすこ、水ん中だよ」
「えっ?水ん中?」
思わず聞き返す。
「ああ、ダム湖の底ね」
旦那さんが、話を引き取る。
「ダム湖の底に沈んだ村に、その家があったってことだね」
「ああ、2、3軒あった。どっかに移ってった。墓がある。円通寺さんに」
お婆ちゃんの言葉を、旦那さんが解説してくれる。
「ここの温泉駅から、3つ目の駅を降りると、小さい集落があって、そこの山際に、円通寺っていうお寺さんがあります。そこに『筋交家』のお墓があるらしいです。そこに行けば、何か分かるかも知れません。でも、住職さんはいませんよ。数年前から無人です」
「ご親戚か、なんかですか?」
女将さんが、尋ねる。
「…ええ、まあ…」
言葉を濁すしかなかった。
次の朝、電車に乗り、言われた通り、3つ目の駅で降りた。山側へと歩を進める。お寺の山門が見えてきた。
さらに上ると、お寺の裏手に、墓が山肌に貼り付くように、建っているのが見えた。
上に続く石段を上り、墓を探す。日陰には溶け残った雪が、薄汚れていた。
やがて、中段の奥に、その墓を見つけた。
『筋交家之墓』の文字を刻んだ碑が、3つ点在していた。一つ一つ確かめる。どの没年も昭和か平成初期だ。一番奥の碑が比較的新しかった。墓石の横を見てみる。
息を呑んだ。
『平成二十六年十二月三十一日没 筋交詩織 享年二十七歳』
「うそだ…」
10年も前に亡くなっている。そんなはず、ない。
偽名だったのだろうか。
それにしても、咄嗟に、筋交だなんて珍しい名を名乗るだろうか。
それとも、あの時感じたように、彼女はこの世の者ではなかったのだろうか。
いずれにしても、彼女の手掛かりは、これで消えてしまった。
最後に、もう一度、あの無人駅を見ておこう。
冬樹は、そう思って、電車に乗り、駅に降り立った。
山道を登って行く。もう、日が西に傾きかけている。
山頂から、湖を望む。
「ああっ!」
思わず、声を上げた。
そこには、あの写真と同じ光景が見えた。
西からの光に照らされて、澄んだ水の底に眠る村の、家々の屋根が見える。電柱やコンクリート造りの建物の屋上部分も、学校と思しき建物も、見える。
しかし、それは本当に僅かな時間だった。西に傾いた太陽が、山陰に隠れると、あっという間に暗い水底に戻ってしまった。
もしかしたら、彼女は、詩織は、これを見せるために、ほんの一時だけ、水底から、自分のもとを訪れたのかも知れない。
そんなことを、思わせるような、幻想的な光景だった。
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