12月31日

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 仕方なく、彼は躊躇いがちに、女性に声を掛ける。 「あの…」  ビクッと肩を震わせてから、そっとこちらを見る。  おや?と思った。心配そうな表情が、意外に若そうに見えたから。見開かれた瞳が、怯えたような色を漂わせている。 「電車、来ませんよ。この雪で、運休になったようです」 「…えっ?」  さらに怯えの色が強まる。嘘だと思われないように、運休を報道したスマホの画面を、彼女に向ける。 「…ホントだ…。上り下り共に運休…って、どうしよう!」  初めて、この人に、人間らしさを感じた、と彼は思った。こんな場所に、こんな時間に、一人でいる女性が、なんとなくこの世の人に思えなかったから、その反応に、少しホッとした。 「どこに行く予定だったんですか?」  相手の気持ちをほぐすために、少し会話することにした。この後の、対策も考えなければならない。自分は、恐らく年下だが、男なのだから。 「お正月なので、帰省するところでした。この山を超えたところに、小さな町があるんです」  彼女は、足元に置いたバッグに視線を落とす。 「僕は、登山者で、上りの電車で帰るつもりだったんです。でも、どうやら、ここで夜明かしをしなければならないようだ」  彼女が、驚いた表情で、顔を上げた。 「ここには、僕が下りてきた登山道以外に道が無い。線路を歩いて隣の駅まで行くには、20キロもある。どっちみち、この雪の中、歩くのは無理だ」  彼女の顔が青ざめていく。この事態がいかに絶望的か、飲み込めたらしい。 「どうします?警察にでも連絡しますか?お貸ししますよ」  スマホを差し出す。彼女はしばらく逡巡した後、 「…いいえ、警察は…いいです。一晩くらいなら、ここにいます」 と、言った。 「分かりました。僕は、外にテントを張って、そこで過ごします。気が変わったら、声をかけてください」  外を見ると、街灯の灯りに照らされて、雪が積もっているのが分かる。駅のフェンスの近くに、自転車置き場があった。屋根が付いていて、そこの下には、雪が積もっていない。好都合だった。  彼は、荷物を持って外に出ると、自転車置き場の下に、ドサっとリュックを置いた。手慣れた様子で、荷を解き、カーキ色のテントを組み立てていく。風を想定して、地面に杭を打つ。屋根の下に、周囲から石を集めてきて、重ねていく。  そして、ライトを持って、木立の中に消えていった。  しばらくすると、枯れ枝を腕いっぱいに抱えて、戻ってきた。それを屋根の下に下ろすと、先程の石の囲みの中に、折りながら重ねていく。  やがて、オレンジ色の炎が立ち上がった。辺りを温かく照らす。  男の、顔が火に映える。逞しさすら、感じられる横顔だ。こうやって、2日間も山に籠っていたのだろう。  温かそうな火が、羨ましく見える。駅舎は、コンクリート造りだが、壁は2方向にしか無い。逆にコンクリートの冷たさが、身に沁みる。  風を防ぐ物がないので、雪が足元にまで吹き込んで来る。  彼女は、ロングコートの襟を立てた。だが、その程度では、到底寒さは防げない。チラっと、命の危険を感じた。 「あの…」  その声に、顔を上げると、彼が側に立っていた。 「ここより、火の側の方が温かいですよ。低体温症で死の危険があります。嫌でなければ、こっちに来てください」  死の恐怖が、頭をよぎったばかりだったので、申し出を素直に受けることにした。 「…ありがとうございます」  確かに、火の側は温かかった。彼は、敷物を用意して、風の当たらない場所に、彼女を座らせた。指先が氷のように冷たかった。  黙っているのも、気不味い。一晩、過ごすなら、名乗っておくのが礼儀だと考えた。 「僕は、刀川冬樹(たちかわふゆき)。大学2年です。あなたは?」  彼女は、躊躇いがちに、 「…筋交(すじかい)…詩織です」 と、言った。警戒しているように見える。  少しでも、緊張をほぐすために、努めて明るく話し掛ける。 「コーヒー、飲みますか?温まりますよ」 と、言いながら、リュックの中から、道具を出す。  小型のバーナーと小さな筒状の鍋だ。ペットボトルの水を注ぎ、火にかける。詩織は珍しそうに、その様子を眺めている。  沸かした湯に、インスタントの粉を入れ、カップに注いで差し出す。 「砂糖も、ミルクも無いんですが…」 「ありがとう。いただきます」  僅かに微笑んで、カップを受け取る。 「温かい…。美味しい」  詩織は、一口飲んで、今度は零れるように微笑んだ。青白かった頬に、薄っすらと赤みがさす。 「よかった…」 と言いながら、冬樹は鍋のままコーヒーを飲んだ。 「あちっ!…熱いや…」  その様子を見て、詩織が笑う。花が開いたようだった。  …綺麗だな。と、冬樹は心の中で、呟いた。  あまり社交的ではないと自覚している。まして、女子に話し掛けるなんて、暴挙に等しいと思っていた。だから、中学でも高校でも、彼女はいなかった。大学は理系を選んだ。おかげで、高校の時より、周囲に女子がいなくなった。同じ学部の女子と、稀に言葉を交わすことがあっても、所謂、事務連絡の範疇を越えることはなかった。  だから、こんな風に、近くで、女の人と会話するのは、母親以外では久しぶりなのだ。こんな状況でもなかったら、話しかけはしなかっただろう。相手が年上なので、変に緊張しないで済んだ。失礼だけど。 「刀川さん…。私の方がだいぶ年上だから、冬樹くんでいいかしら?…冬樹くんは、ここで何をしていたの?」  温かいコーヒーで、気持ちが落ち着いたと見える。 「山歩きかな?登山なんてレベルの山じゃないから。山頂からここの湖を眺めるのが好きで、高校の時から、年一で来てる」  詩織が、彼の顔を覗き込む。 「何で、ここ?有名な場所でもないのに」  冬樹は、少し考えた後、 「いつだったか、ここの写真をネットで見たんだ。山頂から撮ったもので、湖の水がとても澄んでて、底に沈んだ街が写ってた。とても、幻想的だった。同じ光景を見たくて来てるんだけど、あんな風に、底の方まで見えたことは、一度も無いんだ。光の加減か、季節のせいで水の透明度が変わるのか。いつかは見えるかも知れないと思うと、ここに来るのを止められない」 と、言った。言ってから、驚いていた。こんな事を、人に話したことは無かった。笑われると思ってたから。  しかし、彼女は笑わなかった。 「透明度か…。だったら、春の方がいいのかも知れない。山の雪解け水は澄んでるし、湖の水量も多くないから。春に来たことは?」 「一度も無い」  春は、何かと忙しい。進学やら、引っ越しやらで、暇が無かった。 「私は、滅多に帰省しないから、はっきりと断言できないけど。今日だって、たまたま降りただけで、いつもは素通りだもの」  そうだ。それが、引っ掛かっていた。なぜ、この駅に降りたのか?たった一人で。  その疑問を口にすると、 「何でかしら?自分でも分からないの。急いでたわけじゃないから、気まぐれを起こしたのかも」  他人事みたいに言う。  火を眺めながら、二人で取り止めのない話をした。子供の頃、好きだった遊び、飼っていた犬、卵の一番美味しい食べ方、どうでもいいことばかりだったけど、心が安らいでくる。不思議な感覚だった。  雪は止まない。夜は更けてくる。  焚き付けの枝が、もう残っていない。 「取りに行ってくる」 と、冬樹が立ち上がる。 「ダメよ!だいぶ積もってる。危険よ」 「でも、寒いだろ」  詩織が、冬樹を見つめる。その瞳に、消えかけの炎が揺らめく。  そっと、唇が重ねられる。 「こうすれば、温かいわ」  狭いテントの中、寝袋にくるまって、肌を合わせる。お互いの体温で、温め合う。詩織の華奢な体は、すっぽりと腕の中に収まってしまう。抱きしめると、折れそうだ。  彼女の手が、冬樹の下半身を弄る。張り詰めた欲望を、自分の中へと導く。彼女の細い足が、太ももに絡みつく。奥深く柔らかい部分に到達する。  冬樹はいつまでもこのまま、中に留まっていたかった。が、込み上げる衝動を抑えきれず、そのまま身を任す。  二人の熱が、辺りを満たす。そのまま、眠りについた。
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