1月1日

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1月1日

 夢の中で、発車のベルを聴いている。 『ああ、電車が来たんだ。どこに行くんだったっけ。家に帰ろうと思ってたよな…確か…』  ハッと気付くと、本当に発車のベルが鳴っていた。  冬樹は、今、自分が置かれている状況を、やっと思い出した。テントの隙間から、駅のホームを覗く。ちょうど、上りの電車が発車したところだった。  テントの中には、自分一人だ。詩織がいた形跡は、残っていない。 「…夢を見たのだろうか…」  そんなはずは、ない。体には確かに、昨日の感触が残っている。初めての経験だった。あれが夢のはずはない、絶対に。  寝袋には、彼女の残り香が、僅かばかり残っていた。  まだ、その辺にいるかも知れない。そう思って、身支度を整えて、テントを出た。辺りは、降り積もった雪で、一面真っ白だった。朝日に反射する光が眩しくて、一瞬目が眩んだ。  足元に視線を落とすと、駅舎の方へと、一筋の足跡が続いている。それを辿って、駅舎を覗き込む。  しかし、誰もいなかった。時刻表を確認すると、下りの発車の方が2分ほど早かった。  行ってしまったのか…。冬樹は、何の約束も交わさなかったことを悔やんだ。もう、どうしようもなかった。  これから、下りの電車に乗って、彼女の街まで行ってみようかとも思った。 そこで思い留まった。 『行ってどうするのか』  筋交詩織という、名前しか知らない。自宅に帰ると言っていた。その自宅に、家族が待っているのだろう。もしかしたら、人妻かも知れない。恋人がいるかも知れない。そんなところに、のこのこ行っては、迷惑になるだけだ。知らない振りをされるかも知れない。それは、耐え難い。  とりあえず、上りの電車で家に帰ろう。そして、改めて出直して、詩織をこっそりと探そう。 『もう一度、会いたい』  どうしても、その思いに、蓋をすることができなかった。  電車を乗り継ぎ、都心の実家まで帰った。  両親は、大晦日のうちに帰ると思っていたので、だいぶ心配したようだ。一通り、お正月らしい事を済ませて、2日の朝には、家を出た。あの駅に行くためだ。  仕事始めは、4日から、というのが多い。3日の最終まで、あの駅の上り列車を見張ろう。それで、ダメなら、諦めよう。そう思って、また、無人駅に降り立った。  晴れていた。昼近かったので、雪がだいぶ溶けていた。  湖の湖面には、波一つ立っていない。暗く静かに、奥底に町を飲み込んだまま、沈黙していた。  冬樹の願いを、嘲笑うかのように、虚しく何本もの列車が通り過ぎていく。  とうとう、3日の最終列車がホームに、滑り込んで来た。  もう、これに乗るしかない。  冬樹は、電車に乗ってからも、周囲を見回して、彼女の姿を求めた。でも、その期待も、打ち砕かれて、シートに腰を下ろして俯いた。 『諦めよう』そう、思いながらも、 『春なら、見えるかも…』 と、彼女の言葉を、思い出す。 『春になったら、もう一度、来てみよう』  彼女を探すためではない。山頂から、湖を見るためだ。彼女が言ったことが、本当かどうか確かめるためだ。諦めが悪いわけでは、決してない。  そう自分に言い訳してみる。  暗い窓の外に、電車からの光が漏れる。光に、積もった雪が白く浮かび上がる。  この雪が、解けたら、春になったら、あそこに戻ろう。  冬樹の想いと共に、電車は線路を滑っていった。
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