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「私の名前は、筋交紗和…」
小児科の近くにある、キッズスペースのベンチに二人して腰を下ろした後、ぽつりぽつりと、話し始めた。冬馬は、キッズスペースから持ってきた本を、おとなしく読んでいる。
「当時の名前は、庄司紗和でした。結婚していたの」
紗和は、冬馬に視線を送る。
「24歳で夫と結婚して、3年で婚家を飛び出した。夫の女遊びが酷くて、それを義父母は、私のせいにした。耐えられなかったの」
顔を上げて、窓を見る。真冬の曇り空が広がっている。あの日のように。
「あの日は、やっと離婚に応じた夫の元へ、離婚届にサインしに行ったの。一日遅れたけど。もう、別の女が家に入っていたわ」
紗和を見ながら、言う。
「あの後、すぐにまたあの駅に行ったんだ。すれ違いになったみたいだね…。筋交詩織さんって、誰なの?お墓に名前があったけど」
紗和は驚いた顔を、冬樹に向ける。
「あそこまで、行ったの?…詩織さんは、私の叔母よ。あの湖で亡くなったの。溺死だった。事故か自殺か、分からなかった」
沈黙が訪れる。
冬樹は、最も聞きたかったことを、ようやく口にする決心が着いた。
「冬馬は、僕の子だね」
すぐ隣で、紗和が大きく息を吐くのが分かった。
「あの後、この都市にいる母親の元に来て、仕事を見つけて、働き始めた。妊娠に気付いたのは、その時だった。嬉しかった。大変だけど、一人で産んで育てようと決めたの。神様が、私を生かすために、冬馬を授けてくれたんだと思ったの」
紗和は、視線を冬馬に戻す。
「あの時、私、絶望していた。夫に未練があった訳じゃない。何か、価値のないように扱われて、生きる意味を見失ってた。あの駅に降りたのは、どうしてなのか、今でもよく分からない。何かに呼ばれたような、背中を押されたような…。気が付いたら、ホームに降りてた」
冬樹を見る。
「今更、あなたに、責任を求めたりしないわ。あなたには、あなたの人生があるもの。…『冬馬』と名付けたのは、大きくなった時に、『お父さんから一字貰ったのよ』って言いたかったから。…だから、気にしないで。忘れてください」
「冬馬を見た時、直感した。ああ、この子は自分の子だって。小さい頃の自分に、そっくりだ」
紗和を、正面から、見つめる。
「ありがとう。冬馬を産んでくれて、ここまで育ててくれて」
そして、両手で紗和の手を包み込む。
「虫のいい話だけど、僕の頼みを聞いてくれないか」
冬樹の表情が、寂しげに映る。
「僕は、今、難病に罹っている。長くても3年保つかどうかと言われた。この病院に専門医がいるので、ここに越してきた。結婚していないし、両親も亡くなって、身寄りは無い」
紗和の表情が曇る。
「両親が残してくれた財産がある。自分が死ねば、保険金も下りる。だから、どうか、冬馬を認知させてくれ。全部、冬馬に残してやりたいんだ」
紗和の目に涙が浮かぶ。溢れ出して、頬を伝う。
「僕は、このまま家族も持てずに、孤独に死ぬんだと思ってた。ついさっきまで。それなのに、自分の子供がいたなんて、神様はいるんだと思ったよ。自分の人生は捨てたものじゃないと思うことができた。今、信じられないくらい、幸せな気分だ」
紗和は、黙ってじっと冬樹を見つめていた。そして、長い沈黙の後、決心したように、彼の手を握り返した。
「冬樹くん、結婚して、家族になりましょう」
驚いて、彼女の顔を見る。真剣な眼差しだ。
「冬馬に、あなたを『お父さん』と呼ばせたいの。…それに、病気なら、側に誰かがいた方が、心強いでしょう。私も、春から小学生になる冬馬が、一人で留守番しているより、お父さんと一緒の方が、安心して仕事ができる。私、介護士なの。あなたを支えることができるわ」
言葉を失って、目を見張っている冬樹に、さらに語りかける。
「今日、偶然出会えたことには、きっと意味がある。家族で一緒に、病気と闘いましょう。…どうかしら?」
冬樹の目が潤む。一筋、零れる。紗和の顔が涙で霞む。
「…ありがとう」
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