それから

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 病院で再会を果たしたあの日、すぐに市役所に行って、婚姻届を出した。  その週のうちに、紗和と冬馬が冬樹のマンションに越して来て、家族3人の生活が始まった。  冬馬は、素直な優しい子で、すぐに冬樹と打ち解けた。  小学校の入学式には、夫婦揃って参列した。その頃には、なんの抵抗もなく、『お父さん』と呼んでいた。  家族と共に、過ごす日常は、ただそれだけで、幸福だった。  ずっとこの幸福を味わっていたかった。  春の暖かな午後、陽の光が部屋の中に満ちている。  ベッドを起こして、窓の外を眺める。今日は、気分がいい。  もう、桜の蕾が綻びかけている。いつか、列車の中から、木立の中に咲く、桜の花を眺めた日のことを思い出す。  なぜ、自分はあんなにも、あの場所に魅了されたのだろうか、と冬樹は思う。    自分の目で、湖の底に沈む家々を見た後、ネットで初めに見た写真を、もう一度探してみたが、どうしても見つからなかった。  あの写真は、誰が撮ったのか、それを確かめる術もなかった。そのことも、不思議だった。   「あなた、お茶が入りましたよ」  彼の妻が、カップを2つ持って、側にくる。 「起きていて、大丈夫?」 「ああ、今日は気分がいいんだ」  カップを受け取って、微笑む。妻が、彼の側に腰掛ける。  彼と同じように、窓の外を見る。 「もうすぐ桜が咲くわね。そしたら、お花見に行きましょうね」  柔らかく、微笑み返す。彼女は、何年経っても、変わらない。  あの再会の日から、信じられないほど、幸せな日々を過ごしてきた。  全て、紗和のおかげだと、彼は思っている。  一日でも長く、生きたかった。その思いが、彼の気持ちを奮い立たせていた。  病気なんかに負けるか、という気持ちだった。  そのせいか、3年と言われた余命宣告より、はるかに長らえて、担当医をびっくりさせている。  この春から、冬馬は高校生になった。もう立派な男だ。頼れる存在だ。自分がいなくなっても、紗和を支えてくれるだろう。  このところ、ベッドで過ごす日が増えてきた。でも、希望は捨てていない。  それにしても、あの雪の大晦日、あの場所に二人を導いたものは、一体なんだったのか。あの出会いのおかげで、今の幸福が存在する。  『運命』と呼んでしまえば、簡単だが、何かもっと、誰かの意志のようなものを感じずにはいられなかった。 「ありがとう」  冬樹の声に、紗和が彼を見る。 「何?」 「何となく、言いたくなった。君に、冬馬に、後は…神様…かな?」  紗和が微笑む。 「だったら、私も。冬樹さん。生まれてきてくれて、ありがとう。私と出会ってくれて、ありがとう。冬馬を与えてくれて、ありがとう…」  最後は、涙で声が掠れていた。  手を取って、そっと唇を重ねた。  あの日のように…。  了
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