12月31日

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12月31日

 この駅に降りたのは、初めてだった。  帰省する途中の、山の中にある無人駅。  以前は、利用者があって、賑わっていたこともあったはずだ。  それが、人の住む集落が全て、水の中に沈んでしまった。ダム湖の底に。  今、彼女の目の前に、暗い水面を湛えた、寒々とした湖が広がっている。    降りる予定はなかった。それなのに、この駅に電車が止まった時、開いたドアの外の景色に、フラッと引き寄せられ、外に出てしまった。  どうせ、このまま自宅に戻るだけなので、遅くなっても構わないだろう、という気持ちがあった。少し、気持ちを整理したかったこともある。  すぐに、日暮れが訪れる時間だ。この路線の電車は、2時間に1本。降りてしまったからには、ここに2時間、留まっているしかない。  真冬の空は、どんよりと曇っていて、今にも降ってきそうだ。この無人駅の駅舎に扉はなく、冷たい風が吹き抜けていく。    駅舎の後ろは、樹木に覆われていて、さらに後ろの山へと、細々と道が続いている。人が通れるのか?と思うような林道だ。山は高く低く、尾根を連ね、周囲を取り囲んで、駅舎を見下ろしている。  おそらく、周囲に人家は皆無だろう。近くに幹線道路もない。かつて、人が行き来していた道路も、今は水の中だ。  人が降りることは、まったく無さそうなのに、この駅が存在するのは、多分、単線のこの鉄道が、ここですれ違うためだろう。ほぼ同時刻に、上りと下りが、出発するように、時刻表に示されているから。  背にした山に、日が落ちていくため、辺りは既に薄暗い。駅舎にポツンと一つだけ、街灯が灯った。  ポツリポツリと、雨が落ちてきた。慌てて、駅舎の中に入る。と言っても、屋根がわずかに張り出しただけの、バス停みたいな小さな小屋にすぎないが。  傘を持って来なかったことを、少しだけ悔やむ。  その時、林道の方から、木々を掻き分け、砂利を踏む足音が聞こえてきた。こちらに近づいて来る。  思わず、身を固くする。足音の方に、恐る恐る顔を向ける。  大きな荷物を背負った人影が、街灯の下に姿を現した。  帽子を目深に被っているため、顔も年齢も定かには、分からない。背格好からすると、男性のようだ。  彼女は、防衛本能から、駅舎に身を潜める。  雨の音しかしない。動いている気配がない。  詰めていた息を、少しずつ吐き出す。  その時、ヌッと駅舎の中に、男が入ってきた。  思わず呼吸を止める。  電灯の光に晒されて、男の様子が見えた。  背の高い、若い男だった。  雨の粒を払うために、帽子を脱ぐ。印象的な鋭い眼差し、すっと伸びた鼻梁、まだ、幼さが残っている口元は、固く結ばれている。 「あの…、いいですか、ここ?外、雨から雪に変わってて…」  言われて、外を見ると、確かに雪に変わっていた。いつの間にか、雨の音がしなくなっていたことに、気づいた。 「もちろん…どうぞ」  大きな荷物を、床に下ろし、ベンチに躊躇いがちに腰を下ろす。  スマホを取り出し、画面に見入っている。  そうだ…。と思い出して、彼女もスマホを探す。 「えっ?」  電源が切れていた。予備の電源は無い。恐らく寒さのせいで、減りが速かったのだろう。気付かなかった。  寒い。両手を体に巻き付けて、身震いをする。  互いに無言のまま、時が過ぎていく。  その若い男も、不思議そうに、彼女をチラッと見ている。  それは、そうだ。自分のように、登山者以外、この駅に用のある人間はいないはずなのだ。おまけに、今日は大晦日だ。こんな日に、さほど名の知れた山でもない場所に訪れるような物好きは、自分ぐらいだろうと思っていた。  2日前から、山に入り、野営をした。尾根伝いにここまで来て、この駅から上りの電車に乗って、乗り換えた後、都心の自宅に戻る。予定では、年を越す前に、帰宅できるはずなのだ。  反対側のホームに移動するのは、ギリギリでいいだろうと、彼は考えていた。向こうには、雪を遮るものは何も無いのだ。闇に沈んで、もう湖は見えない。  再び、離れてベンチに座る女性に目を移す。    肩よりやや長い黒髪、化粧はほとんどしていないように見える。あるいは、そう見せているのか。白い肌、俯き加減の顎のラインが美しい。伏目がちの目は、長い睫毛に覆われている。ほんのり赤い唇が、椿の花びらを連想させる。落ち着いた様子から、かなり年上なのでは、と彼は判断した。あまり、ジロジロ見ると、警戒される。視線をスマホに戻した。 「ええっ…」  スマホの情報を確認して、思わず声を上げた。この路線の中継駅がある都市では、ここよりだいぶ前に、雪が降り出し、その影響でほとんどの区間の電車が、既に運行停止になっていた。この路線も、運休が決まっていた。つまり、何時間待っても、電車は来ないことになる。  時間を確認する。19時になるところだ。 「まいったな…」  多分、同じ空間にいる、この女性は、運休の事実を知らないのだろう。来るはずのない電車を待って、暗闇を見つめている。    降り続く雪は、止む気配を見せない。  今年最後の夜が、辺りを満たす。
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