朝の秘密

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朝の秘密

 松本佐一という男は、全体つかみどころがなく飄々としている。  何ごともそつなくこなすけれど、何ごとにも熱を持たない。人あたりよくおだやかで、でも腹の中は見せない。どうとも取れる笑みを浮かべて、踏み込む相手をするりとかわす。  張り合わない、こだわらない。どんなときでも熱くならない。俺の知る佐一はそういう男だった。  だからそれを見たとき、ずいぶんと驚いたのだ。  休みの朝はいつも寝坊になる。前の晩に体力を使いはたしているからだ。もぞもぞ寝床から這い出すと、裸の肩から掛け布団が滑り落ちる。素っ裸で寝るなんて前は考えもしなかったのに、近ごろはもう慣れた。というより、佐一とことに及んだあとの俺は、寝る前に何かを身につけるだけの力が残っていない。  脱ぎ散らかした浴衣に手を伸ばしながら、何気なく自分の腰のあたりに目をやる。そのまま、俺は固まった。 「……何だこれ」  腰の周りにくっきりと、大きな赤い(あざ)があった。いや、痣ではない。手形だ。俺の腰を鷲づかみにした大きな手の痕。誰の手かなんて考えるまでもない。  たったいま這い出た寝床を振り返る。どことなく気の抜けた顔で、佐一が眠っていた。  張り合わない、こだわらない。どんなときでも熱くならない。普段の佐一はそういう男だ。けれど、俺との情事のさなかに見せる顔は、普段の彼とはまるでちがっている。  ——千隼、目開けて。俺のこと、ちゃんと見てよ。  昨夜の床で聞いた声、やけに湿ったその声が、耳の奥に残っている。俺の身体を組み敷いて、いちばん奥まで入り込んでなお、足りないとうったえる声。重いまぶたを持ち上げると、いやに必死なまなざしにぶつかる。俺を抱くときの佐一は、何だかいつもこんな顔をしている。  ——大好きだよ、大好き。  ——苦しくない? ごめんね、ゆっくりするからね。  ——千隼、大好き。ずっと一緒にいてね……  腹いっぱいに受け入れて、揺さぶられているのは俺なのに、すがるような声で名前を呼ばれる。子供が親を呼ぶみたいに、何度も何度も。  あいまいな意識の底で、こいつは本当に俺の知っている佐一だろうか、と思う。飄々として熱のない普段の姿に、目の前の男がうまく重ならない。  それでも翌朝、俺の隣で何だか気の抜けた、幸せそうな顔で眠っているのは、やはりよく知った男だった。  くっきりと残る手形に、自分の右手を重ねてみる。大きさがまるでちがうな、といまさらのように思う。細身で優しげな見た目でも、佐一は俺よりはるかに上背があるし力も強い。こうしてみると、それがよくわかる。  無理やり押さえつけられた気はしなかった。互いに好きでしていることだし、佐一はどれだけ余裕がなくても、決して乱暴なことはしない。ただ、腰をつかむ力の加減もできないほどに夢中だったのか、と思うと、どこかくすぐったい気持ちがこみ上げてくる。  何ごとにもこだわらない男が、自分だけに向けるむき出しの執着。その証を見たようで、悪い気はしなかった。  佐一が寝返りを打った。こちらに顔を向け、むにゃむにゃと何か呟いている。やがてぽかりと目を開けて、俺を見た。 「……おはよう、千隼」  寝起きの顔が嬉しそうにゆるんで、そう言った。昨夜の必死な様子は消えて、おだやかな表情だ。幸せそう、とも言えるかもしれない。目尻の下がった笑顔に、俺もおはようと返す。 「身体、しんどくない? ごめんね、昨夜は少し無理させたから……」  起き上がった佐一の目が、俺の腰に留まる。一転、その顔が凍りついた。 「……何それ、俺!?」 「おう、おまえの手の痕だ」  よく見えるように腰を突き出してやれば、なぜかうわ、と両手で目を覆ってしまう。そういえば素っ裸だったと気づいたものの、いまさらそんな、生娘のように恥じらわれてもこちらが困る。おそるおそる手をどけた佐一は、畳を這って近寄ってきた。 「痛い? 痛いよね?」 「痛くねえよ」  嘘ではなく、痛みはなかった。肌に吸いつかれたのと同じで、軽く鬱血しているだけだ。佐一がそろりと手を伸ばしてそこに触れる。長い指が肌をなぞる感触がくすぐったい。 「そっか……でも、ごめんね。こんなに強くつかむつもりじゃなくて……」  声がどんどんしぼんでいって、大きな身体が縮こまる。叱られて耳と尻尾を垂れた大きな犬を見るようで、俺はとうとう吹き出した。 「痛くねえから、気にするな。こんなのすぐ治る」 「気にするよ。千隼のこと大事にしたいし、嫌がることはしたくないから……」  うつむいたまま、ぼそぼそと佐一が言う。しょげた様子がふといじらしく思えて、俺はひょいと伸びあがって、その頬っぺたに唇を押しつけた。目を丸くした顔を真近でのぞき込む。 「嫌じゃない。俺だって、好きでやってる。それならいいか?」  佐一は呆気にとられたように俺を見た。やがてくしゃくしゃの、泣き笑いみたいな顔になって、うん、とうなずいた。  長い腕がおずおずと背中にまわされる。そのままじっとしていたら、大事そうに抱きしめられた。そんなに大事にあつかわなくても、俺は壊れたりしないのに、と思う。余裕なく求められるのも、身体の奥を開かれるのも、少しも嫌じゃない。  知ってるか? おまえが思っているよりも、俺はおまえが好きなんだ。  まだ閉めたままの雨戸の向こうから、にぎやかな鳥の声がする。今日もきっといい天気だ。温かい腕に抱かれたまま、俺はひっそりと微笑んだ。
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