雪兎

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雪兎

 庭に面した障子を立てて冷たい空気を閉め出した。佐一は盆を畳に置いて、長火鉢のそばに寄る。冷えきった手を火にかざすと、指先から(しずく)が落ちた。  部屋の中は静かだった。ぱちぱちと火が爆ぜる音が、ときおり空気を揺らすばかりだ。外からの音が聞こえないのは、雪が降っているせいだろう。白く冷たい薄布が二月の町をすっぽり覆って、すべての音を吸いとっている。昼なのか夕方なのかはっきりしない淡い光が、青白く部屋を染めていた。 「……まだ降ってるか?」  小さな声に振り返る。布団の中から、千隼が大きな目でこちらを見ていた。 「うん、だいぶ小降りになったけどね」  佐一は千隼の枕もとを回って、布団のそばに腰を下ろした。汗で湿った髪を指で梳いてやると、千隼が気持ちよさそうに目を閉じる。朝よりは少しましになったものの、まだ熱が高い。  千隼が目を閉じたまま、見たかったなあ、と呟いた。  めったに降らない八十(やそ)の雪をそんなふうに惜しむのは、彼が雪国の生まれだからだ。故郷の多奈(たな)郡は、いまの時季ならいちめん真っ白な雪景色だろう。せめて都のはかない雪を愛でようにも、熱を出して寝込んでいては、それもかなわない。 「しばらくは解けないよ。熱が下がったら、一緒に庭に出てみよう」 「……うん」  千隼は素直にうなずく。具合が悪いときの彼は、おとなしくて可愛いけれど、可哀想だ。小さな身体で一生懸命病気と戦っている。よく動いてよく食べて、勝ち気で元気ないつもの千隼は、いまはいない。 「ほら見て、千隼」  佐一は畳に置いていた盆を持ち上げた。千隼がよく見えるように、枕のそばにそっと下ろす。盆の上には、大小二羽の雪兎が寄りそっていた。  千隼の熱で潤んだ目が丸くなった。 「この寒い中、庭で何やってるのかと思ったら……」 「可愛くできたでしょ?」  大きな兎は南天の赤い目で、小さな兎を見つめていた。小さな兎の葉っぱの耳はぴんと立ち、いかにも気が強そうだ。千隼が微笑んだ。 「うん、可愛いな。これ、おまえと俺だろ?」 「よくわかったね」 「わかるさ、そっくりだ」  千隼は布団から右手を出して、雪兎の背を撫でた。真っ白な雪に手をのせて、冷てえ、とまた笑う。嬉しそうなその笑顔に、佐一はほっとする。  ——やっと笑った。  今朝から辛そうにぐったりしていて、一度も笑顔を見ていなかった。朝も昼も食べられず、葛湯(くずゆ)を一杯飲ませただけだ。少しは気分がよくなったのだろうか。そうであればいい。  佐一は手のひらで、千隼の熱っぽい頬を包み込んだ。 「ねえ、千隼。俺がいるよ」  大きな(とび)色の瞳をのぞき込む。 「してほしいこと、何でも言って。たくさん甘えて、たくさん休んで、また元気になってね」  ——この雪兎みたいに、いつでもそばにいるから。  鳶色の瞳が瞬いた。千隼はきゅっと目を細めて、安心したように微笑んだ。 「……うん」  そのまま髪を撫でていると、やがて千隼は眠ってしまった。佐一は火鉢からいちばん遠い部屋の隅に盆を置く。明日の朝には跡形もなく解けてしまうだろう二羽の兎は、いまは仲よく寄りそっている。  もう少ししたら、卵を入れた粥をつくってあげよう。暖かくしてよく眠れば、明日にはきっと熱は下がる。そうしたら、二人で真っ白な庭に出てみよう。  佐一は火鉢に炭を足そうと、布団のそばから腰を上げた。
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