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光射す方へ
同じ組に学年首席がいる、というのは入学当初から知っていた。とくに興味もなかったけれど、ほらあいつだよ、と誰かが囁く声にちらりと視線を向けて、驚いた。
俺の胸くらいまでしかない小柄な身体。鍛えてはいるらしく、ひ弱そうではないけれど、とにかく小さい。ほとんど白に近い亜麻色の髪と、白い肌は生まれつきだろうか。
学年首席というからには実技の成績も含まれる。いかつい大男を想像していた俺は、何となく拍子抜けしてその同期生をながめた。
ふと、向こうも俺を見た。勝ち気そうにつり上がった大きな目は鳶色をしていた。
和泉千隼、という名前を知ったのもそのころだ。八十ではなく地方の出身だと噂で聞いた。とくに言葉をかわさなかった俺たちは、ある日の授業で、言葉より先に拳をかわすことになった。
「次、和泉!」
組手で二人ほど勝ち抜いていた俺の前に、あの「学年首席」が進み出た。間近で見るとますます小さい。ほとんど大人と子供だ。勝って当然じゃないか、という思いがちらりと頭をかすめて、俺は内心舌打ちした。
まともに組んだら勝負にならない。逃げ回って隙を狙ってくるだろう。そんな予想はあっさり覆された。二、三度足技の応酬をしたあと、相手は弾丸みたいに飛びかかってきた。
格技場の床に倒れ込んだときには、右肘をがっちり極められていた。こうなってはもうどうしようもない。無駄に痛い思いをする前に、負けを認めて床を叩けばいい。
なのに、そのときの俺は、なぜかそうしなかった。
左手を無理に伸ばして相手の襟をとった。右肘が軋む音がして、怯んだ相手の力がゆるむ。その隙に、俺は力いっぱい相手の頸を絞め上げた。あとは互いに意地だけだ。腕が折れるか気絶するか、どちらが先かというところで、教官の声がした。
「それまで!」
引き分けになった俺たちは、格技場の隅に退いた。うずくまって咳き込んでいる相手に、俺は無事な左手を差し出した。
「立てる?」
大きな鳶色の目が俺を見た。俺の手をつかんだその手も、子供みたいに小さかった。
格技場の床に座り込んで、しばらく組手の続きをながめていた。やがて向こうが口を開いた。
「肩が柔らかいな、おまえ。あの体勢から襟をとられると思わなかった」
声に素直な賞賛のひびきがあって、俺はまた驚いた。成績でいえば格下の相手と引き分けて、腹立たしいとは思わないらしい。とくに興味のなかった相手に、少しの興味と好意を覚えた。
「俺も、その体格で組んでくるとは思わなかった。人を見かけで判断するもんじゃないね」
見下すつもりはなく、そう言った。「その体格」と言われて怒るかな、と思ったけれど、相手は怒らなかった。そうだろ、と得意げに胸をそらす。自分の言葉が真っすぐ伝わることが嬉しくなって、俺は言った。
「ねえきみ、和泉君でしょ? 和泉千隼。綺麗な名前だね。千隼って呼んでもいい?」
男に「綺麗な名前」なんて怒るかな、とまた思ったけれど、やっぱり相手は怒らなかった。うん、とこだわりなくうなずく。何だか楽しくなってきた。変な含みや引っかかりがなくて、竹を割ったみたいに真っすぐだ。すると、
「おまえは松本佐一だろ?」
そう訊き返されて、俺はぽかんと口を開けた。
「何で知ってるの?」
「同じ組のやつの名前くらい知ってる」
ちょっと呆れた顔をされて、なるほど、となった。他人に俺ほど無関心な人間はそういない。なのにいま、これほど熱心に他人との距離を詰めているのはどういうわけだろう、と不思議に思う。
「俺も、佐一でいいよ」
そう言ってみると、相手はまたうん、とうなずいた。そして心配そうな視線を向けてくる。
「じゃあ、佐一。腕、平気か?」
「大丈夫、何ともないよ」
やっと痛みが引いた右腕を回してみせる。そういえばさっき、なぜすぐに負けを認めなかったんだろう、とまた思う。たかが組手の稽古試合だ。意地になることなどなかったはずなのに。
負けたくない、なんてらしくもないことを思ったのは、この勝ち気で真っすぐな同期生のせいだろうか。
千隼がほっとした顔になった。笑うと八重歯がのぞくその顔も、やっぱり子供みたいだな、と思った。
くあ、と大あくびをしたあとで、今が全体朝礼の途中だったと思い出した。案の定、隣の千隼に肘で小突かれる。さらに、その様子を正面から見ていた俺の組の生徒が吹き出した。何だかさんざんな朝だ。
「寝るなよ、佐一。しゃんとしろ」
千隼が低い声で脅しつけてくる。背すじをぴんと伸ばした立ち姿は、伝習生たちのお手本みたいだ。あいにくと、昨夜夜中過ぎまで試験の採点に追われた俺は、同じようにはいかない。
「うん、努力はしてるけど……」
言ったそばから、またこみ上げてくるあくびを噛み殺す。千隼がため息をつくのが聞こえた。
正面に立つ伝習生たちが、俺たちを見てくすくす笑っている。揃いの制服に身を包んだ、生意気で可愛い教え子たち。屈託ない笑顔に、ふとあのころの自分たちが重なる。
進む道は真っすぐに、光の射す方へ続いていた。何だってできる、何にでもなれると、信じて疑わなかった。
あれから九年経って、俺たちはいま、思い描いていたのとはまったく別の場所にいる。進む道は閉ざされて、たくさんのものを失って、たどり着いたのはかつての学び舎だった。
——まあ、これも悪くないよね。
俺は隣に立つ千隼を盗み見る。爽やかな朝の風に、空っぽの左の袖が翻る。
小柄で勝ち気な同期生は、俺の親友になって同僚になって、いちばん大事な人になった。決して折れることのない、真っすぐな強さは昔のままだ。何を失っても変わらない。
思い描いていたのとはちがう場所で、俺たちは生きる。進む道はいまも、光の射す方へ続いている。
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