序章

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序章

 ——夷狗(いこう)の不幸は生まれた時から決まっていた。 「あらぁ、真っ赤なお猿さんがいるわぁ」  嘲笑(ちょうしょう)混じりの声が聞こえた。  直後、夷狗は全身ずぶ濡れとなった。  天気は快晴。高く澄んだ青空のもと、夷狗の周辺にだけ雨が降るなどあり得ない。  それに、全身を濡らす水は生臭く、濁っていた。藻と思われる緑色の物体が混じっていることから、夷狗はこれは池の水であると予想をつけた。  その証拠に、異父姉——麗杏(れいあん)の手には空となった桶が握られている。 (わざわざ中庭から持ってくるなんて、嫌がらせも手を込んできたな)  まあ、持ってきたのは麗杏ではなく、彼女の側仕えだろうけど。  主人が異父妹に池の水をぶち撒け、嘲笑っているというのに側仕えの女は我関せずの態度で後ろに控えていた。夷狗の視線を感じ取ったのか嫌そうに眉間に皺を寄せるとそっぽを向く。 「お姉様、ご機嫌麗しゅうございます」  夷狗は微笑を浮かべながら揖礼(ゆうれい)した。動いた拍子に髪から水滴が滴り落ちる。更に広がる水たまりに(後で掃除しなきゃ)とぼんやり思う。 「喜びなさいな、お猿さん。ご自慢の赤髪がもっと映えていてよ?」  頭上からくすくすと嘲笑が落ちてきた。視線は夷狗が持つ赤髪に注がれている。 「……ありがとうございます。お姉様のおかげですわ」  泣くな、泣いては意地悪な異父姉はもっと喜ぶ。奥歯を噛み締め、笑顔を絶やさぬように夷狗は努めた。  すると麗玉は興醒めだと言わんばかりにそっぽを向く。 「あーあ、なにしても反応しないのね。つまらない」  反応はしない。笑顔でその言葉の先を待っていると夷狗は「あ!」と声をあげた。 「ねえ、お前」  麗杏は夷狗の名を呼ばない。他の異父兄妹達も。産みの母でさえも。  自分は彼らにとって不快な存在だから、できる限り排除したいのだと思う。 「はい、どうかいたしましたか?」 「直接、お祝いをしなきゃと思ったのよ。よかったわねぇ、龍帝のお妃様なんてお猿さんにはもったいないわ」  と、言いながら玉麗の顔には自分でなくてよかったと書いてある。 (私だって、龍帝の妃になんてなりたくない)  龍の国を統べる王、その伴侶とは名ばかり。有り体に言えば、生贄に過ぎない。 「龍帝様のお役にたてるよう、精進いたします」 「いいこと教えてあげるわ。お肉が主食の獣と野菜が主食の獣だと美味しいのは後者でしょう? 人間も同じそうよ」 「……そう、ですか。知りませんでした。麗杏お姉様は博識ですね」  夷狗の褒め言葉に麗玉は、嬉しそうに鼻を鳴らす。 「お前と違って、私は歴とした皇女ですもの。当たり前でしょ」  紅裙(こうくん)(ひるがえ)すと手に持っていた桶を側仕えに押し付け、この場を去っていく。  自信満々な背中が見えなくなると誰もいなくなった回廊で、夷狗は自らの赤髪を握りつぶした。紅薔薇のように深く、夕陽のように鮮やかな赤い髪は忌むべきものだ。  だって、これは母が蛮族に陵辱されたなのだから——。
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