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「——〝おいしい〟と。よかったのう」
にやりと弧を描く目は気持ち悪いものでしかないが、藍影はそれどころではなかった。白慈監修の元、材料の計量から始まった菓子作りは繊細そのもので、少々不器用な藍影にはあまり向いていなかった。卵を割れば殻が入るし、粉を混ぜようとすれば舞い上がり、周辺は白く染まる。隠し味に混ぜる柑橘系の果物の皮を切る工程では指先もみじん切りにしてしまった。温度調整も難しく、第一弾は黒焦げにしてしまい、第二弾は生焼けに。第四弾目でやっと仕上がりになっとくのいくものができたのでよかったのだが、思った以上に菓子作りが困難を極めるものだと知った。
それでも自分が作ったものを「おいしい」と微笑みながら食べてくれることが、こんなにも嬉しいものだとは知らなかった。
長椅子に行儀悪く寝そべる友人の肩を揺すり、興奮しながら紅玉の様子を報告する。友人は緩慢な動きで首だけを持ち上げて、疲れた笑顔を浮かべた。
「……ええ、よかったわね」
「また作るのを手伝ってくれないか? 今度はもっとおいしいと言ってもらいたい」
「いや、それは……」
いつもは明るい白慈の様子に藍影が不思議そうに首を傾げると、少し離れた場所に座っていた玄琅が口を開く。
「おぬしの面倒をみるのに疲れたんだろう。放っておいてやれ」
「こればかりは玄琅の爺に同意だな」
隣に座った朱加も会話に加わった。
心做しか二人とも白慈に負けず顔色が悪い。藍影が心配そうな視線を送ると玄琅が口元を押さえて、目の前にある皿を指差した。
「もうこれは捨てておけ。さすがの儂らでも腹を壊す」
「捨てるのはもったいないから食べてくれ。今までの迷惑料だ。これで許してやる」
迷惑料という言葉に朱加が顔をしかめる。文句の一つをこぼさずに黙って第一弾から第三弾の失敗作を次々と口へと放り込んでいく。
その様子を玄琅と白慈が信じられない目で見守る中、藍影は心の中で自業自得だと冷たく見放した。朱加が余計な言葉を紅玉に吹き込まなければ、くだらないことでこじれるつもりはなかったからだ。
「……青龍よ。儂らが倒れた暁には政務を頼んだぞ」
玄琅も朱加に続いて菓子を口へと放り込む。朱加のように紅玉にいらぬ言葉を吹き込んだとは聞かないが、この曲者爺が自ら苦痛を味わう様子を見るからになにか心当たりがあるのだろう。
藍影は腕を組んで、二人が菓子を完食するのを見守るのだった。
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