メチャイヌの物語~愛を込めて、2023めちゃコミックへ捧げる

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・不遇ヒロインの政略結婚  不遇ヒロインのララ・ムーニュームーは、政略結婚の相手アブリエル・リィ・ウィザードから婚約破棄を言い渡された。 「どうしてです? どうして私は婚約破棄されなければならないのです?」  ララ・ムーニュームーはアブリエル・リィ・ウィザードに詰め寄った。  その強い圧迫を受けてアブリエル・リィ・ウィザードが後ずさりする。ごくりと唾を飲み込んで彼は言った。 「どうもこうもない! 婚約破棄だ、婚約破棄だ、婚約破棄だ!」 「ですから理由を言ってください! どうして私が婚約破棄されなければいけないのですか!?」 この結婚はアブリエル・リィ・ウィザードの方から申し込んだ。成り上がり者の資産家の跡取り息子であるアブリエル・リィ・ウィザードは、没落しているが貴族の家に生まれたララ・ムーニュームーと結婚することで、閉鎖的な上流階級への進出を図ったのだ。  いうなれば愛のない政略結婚だが、ララ・ムーニュームーは満足だった。貧乏には飽き飽きしていたのだ。愛があろうがなかろうが、額に汗して働かず暖かな家でぬくぬく過ごせれば、それでいいのである。  それなのに、突然の婚約破棄だった。納得できるはずがない。 「婚約破棄の理由をおっしゃってください! 何か理由がございますのでしょう?」  純白の絹よりも美しい艶々の頬を朱に染めてララ・ムーニュームーが婚約者いや、元婚約者の男に迫る。迫られた男がまた後退りした。後ろはフェンスだった。それ以上は下がれない。しかもフェンスの後ろは高い壁だった。金網をよじ登って逃げても、その壁を乗り越えるのは無理だ。まあ、フェンスをよじ登って逃げようとしたところで、女に引きずり降ろされるのが落ちだが。  振り返って事態を把握したアブリエル・リィ・ウィザードは観念したかのように別れを告げた女の方へ顔を向けた。 「それは」 「それは?」 「それは……」 「それは、何ですの!」  血相を変えたララ・ムーニュームーに睨まれ、アブリエル・リィ・ウィザードは俯いてしまった。別れ話をするなら空港の駐車場ではなく自分の執務室でやれば良かったと後悔する。あそこなら壁の中に入れる秘密の隠し扉があるのだ。そこから屋敷の外へ逃げ出せるのである。空港へ来るのは、それからでも遅くなかったのだ。 「それはどういう理由なのか、と聞いているのです。お答えくださいませ!」  この窮地を乗り切れるのなら、何だってする。ララ・ムーニュームーと結婚する以外なら……とアブリエル・リィ・ウィザードは思った。 「言えないのなら、こちらにも考えがあります」  ララ・ムーニュームーはハンドバッグから数枚の書類を取り出した。 「これは婚約時に取り交わした覚書です。覚えていらっしゃいますわね」  覚えていないとは言わせない口調だった。アブリエル・リィ・ウィザードは頷いた。ララ・ムーニュームーは折り畳まれた書類を広げた。 「ここには婚約不履行もしくは離婚時の財産分与に関する規定が書かれています。正当な理由のない婚約不履行もしくは離婚が一方的に通告された場合、アブリエル・リィ・ウィザードはムーニュームー家のララ女辺境爵に対し、財産の半分を分与する、と」  アブリエル・リィ・ウィザードは目をひん剥いた。 「んな! ち、ちょ、ちょま、んなバカな、ちょっと、ちょまって、ちょっと待ってよ、そんなのありか!」  女辺境爵ララ・ムーニュームーは平民アブリエル・リィ・ウィザードの鼻先に書類を突き付けた。 「よっくご覧になって、お確かめください」  書類を奪い取ったアブリエル・リィ・ウィザード、その文面を目を皿にして調べた。最後まで読み終えた彼の眼球は上転した。白目を剥いたまま、呟く。 「どうして、どうしてこんな書類を残して死んだんだ、親父よ……」  アブリエル・リィ・ウィザードの手から書類を取り返し、ララ・ムーニュームーは言った。 「お亡くなりになる前に、お義父様にお願いして頂戴したの。こんなことがあるかもしれないと思ってね」  アブリエル・リィ・ウィザードは、この書類の無効を訴える裁判に勝てるか否かを計算した。亡くなった彼の父親のサインがあり、法的に有効な書類で、勝ち目は乏しいと思われた。何しろララ・ムーニュームーは弁護士の資格を有している。しかも遺産相続や財産管理の裁判は大得意だった。裁判を起こして負けたら、その分の裁判費用を上乗せして請求しかねない。  妖艶に微笑む女辺境爵ララ・ムーニュームーを見て、アブリエル・リィ・ウィザードは目を瞑った。 「さあ、どうする? 婚約破棄にする?」  アブリエル・リィ・ウィザードは答えない。その真っ青な顔を見て、ララ・ムーニュームーは腹の中でせせら笑った。  成り上がり者の資産家の跡取り息子であるアブリエル・リィ・ウィザードは、亡くなった父親ほどの能力はない。頼りない息子のことを思い、一代で財を成した父親は自分が死んだ後の備えを怠らなかった。その一つがララ・ムーニュームーと息子を結婚させることだった。  没落貴族の家に生まれたララ・ムーニュームーは苦学して大学を卒業し弁護士として働いていた。まだ駆け出しだったけれども、その優れた手腕を見て、アブリエル・リィ・ウィザードの父親は彼女を息子の結婚相手に、と決めたのだった。  父親の言いつけに背けないアブリエル・リィ・ウィザードは、ララ・ムーニュームーと婚約した。しかし今さっき婚約破棄を告げた……そして現在、その婚約破棄のせいで財産の半分を失おうとしていた。  空港の駐車場の片隅で、突っ立ったまま黙り込んでいるアブリエル・リィ・ウィザードに、ララ・ムーニュームーは苛立った。 「さあ、どうするの? 婚約破棄するの? それともしないの? 今すぐ決めて」 「えっと……」 「何、どうするの? どっちにするの!」 「だから……」 「だから何? 何なのさ!」 「ちょ、ちょ、あの、ちょま、ねえ、ちょっと待って」 「待てない。五、四、三」 「カウントダウンは止めて! せめて、十からにして!」 「二、一」 「わかった、わかったよ!」  真っ赤な目を大きく開き、アブリエル・リィ・ウィザードは言った。 「婚約破棄は、て、て、て」  ララ・ムーニュームーはニヤリと笑った。 「てててって、何よ……ふふふ、撤回、かしら」  そのときである。真っ赤なスポーツカーがタイヤをきしませて、二人の近くに急停車した。運転席から女が降り立つ。女はアブリエル・リィ・ウィザードに言った。 「新婚旅行に遅れちゃいけないと思って飛ばしてきたけど、間に合って良かったわ」  それからララ・ムーニュームーに目をやる。 「この女がいるってことは、まだ揉めてんのね」  再びアブリエル・リィ・ウィザードを見て、彼女は言った。 「政略結婚からの婚約破棄、この流れからのハネムーンだって、あたし言ったわよね。飛行機の窓から地上のララ・ムーニュームーに<ざまあ!>って吐き捨てて終わるラストシーン。それで、あたしの復讐劇は幕を下ろすんだって、言ったわよね」  女は苛立たしげに胸の前で腕を組んだ。 「それなのに、なに! この不手際は! 許せないわ、アブリエル・リィ・ウィザード! それとも、アレなの? そんなにお仕置きされたいの? それとも」  女の美しい顔が醜く歪んだ。 「まさか……その女と、よりを戻そうってんじゃないでしょうね」  アブリエル・リィ・ウィザードは真っ赤なスポーツカーから現れた女に言った。 「誤解だよ、婚約破棄する気でいたんだ! でも、そうすると財産の半分を奪われるんだ! ねえ、ナヘム・ラフリン・ラボイル! 僕はどうしたらいい?   このままだと大変なことになんだ! でも、どうしたらいいのか、わからない。教えてくれ、ナヘム・ラフリン・ラボイル! 僕はどうしたらいいのさ!   教えてちょうだいよナヘム・ラフリン・ラボイル! あ、お仕置きは、その後でタップリお願いします」  アブリエル・リィ・ウィザードを押しのけてララ・ムーニュームーは言った。 「あなたの筋書きだったのね、ナヘム・ラフリン・ラボイル!」  ナヘム・ラフリン・ラボイルと呼ばれた女はグスリと笑った。 「あたしの筋書きとは少し違っちゃったけどね」 ・ライバル女子の黒い活躍  ナヘム・ラフリン・ラボイルは、ララ・ムーニュームーと子供の頃からライバル関係にあった。どんなことで二人は張り合った。学生時代は服や文房具それからテストの成績そして男の取り合い等、何でもかんでも競った。お互いに社会人となり生活の場が変わったことで、その果てしない戦いは終わったかと思われたが――終わっていなかったのである。 「何なの、あなた! どうしてこんなことをしたの!」  ララ・ムーニュームーは激怒した。相手を八つ裂きにせんばかりの憎悪を向けられても、ナヘム・ラフリン・ラボイルは平然としている。 「あんたが憎いからに決まってんじゃない。あんたが幸せになるのは、絶対に許せないの」 「ふざけないで!」 「ふざけてない。真剣にやってんの。あんたが婚約したアブリエル・リィ・ウィザードと関係を持って、きっちり寝取ってやったし、婚約破棄の話も吹き込んだ。ライバル女子の黒い活躍ってやつをバッチリとクリアしたのよ。でも――」  ララ・ムーニュームーはアブリエル・リィ・ウィザードへ向かって唾を吐き捨てた。 「このバカがしくじったってわけさ!」  アブリエル・リィ・ウィザードは悲痛な声を出した。 「そんな、誤解だよ! だって財産の半分が奪われるんだよ! ねえ、そんなの耐えられる? 耐えられないよね? フォウゥ!」  ナヘム・ラフリン・ラボイルは憎々しげに言った。 「あたしの苦しみに比べたら、屁でもないっての」 「そんな、そんな、屁なんて下品な言葉を使わないで! だって君は貴族の家柄なんでしょ! 世が世ならプリンセスなんでしょ!」  そんなことを言いながら変な動きをするアブリエル・リィ・ウィザードの膝に後ろから蹴りを入れ転ばしてからララ・ムーニュームーが言った。 「あなた一体、何なの。どうして私の幸せを奪うの!」  仰向けにすっ転んだ格好で起き上がれずもがいているアブリエル・リィ・ウィザードの顔を踏みつけてナヘム・ラフリン・ラボイルは言った。 「復讐よ、復讐のためよ」  ララ・ムーニュームーが叫ぶ。 「何なのよ、それ!」  ナヘム・ラフリン・ラボイルが負けずに叫び返す。 「誰もが納得できる復讐なのよっ!」 ・納得感のある復讐もの 「私の家は元々、大貴族だったの。国王になる資格さえある高貴な家柄だったの。世が世なら、あたしはプリンセスだった。それが、あんたの先祖のせいで変わってしまった。宮廷内のクーデターで、あたしの家は没落、平民の身分へ落とされた。そして、その地位を奪ったのが辺境爵ムーニュームー家。あんたの先祖の一族が、あたしたちの幸せを奪ったのよ!」  ナヘム・ラフリン・ラボイルは、そんな説明をした。  ララ・ムーニュームーは納得しなかった。 「私には関係ない」 「それだけじゃない。他にもあるの。あんたの家との因縁がね!」  そう言ってナヘム・ラフリン・ラボイルはスマートフォンを取り出した。 「あたしの兄は小説家志望だった。新人賞の公募へ作品を出したり、インターネットの小説投稿サイトへ自作を連載したり、色々やっていたの」  スマートフォンを操作しながらナヘム・ラフリン・ラボイルは話し続けた。 「その小説を酷評されたことでショックで、兄はネトゲ俳人になってしまった。ゲームばっかりして、変な俳句ばっかり詠んでる。とても繊細で優しい兄だったわ……それなのに、酷いことになってしまったのよッ!」 「お気の毒だけど、それが私と何の関係があるの?」 「ここまで言っても分からないの? 兄の小説を酷評したのは、あんた。あんたよ、あんたが悪いのよッ!」  身に覚えが幾つもあったので、ララ・ムーニュームーは少々、うろたえた。だが、顔には出さない。 「そんなの知らない。だからなにって感じ」 「身に覚えがないって言うの?」 「全然ない」  白を切るララ・ムーニュームーに向かって、ナヘム・ラフリン・ラボイルはスマートフォンの画面を見せた。 「ここに投稿されているのが、兄の書いた小説。よく見てみなッ!」 † 第一話 次なる坂道グループの名称候補地の話  権之助坂は東京都目黒区にある。同時に、同じ名の坂が異世界にも存在している。そういう例は他にもある。府中市は広島県と東京都にあるし、パースという名の都市は英語圏の国に幾つか見られる。それが別世界だったということだ。本作品も別世界の話である可能性は否定できない。すべてが妄想の産物であるのかもしれない。それを心して読んでいただければ、と心から願う。  どこかに必ず「雨音」の要素が登場する妄想を投稿してください――というコンテストに出す作品の冒頭で権之助坂を取り上げたのは、ビートきよしが歌った『雨の権之助坂』という楽曲が事の発端となったからだ。今から書く物語の中心人物は、きよしさんの『雨の権之助坂』を聴いて芸能人を志し、無事に芸能界へ入って、そして妙な事件に巻き込まれたのである。  その人物は、そこそこ名の知られたタレントさんなのだが、ここでは名前を挙げることが出来ないので、そこはどうかご了承いただきたい。  ある日その人物は都内某所へロケに出かけた。知らされていた目的地に到着すると、そこは権之助坂から遠くないところにある地下の駐車場である。自家用車で来ていたので、その車内で撮影を待つ。その間、タレントは感慨に耽った。権之助坂が縁で芸能界入りを果たした自分が今、その権之助坂の近くにいるとは到底、信じられない。芸能人になりたいなんて夢、いや妄想が叶うなんて、ビートきよしさんにはどんなに感謝しても足りない……と、そのタレントは思った。そして思い出の曲を口ずさもうとしたらスタッフが「準備が出来ました」と言ってきたので車外へ降りると、大きな箱が用意されている。 「この箱は何だい?」 「今日はこの中に入っていただきます」  本日のロケを担当ディレクターが答える。そのタレントは訝しんだ。 「台本が変わったの?」  ディレクターから台本を受け取り、確認すると記憶していた内容と違う。 「この車から急に出てきて通りかかった人間を驚かすんだと思っていたけど」  高級車の車内から、如何にも暴力団といった格好で現れて、通行人にイチャモンをつけ、実はドッキリでした! という筋書きだと思い込んでいたら違ったわけである。まあ、箱の中からヤクザが出てくるのも悪くないだろう、とそのタレントは思った。自分の愛車をテレビで見せびらかしたい気持ちはあったが、騙された相手がキレて車を蹴るかもしれない。やるなら自分の車でない方が無難である。  さて、タレントが箱に入るとスタッフが声を掛けてきた。仕掛けの現場に移動します、とのこと。場所は地下駐車場の入り口付近だった。真っ暗な箱に入れられたまま運ばれ、下に降ろされる。「雨が降りそうですから、早く始めますね」と言われ「分かった」と答えて撮影開始だ。箱の中でしゃがんだ姿勢でスタッフからの合図を待つ。  ドッキリを仕掛ける相手は一般人ということになっているが、仕込みも用意されている。それほど世間に知られていないタレントが一般人の振りをするわけだ。一般人が期待されるような反応を示すとは限らない。シナリオ通りの、演出された芝居で確実に笑いを取る。箱からヤクザが急に飛び出る、というヘンテコな設定でも、笑いさえ取れれば文句無し。今回も一般人だけでなく、仕込みの売れない芸能人にドッキリを仕掛け、撮影は順調に進んでいた。だが、空模様が悪くなってきた。ドッキリを仕掛けている場所は屋根があるし、箱は濡れても大丈夫な材質だが、次第に空が真っ暗になってきて、自然光での撮影が難しくなりそうだった。  もう一本だけ撮影して終わろう、という話になって、タレントが真っ暗な箱に入った、その時である。急に雨音が聞こえてきた。箱は屋根が掛かっている場所に置かれているはずなのに、雨が箱の上面を叩く激しい音がする。横殴りの雨なのだ。これは想定外の事態だった。  水に濡れても大丈夫な素材で出来ているはずなのに、雨の侵入は防げないようで、やがて箱の底に水が溜まってきた。自前の一張羅のスーツが汚れては大変と、タレントは箱から出ようとしたが、箱の蓋が開かない。さっきまでは簡単に開いていたのに。渾身の力を込めても開かないので、タレントはスタッフの助けを呼んだ。だが、滝のような雨音のせいなのか、助けを求める声が聞こえないようで、誰もやってこない。そのうち靴だけでなく、ズボンまでびしょぬれになった。そのうち、それどころではなくなってきた。箱の中に溜まる水の量が急激に増加し始めたのである。水は腰の高さに達していたが、そこからさらに上昇し、胸まで浸かるようになった。  タレントはだんだん怖くなってきた。川の水位が上がって危険というのは聞くが、箱の中の水位が上がってしまったらどうなるのか? このまま溺死するのでは? いいや、そんなのはありえない、箱の中で死ぬなんて、単なる妄想だ! と思い込もうとしたら、誰かの声が聞こえた。 「死ぬよ」  そのときタレントは自分の入った箱が動いていることに気付いた。箱が流されているのだ! ゲリラ豪雨で自宅の地下に水が溜まり大変な目に遭ったという先輩芸人の悲劇を思い出す。自分の場合、このままだともっと悲惨なことになりかねない!  渾身の力を振り絞ったと先程は思ったが、命の危機となるとその三倍くらいの力が出るようで、箱の蓋がガバッと外れた。外に出ると、危険に気付いたスタッフ数名が駆け寄ってくるところだった。皆、腰まで水に浸かっている。箱から出たタレントはスタッフの手を借りて泥水から助け出された。全員で冠水した地下駐車場を脱出する。かくしてタレントは溺れずに済んだ。あのとき誰かが危険を知らせてくれたからだと、その人物は語っている――だけれども、どうせなら、もっと早く教えてくれれば良かったのに、と恨めしく思わなくもない、とのこと。あの日、雨の権之助坂に行かなければ、高級スーツと高級車は台無しにならなかったはず、と嘆かずにはいられないのだそうだ。 † 第二話 2024年の大河ドラマと関係あり?  日本を代表する随筆家で歌人の清少納言(せいしょうなごん)は、その主著『枕草子(まくらのそうし)』において、こう語っている――夏は夜、と。続いて彼女は(おおよ)そ次のような趣旨の文を記す。  月の奇麗な晩は勿論のこと、たとえ夜空が暗くとも光り輝く蛍が飛び交っていると本当に美しく風情があって素敵。雨の降り止まぬ夜も悪くはない。  簡潔な文体に繊細な感性と優美な気品が感じられ、王朝文学の神髄を見るように思われる。千年にわたって読み継がれているのも、(うべ・むべ)なるかな。彼女の熱狂的なファンの一部に「やっぱり清少納言は凄い! 紫式部? あんなのと一緒にしないで!」と神聖視する者が少なからずいたしても不思議ではない(逆もまた然り)。  そういった信者の方々には誠に申し訳ないのだが【夏は夜】で始まるセクションは、清少納言にしては月並・ありきたり・平々凡々な出来に思える。その前の項目【春は曙】が鮮烈だっただけに深い幻滅を抱いてしまう、とも言えそうだ。  だが、この感想は枕草子が書かれてから約千年後の人間だから思うことだ、とも考えられる。夏の夜に蛍というのは定型的な風物詩で見慣れた文章だが――しかし私は蛍を実際に見たことがない――このイメージを我々に植え付けたルーツの一つが【夏は夜】の節かもしれず、オリジンとなった作品を読んで「夏の夜の蛍、この発想は飽きた」と感じるのは無知な未来人の驕りにほかならない。  それでも何か引っ掛かるので日本古典文学における『蛍』または『ホタル』に関する記述について調べてみると日本書紀や万葉集で既に言及されていた。それに、清少納言が初めて夏の夜の蛍の美しさを発見したわけでもないだろう。夏は夜、というのも当然という気がする。暑い夏の日中より涼しい夜が過ごしやすいのだし、月という自然物は太陰暦だった時代の夜を語る上で無視できない存在だろう。  安直すぎる、と思わずにいられない。どうして清少納言は、私如きに嘲笑される【夏は夜】という素材を選んでしまったのだろう? 当時の宮廷人は、これを何とも思わなかったのか? どいつもこいつも馬鹿だったのか?  そんなはずがあるわけない。私は何か、考え違いをしている。  平安貴族を感動させた理由が【夏は夜】にあるはずなのだ。  清少納言の曽祖父とされる歌人、清原深養父(きよはらのふかやぶ)は以下の和歌を残していた。  夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ  この歌は小倉百人一首に選ばれており、平安人なら知っていたことだろう(現代人の私は知らなかった)。清原深養父の曽孫が書いた文章に【夏は夜】とあれば、同時代人は上記の和歌を思い出すはずだ。血縁関係にある二人の詩情が時代を超え読む者の心中で共鳴した結果が、枕草子の高評価をもたらした可能性はある。  白居易(はくきょい)(白楽天(はくらくてん))の作品から取り入れた要素が効果を示したのかもしれない。中国の詩人である彼が当時の宮廷文化に与えた影響は、英国人ロックバンドずうとるび間違えたビートルズ日本上陸に比肩する。白居易の詩文集である白氏文集(はくしもんじゅう)に収録された彼の代表作、長恨歌(ちょうこんか)の中に「夕方の宮殿を蛍が飛んで……」といった文章があり、これはほぼそのまま紫式部の源氏物語に採用されたが、枕草子の読者も「あ、この蛍って元ネタは長恨歌じゃね」と深読みして楽しんだように思われる。  和漢両面からのアプローチで【夏は夜】の価値は高められたのだ……とこじつけてみたが、自分を納得させるのさえ難しい。  【夏は夜】の魅力を説明する際に清原深養父に関する理由付けは、話の持って行き方によっては使えないこともないだろう。  白居易に関しての筋立ては弱い。一般読者には通じたかもしれないが、清少納言が仕えていた貴人、中宮(ちゅうぐう)定子は、この程度の引用では納得しなかったはずだ。  香炉峰(こうろほう)の雪のエピソードから察せられるように、中宮定子は白氏文集に詳しい。博識な清少納言と語り合うレベルの知識はあったはずで、そうだとすれば定子は、もっと濃くて深い話題で興奮したかったと思う。  私には、その気持ちは理解できるような気がする。ミーハーな宮廷文化人は男女を問わず白居易について語りたがるけれど、詳しくは知らない。定子の知的興奮が掻き立てられるほど漢学の素養がある女性は、清少納言だけしかいなかった。定子は漢籍について清少納言とドップリ語り合う機会があったはずだ。それが枕草子の下地にあるのでは? と感じられた。  文学少女に限らず各種のオタク同士が一般人には理解しがたいディープなネタを熱く語り合うような、そんな関係である清少納言と定子の二人が身分の違いを越え長恨歌とかの漢詩や史記などの歴史書を語って語って語り尽くし、それでもなお、話し足りない夏の夜のこと。 「少納言」 「何でございましょう?」 「長恨歌って、凄く良いよね……」 「はい、とても素敵でございます」 「漢文について、こんなに語り合ったの、私、生まれて初めてよ」 「私も同じでございます」  二人が心地好い疲労の混じった興奮の表情で外を見れば、二匹の蛍が闇夜を飛び交っている。短い夏の夜に、短い命を精いっぱい燃やして輝く蛍二匹を見つめていた定子が、少納言に笑顔で語りかけた。 「私たち、いつまでもこうして文芸について語り合いましょうね」 「……喜んで!」 「それを聞いたら何だか飲みたくなってきたわ。そこら辺の縄のれんで、一杯やりましょ」  定子の体内に流れる父親譲りの酒豪の血が騒ぎ始めたようだ。清少納言は酒飲みが大嫌いだが、そこは宮仕えの悲しさ、嫌でも付き合わざるを得ない。やけっぱちになって先程と同じ言葉を繰り返す。 「喜んで!!」  かくして二人は行きつけの飲み屋へ繰り出すのであった、めでたしめでたし。  そんな馬鹿な話あるかよ! と自分でも呆れてしまうわけですが、もしもあったら楽しいですね……と妄想していたら、思い付きました。  定子と清少納言は白氏文集に収録された長恨歌の二次創作作品を、おそらく漢詩の形式で書いていたのではなかろうか、と。  合作か競作か、それは分かりません。執筆に至らず、構想段階で終わった可能性もあります。ですが、二人が二次創作を話題にしたことは絶対にあるでしょう。後の話ですが紫式部は長恨歌を元ネタにして源氏物語を書いています。ただし紫式部は和文で書きました。一方、定子と清少納言は漢文で書こうとします。宮廷文化をリードしていた二人ですから、本格的な漢詩で二次創作しようという発想に至っても不思議ではないと思うからです。ただし、その試みは公に出来ないものでした。女性が漢文を書くことは当時、好まれなかったのです。  清少納言と同レベルの才女で漢文の知識もふんだんにあった紫式部ですが、清少納言と違い、その知識をひけらかすことは避けていました。賢さを隠さないと異性からは勿論、同性からも嫌われてしまうのです。清少納言は他人から憎まれても気にしない強気な性格だったようですが、紫式部は実態はともあれ表面的には弱い女を演じていたみたいですから、出る杭は打たれないよう長恨歌の二次創作を書くにしても和文で書きます。しかし、清少納言は、そして彼女の文学的同志である中宮定子は、あわよくば本家中国の詩人たちにも称賛される和製漢詩の最高傑作を作り上げたいと願いました。中宮だ皇后だ、といったところで自由に羽ばたけない籠の鳥みたいなもの、しかし芸術品は違う。優れた作品なら大海原を越えて何処までも飛んで行ける! と二人は考えたような気がします。  ですが、二人の願いはかなえられませんでした。  定子が二十四歳の若さで亡くなったからです。最高の共作者を亡くした清少納言は、漢詩制作の意欲も失ってしまいました。彼女は定子との楽しい思い出を綴った書物の完成に全精力を注ぎます。その書物が枕草子でした。  そんな妄想が思い浮かんだのですけど、もしかしたら本当に中宮定子と清少納言の主従二人が合作した日本版長恨歌があったのかもしれませんね。あったかどうか分かりませんが……清少納言に負けず劣らず性格の悪い紫式部が読んだとしたら、それが大傑作であっても絶対に褒めず、けちょんけちょんにけなす――これだけは確実です。 † 第三話 熱いシャワーとポイズンと、よく灼けた妻の肢体  女房と畳は新しい方が良いと言うが、畳はともかく女房の年齢に不満を感じたことはない。私が嫌なのは妻が持参金を持たずに嫁いできたことだ。正直に言うと、殺してやりたいくらい腹が立っている。だが、殺すと妻の実家が私に報復するだろう。本当に苛立たしい。前世は良かった。妻の持参金が少ないことを理由に、何人も何人も妻を殺した。今の世界に転移する前の私は、妻を焼き殺す名人と世間から称賛されたものだった。生焼けの遺体を上手に焼き直し骨も残らぬ真っ白な灰まで完全燃焼させると! それなのに、現世は悲惨なものだ。女房一人焼き殺すこともできないなんて、こんな世の中にポイズン! それはさておき、私が現在いるこの異世界は女房を焼き殺すと夫が処罰されてしまう。これは如何(いかん)ともし(がた)い事実として受け入れるほかないだろう。もっとも『女房を焼き殺した夫を無罪にする党』を結党して選挙に出たら供託金が返ってくる程度の得票率は稼げるのかもしれない。ただし、妻の実家が私に不信感を抱くのは必至だ。私が手広くやっている事業は、義理の両親の名前を事あるごとに出さなければ破綻する。認めたくないが、彼らの支援無くして、今の生活は維持できないのだ。あいつらさえいなければ、妻を焼き放題焼けるのになあ。でも妻を焼いたら私も焼かれかねないし……と煩悶の日々だ。異世界の日本を裏で支配する宗教団体の顔役が義父母というのも善かれ悪しかれだと思わざるを得ない。しかし、そんな現実は何とか飲み込めるとしても、だ。女房に関して受け入れ難いことがある。妻は奴隷商人から買い漁った臨月の妊婦の腹を裂いて取り出した胎盤で新鮮な自家製プラセンタ美容液を作るのが朝の日課だ。早朝から妊婦や胎児の血の匂いを嗅がされる、こちらに身にもなってほしい。毎朝毎朝、悲鳴と悪臭で目覚めさせられるのだ! 睡眠不足や心のストレスは美容の大敵だ。そのおかげで目の下に赤い染みが出来てしまった。赤い涙が流れているように見え気色悪くて鏡を見るのが辛い。悩ましい問題が他にもある。私の稼ぎで無駄遣いするのは、絶対に止めてほしい。極貧層が全人口の約八割を占める異世界の日本では人身売買の相場が他国より安いとはいえ、超円安のため外国人旅行者が土産代わりに日本人奴隷を爆買いするから値段が上昇中だ。私は雑貨輸入業なのでインバウンド消費での潤いから遠い場所にいる。このままでは「妻の美容代のせいで破産する」なんて笑い話が現実のものとなりかねない。妻のせいで私の人生から笑顔が消えつつある、と言っていいだろう。だから、妻を殺したい。いいや、ただ殺すだけでは飽き足りない。生きたまま焼き殺すのだ! ああ、女房を一刻も早く焼き殺したい。  苛立った神経を癒すため執務室のソファーに寝転び大好物の焼肉を一人からでも楽しめる店をスマホで検索していたら突然ドアが開いた。ドアを開けたのが誰か、見なくても分かる。我が家の使用人は皆、絶対に扉をノックする。作法というものを知らぬ野性人は、この家に一人だけだ。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  どうして異世界転移男子は誰も彼も無能なのか? レベル99だとかチートクラスだとか元英雄とか元魔王とか最強ステータスがどーしたこーしたと、能書きは立派だが実際の中身は成年後見制度の利用者かと疑うレベルだ。現実世界で通用せずファンタジーに逃避してきた人生の落伍者なのだから過度の期待は禁物とは思えど、酷すぎる。脳味噌の皴に妖精さんが巣くって神経を寝床にしていないかどうか頭をカチ割って調べたい衝動に駆られるから困ってしまう。異世界からの転移者である我が夫も例外ではなく、眺めていると腹が立って殺人衝動に突き動かされるから厄介だ。この世界と私にとって夫が転移してきたことは癌の転移と同じくらいの不幸なのは間違いない。そしてソファーに横たわる夫の姿を見ているだけで、この世界に転生してしまった我が不運を嘆かずにいられない。同じ生まれ変わるのなら夫がいない世界が良かった。見た目がキモい奴と同居なんて耐えられない。夫自身は自分をルックスが良いと思い込んでいるところも悲惨だ。見ているだけ心が痛くなって、こっちの方が辛くなる。辛すぎて泣けるくらいに。  そんな私に夫が「どうしたの?」と具合を聞いてきた。  涙ぐむ私を気遣うほどのデリカシーを夫は全く持ち合わせていないので、これは演技だ。私のご機嫌を取ることが、夫の仕事のすべてと言っていい。私の両親からの経済援助が無ければ、彼の事業は終わるのだ。私が離婚を言い出したなら、この邸宅からも出なければならない。この屋敷は持参金の代わりに私の両親が建ててくれたのだ。経営者としての地位も自宅も他の財産も全部が、私あっての物。それを理解するだけの知能はある、と少しでも前向きに考えないと気が滅入ってしまう。 「僕にできること、何かないかな? 君の力になりたいんだ」  ソファーから体を起こしたキモ夫がキモい作り笑顔で私を見つめるものだから、背筋がゾワッゾワした。口を利くのも嫌だが用を伝えないといけない。それでも、不用意に近づいてはダメ。夫の側に寄るときは十分に呼吸を整えないと過換気発作を起こしそうになるからだ。  ストレスでこっちの精神が参ってしまいそうなのに、夫は自分に原因があると気付いていない。ソファーから立ち上がり、ドアを開けたまま動けずにいる私に近付いてきた。来るなボケ、ぶん殴るぞ! と叫びたいけど、キモいオタクのファンを相手にしたアイドルみたいに爽やかな営業スマイルを必死に作って執務室に入る。悪趣味な調度品が並ぶ夫の仕事部屋は異様な芳香剤の悪臭と男の体臭で臭かった。吐き気がして朝食に食べた新鮮な胎児の生肉が胃の中から食道へ込み上げてくる。そんな私に夫が顔を寄せ「本当に大丈夫なの?」と訊いてきたものだから、口臭がきつすぎてマジ勘弁。そのまま嘔吐物(ゲロ)を顔射するところだったけれど、鍛えた腹筋と横隔膜で抑え込む。頑張れ私、早く終わらせるんだ! トラブルなく思いを伝えるため、笑いを作れ! おっと、ほうれい線の出現を予防するための笑顔を忘れるなよ! それから口を開けても戻すなよ! と自分に言い聞かせて話を始める。 「大丈夫よ、ちょっとお話があるのだけど、よろしいかしら?」 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  妻は朝食前後に運動(エクササイズ)を欠かさない。敷地の一角にある陸上のトラックを走り、ジムで強度高めのウェイトマシントレーニングをやってから、紫外線カットガラスのサンルーム付き50メートルプールを十何往復もして、最後にヨガで締めるまでが一セット。これを五セットやって朝食そして食後の腹ごなしとして同じルーチンを二セットやる。午後は日本軍の暗殺者養成学校や米軍特殊部隊群の格闘技教官とのスパーリングだ。そして週末の夜は都内某所の地下コロシアムで開催されるルールなし殺人ありの天下一武道会に出場し、腕自慢の男たち相手に殺し合いをやって、毎回優勝している。殺した男の首をねじ切り赤い髪をなびかせながら高く掲げる姿を配信動画で見るたびに、私の女房は化け物かよ、と怯え震え上がっている。そんなわけで、鍛え上げられた肉体は頑健そのもの、怪我や病気とは縁のない妻だが、それでも体調不良の日はあるようで、今朝は具合が悪そうに見えた。気分を尋ねると大丈夫と答えたものの、やはり調子が悪いようで、額に脂汗が浮かんでいる。  変な感染症じゃないだろうな……と警戒していたら、妻が言った。 「大丈夫よ、ちょっとお話があるのだけど、よろしいかしら?」  私が返事をする前に、妻は嘔吐した。物凄い勢いで、物凄い量の嘔吐物が妻の口や鼻の穴から噴出する。放出された嘔吐物は、もしもの事態を想定し妻と距離を置いていた私の頭上を超え、天井にぶち当たって散乱した。天井から降ってきた大量の嘔吐物が私の全身に降り注ぐ。お気に入りだったスーツが、これで台無しだ。妻が着ている紺色の上下セパレートのフィットネスウェアも汚れたが、私と被害額が同じとは到底、思えない。  血圧が急上昇し目の血管か何かが切れたようで血の涙を流しながら妻は言った。 「汚れたからシャワーをお借りしますわ」  自分の部屋あるいはトレーニングジムのシャワー室ではなく、私の執務室にあるバスルームのシャワーを、妻の嘔吐の被害者である私より先に使おうというのだ。さすがに文句を言いたくなったが、妻の口から半分くらい消化された人間の胎児の顔が出ているのを見て気持ち悪くなり貰いゲロをしそうになったので、頷くだけにした。  妻は、いつも右手に嵌めている黄色い手袋を外し、それをソファーの背もたれの上に置いてシャワー室へ向かった。女房がバスルームの中へ消えると、私は卓上に置かれた電話の受話器を取り上げた。直ちに部屋の掃除をするよう使用人に命じるためだ。受話器を取り上げれば、すぐに執事の部屋につながる。 「どうなさいました?」 「いや、間違えた」  そして私は受話器を電話機に戻した。執事に清掃を命じるつもりが、別のことを言ってしまったのは、なぜか? 受話器を持つときには考えもしなかったことが思い浮かんだためだ。今すぐ殺そう! という思いが、夏真っ盛りの空に湧く黒い雲のように心の中に広がった。木製タイルの床一面に散らばる妻の嘔吐物を見ているうちに、人の皮をかぶった、あの畜生への殺意を抑えられなくなったのだ。妻の胃から出てきた嘔吐物には、胎児の肉片が大量に混じっている。加熱すると栄養分が失われるとかで生のまま丸呑みするため、最初のうちはまだ生きて動いている胎児もいたが、そのうち全員が動きを止めた。それを見ていると、怒りが湧いてくる。こんなことのために、この世に生を受けたわけではあるまいに。  私は妻が残していった黄色い手袋を自分の手に嵌めようとした。頑張ってみたが、きつくて入らない。とても残念だ。この黄色い手袋には尋常ならざる魔力がある、と私は睨んでいる。妻は昨年のゴールデンウィーク中に北海道へ渡り大雪山系で単独の高地トレーニングをしたのだが、そのときヒグマのオス四頭を素手ゴロで屠った。どれだけ体を鍛えても、人を食べることのある羆を倒すのは人間の技では無理というものだ。そうなると、何か秘密があるはず。そこで私は妻が常に身に着けている黄色い手袋に秘密があると考えたのだが……実をいうと何の証拠もない。あの黄色い手袋で妻は妊婦の腹を切り裂き胎盤と胎児を取り出すので、指先にメスのような鋭い刃が仕込まれているのかもしれないが、それでヒグマを殺せるのか? 分からない、何も分からない!  それでも私は妻が黄色い手袋を外して入浴中の、この好機を逃す気はなかった。私の決断が遅ければ遅いほど、世界は悪くなるのだ。魔女は焼き殺すべし。  世界的な食糧危機と飢餓の常態化は人々の意識を大きく変えた。辛い現世ではなく来世に望みを託そうという思考が一般的になったのだ。それを促したのが、私のような異世界からの転移者あるいは妻のような異世界からの転生者の存在である。この現実世界から離れ、ファンタジー小説みたいな異世界へ旅立とうとするバックパッカー型自殺者の急増を、賢い人たちは見逃さない。その屍肉を食べ弱った日本を応援しよう! というプロジェクトが大手広告代理店から打ち出された。具体的には自殺しやすい低所得者層に向けた輪廻転生思想の普及から始まった。良い身分に生まれ変わりたいのなら、下層民は自分や自分の子供の肉を上流階級に差し出しなさいと学校や職場そして地域で啓蒙する運動は頭の弱い一般大衆に広く受け入れられた。上級国民には特に何もせずとも受容された。彼らは元々、貧乏人の肉を食っているようなものだからだろう。国内の上下ともに高い意識でまとまったので、国会も裁判所も高級官僚も反対することなく憲法が改正され、日本は人肉常食を認めた世界最初の近代国家となったのである。しかし内心では反対する者はいた。異を唱える者はサタンとして処刑されるので沈黙を守っているが……例えば私がそうだ。異世界からの転移者として言わせてもらおう。上流階級に食べられたら来世では上流国民になれるだって? そんなわけがないだろう! ファンタジーの世界を馬鹿にするな、と言いたい。本当の異世界は、そんなに甘くないのだ。妻の胃袋から吐き出された胎児だって、そんなに甘くて美味しいものではない。食用に適さないものを無理して食べるから吐いてしまうのだ。  何より、子供たちには大切な未来がある。  私は日本の将来を担う子供たちに言いたい。  男の子なら、大きくなって結婚して、妻を焼き殺しなさい。  女の子なら結婚後、夫に焼き殺されるのです。  そんな素敵やんな未来、人類にとって、とても大事な将来があるのに、どうしてここで妻に食べられなければならないのか? 納得できない。酷すぎる。  子供たちのために、妻を焼き殺さねばならない。  こういうことがあろうかと、妻が使っているバスルームには細工を施してある。こちらの操作で換気扇が逆転し浴室内に無味無臭の可燃性ガスが充満され、そこにシャワーノズルから火炎が放射されるのだ。  シャワーが火炎放射器になるだけで十分じゃねえのか? と思った、おい、そこのお前。お前は考えが甘い、甘すぎる。私の妻の反射神経は獣以上だ。シャワーの炎から瞬間的に飛び退く。しかし、浴室内に充満した可燃性ガスの業火から逃れることはできない。炎が妻の体を包むのだ。  勿論そんなことをして、ただで済むはずがない。私は女房殺しの罪に問われるだろう。だが、もう、それで構わない。妻や、妻の実家の顔色を窺って生きるのは、もうたくさんだ。死刑になりたい。どうか早く死刑にしてほしい。そして新たなる異世界へ転移する。そこは妻を焼き殺しても罪に問われない世界だ。元いた世界に戻るのも悪くない。やり直す。人生を、やり直す。やり直すのだ。生焼けの人生を焼き直してやる。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  吐いたら気分は落ち着いた。熱いシャワーを浴びて火照った私の体から汗が水滴となって滑り落ちる。溜息も零れ落ちていく。年齢の割に皮膚の張りはあるのだが、それでも衰えを感じない日はない。どれだけ転生を繰り返したら、永遠の美と若さを保てるようになれるのか? 曇ったガラスを手で拭く。見た目は若い。まるで少女のようだ。私は濡れた赤い髪を指で梳いた。滑りが悪い。駄目だ……と肩を落とす。キューティクルの一つ一つが老いている。どれほど美容に気を遣っても、エクササイズを頑張っても、加齢を食い止めることはできない。  気にしすぎだとか、そんな風に考え込むから老化してしまうのだ、なんて説教は聴きたくない。私は異世界からの転生者だ。その辺の一般人と一緒にするな。私の人生は特別なのだ。考えてから物を言えバカ。  そう、この世界での私の人生は特別なものだと思う。日本を影から支配する巨大宗教組織の顔役が両親だなんて、今までの転生生活と比べても恵まれている方だ。美容と健康のための人肉食も元悪役令嬢の私にあっている。それでも今の美と若さを保てなくなりつつある。ここが限界なのだ。後は衰える一方だろう。つまり、今の世界は最早(もはや)、私の期待に添うことができないということ。自殺して新しい異世界へ向かう時が来たのだ。  先程、私は夫に別れを告げようとした。大嫌いな人間だが、それでも夫であり、何も言わないのは良くないと思ったのだ。夫の事業への援助は続けるよう、両親への遺書には書いておいた。一人ぼっちが寂しそうなら、良い相手を見つけてあげてほしい、とも綴った。その人が私より彼を愛してくれる人ならいいな、と願わずにいられない。その人と一緒に結婚生活をやり直して欲しい、とも。  ふと、思った――あれほど嫌いな人間の幸せを祈るなんて、おかしい、と。  それはきっと、私が希望の未来へ向けて踏み出そうとしているからだ。私が幸せになるのだから、夫にも幸せになってもらいたい。  二人が初めて肌を合わせた夜を思い出した。肌寒さを感じた私は、優しい温もりを求めてシャワーのコックをひねる。 † 第四話 リズ・トラスって誰だっけ?  十九世紀中葉を生きた我らの先祖に「今までに見聞きした中で一番の大事件は何ですか」と尋ねたら十中八九、黒船来航と帰って来るはずだ。それがどれほど衝撃的だったか、令和の時代を生きる我々には想像すら出来ない。黒船が来航した一八五三年から大政奉還まで十四年である。かくも猛スピードの大変革は、それまでの日本史にはなかったし、その後も起きていない。黒船ショックの大きさを物語るといって構わないだろう。その一方で、ペリー来航から明治維新までの歳月より長い平成時代は、人々に危機感をもたらすショッキングな事件が何も起こらなかったので、何の変革もなく終わった……と書いたところで思い出した。世界第二位の経済大国だったのに中国に抜かれ世界第三位のランクダウンしたというニュースを十年位前に耳にした記憶がある。結構ショックだったように思うが、私は特に何をするでもなく、その後の人生を過ごした。二百五十年以上にわたる泰平の長き眠りから目覚めるや否や猛烈に働き出した昔の日本人と比べ、何と怠惰なことよ……と呆れたところで何の解決にもならない。嘆いている暇があるなら、ここに投稿するより生産性の高い活動をすべきだろう(笑い)。  ただ、当時の状況を鑑みて思うことがある。幕末の日本人が目覚めた直後から大車輪の活躍が出来たのは、彼ら彼女らの寝起きが素晴らしく良かったというだけではない。日本の夜明け前に早起きしていた先覚者がいて、改革の下準備をしていたためでもあるだろう。それは蘭学者と呼ばれる知識人たちである。彼らは蘭学つまりオランダ語で書かれた文献を研究することで海外事情に通じていた。鎖国下にある江戸期の日本人にあっては、かなり特殊な集団と考えてよい。そんな彼らをマジでビビらせた事件がアヘン戦争(一八四〇~一八四二)での清の大敗だ。東洋の超大国である清が海を越えてきた英国軍になすすべなく敗れ領土を奪われたのならば、清より国土が遥かに小さく国力も弱い日本など瞬殺される――と書いたが、これはザ・ファブルの真似ではない――こっちの文章の『――』は真似だ――それはともかく蘭学者たちが抱いた恐怖心は徳川幕府中枢にも波及し、諸外国からの開戦理由になりかねない異国船打ち払い令を撤廃したが、その程度の政策変換だけで終わってしまったために、たった四隻の蒸気船に幕府はビクつき、外様大名に舐められ、そして滅亡に至った……と、ここまでが話の枕で、こっからが本論。  清が英国に奪われた領土、それが香港だ。アヘン戦争後に締結された南京条約で香港島と、アロー戦争(一八五六~一八六〇)の勝利で確保した九龍と幾つかの島々が永久領土で、それに加えて一八九八年に清から九九年の期限で租借した租借地の新界地区から構成されている。  租借とは国家間の土地貸借を意味し、借りたものは返すという一般原則に従う。九九年の借用期限が来たなら英国は、かつての清に代わって中国大陸部を統治する中華人民共和国に新界を返却しなければならない。  英国は中国に新界を返す気など毛頭なかった。租借期間延長を申し出る。しかし中国は難色を示した。租借期間延長は認めない、というのである。  そればかりではなかった。  中国は香港島と九龍及び島嶼部(とうしょぶ)つまり英国の永久領土にされた土地の一括返還を主張した。要するに全部、何もかも返せ! というのである。  その伏線はあった。中国は事あるごとに香港の返還を求めてきたのである。英国は相手にしなかった。香港は英国の永久領土であるだけでない。アジア経済の中心地である。エンターテイメントの分野では香港映画という一大ジャンルを築き上げた。東西の経済や文化の懸け橋として香港に勝る土地は地上になかったのだ。それを共産主義国家に譲渡したならば、英国に対する同じ資本主義陣営の同盟国からの信頼が失墜することになりかねない。従って英国は中国からの返還要求を突っぱねてきたのだ。  その強硬姿勢で今回の租借期間延長交渉に臨んだ英国は、それ以上に強硬な態度を示す中国に困惑した。  中国側の言い分は、こうである――香港も九龍も新界も、中国が喜んで譲渡したのではなく、戦争で無理やり奪われた土地だ。それを取り戻すことは全中国人民の悲願なのである……。  交渉は続けられたが、双方の主張は平行線のままだった。官僚レベルの話し合いでは問題解決は困難であるとの見解だけは一致し、英中首脳のトップ会談が開かれることとなった。  当時の英国首脳は、マーガレット・サッチャー。同国初の女性首相で“鉄の女”の異名を持つ。どのぐらい強面(こわもて)かというとフォークランド紛争の際、西側諸国内での戦争を回避すべく調停に乗り出すアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンからの自重の求めを蹴ってアルゼンチン軍に決戦を挑み、これを打ち破ったほどだ。冷戦時代末期の資本主義国リーダーの中でもタカ派中のタカ派といってよい。  中国からは最高実力者の鄧小平(とうしょうへい)が出席した。肩書は中央軍事委員会主席。偉いのかそうでないのか、分かりにくい肩書といってよかろう。だが彼の実力は肩書だけでは計り知れないものがある。数多いライバルを蹴落とし二度の失脚から復活して十億を超える中国人民の頂点に立った。身長150センチだが、その頭脳と肝の太さは大巨人のそれと変わらない。  アヘン戦争から百年以上の歳月を経た一九八二年、英中両国の首脳は北京で会談する。双方とも自らの主張を曲げず、交渉は決裂するかと不安視されたが、最終的には香港の中国返還で妥結した。英国の敗北である。  平和的な香港返還が不可能ならば、鄧小平は軍事的な奪還を辞さない構えだった。フォークランド紛争の勝利で味を占めたサッチャーは、そんな脅しに屈しない! かと思いきや、とある事情で屈服を余儀なくされる。  香港は水資源に乏しく中国から水を輸入していた。もし中国が香港に水を輸送するパイプラインを遮断してしまえば香港市民はことごとく脱水症となり、英国軍は中国人民解放軍と相対する前に水不足と戦わねばならなくなる。英国側に勝ち目はなかった。  しかし、これでは大英帝国のプライドがズタズタだ。そしてサッチャーが手にしたフォークランド紛争の武勲が台無しになってしまう。完全敗北では国へ帰れぬサッチャーに、鄧小平は北京でしか手に入らぬ土産を用意した。一国二制度という聞き慣れない政治システムが、それである。  一国二制度とは、簡単に言うと――中国は共産主義だけど中国に支配される香港は資本主義でオーケー! という意味である。そして鄧小平は香港の「今後五十年間にわたる高度な自治」を約束し、サッチャーに妥協を促した。この二つが最終的な落とし所となる。一九八四年、英中共同声明で、香港の中国返還が全世界に公表された。そして一九九七年、英中両国の合意に基づき香港が中国に復帰する。中国は百年以上前からの悲願を達成し、英国は大英帝国の時代から残る最後の植民地を喪失したのだ。  今年は香港返還二十五周年である。鄧小平はサッチャーに「今後五十年間にわたる高度な自治」を約束したが、その約束が守られているのか? というと、はてなマークが付くように思える。  香港の行政トップは北京の傀儡(くぐつ)である。中国共産党の代理人が権力を握り民主派を弾圧しているのだ。それでも「高度な自治」なのか? と鄧小平&サッチャーに尋ねたいが、両名とも既に故人である。  鄧小平に約束を守る意思があったのか、それは分からない。だが、その後継者が現在の香港で行う政治を見る限り、約束は無効になったと考えざるを得ない。そしてサッチャーが鄧小平の約束を本気で信じていたのか、それも分からない。だが、思うところはある。そもそも「高度な自治」とは何なのか? その正体がつかみきれない。英国統治時代の香港に「高度な自治」があったのか? という疑問もある。もしも「高度な自治」があったならば、英中間で返還合意を結ぶ前に香港人による住民投票が実施されていただろう。住民の意思に関係なく決められた返還合意に正当性があるのか? 民主主義的なプロセスを経ない決定を香港人に押し付けるのは、香港を植民地としか考えていない英国の傲慢さの表れだと私は思う(「高度な自治」を香港人に与えなかった英国が中国には「高度な自治」の履行を求める偽善は英国人らしい皮肉の効いた上質のブラック・ユーモアであると高く評価するが)。大体にして、当時の香港のトップは英国から派遣されてきた総督である。これでは総支配人の派遣元がロンドンから北京に変わっただけ、な気がしないでもない。  これは想像の域を出ないが……サッチャーは鄧小平の約束を信じたわけではないだろう。自分の面子と大英帝国のプライドを守るため、信じるふりをしただけだ。一九八四年のあの日、英中首脳が交わした約束は、約束ではなかった。お互い最初から守るつもりのない約束など、約束でも何でもない。それでは一体何なのか? 空約束だ。  続いて、これまた私の思い込み、または単なる感想なのだが……返還後の香港は空気が途轍もなく重い。鄧小平が始めた改革開放の流れで中国本土が発展し、それに合わせて香港も発展していると思うのだが昔を知る者からすると、何だか悲しくなるし、寂しくなるし、切なくなる。これは私だけが感じる思いで、きっと単なるノスタルジーだと思うし、そもそも行ったことがないから往時の香港を知っているわけではないのだけれど(知らないのかよ)。  これは私が香港と日本の昔日の繁栄を忘れられずいる、または今その二国家の姿を重ね合わせて見ているから、そう思うのかもしれない。あるいは九十年代以降の中国の急速な発展を羨ましく思うと共に、その変革の速度を幕末から明治にかけての日本のそれと比べてしまっているから、なのかもしれない。そして認めたくないが、江戸時代の蘭学者のような先覚者はバブル崩壊以後の日本に現れず中国大陸の方に現れたのだろうと、私はボンヤリ考えている。考えるだけ無駄なことなのに。  ところで先日、英国の新首相に選ばれたリズ・トラスは、対中強硬派であるとの報道があった。二代目“鉄の女”みたいな呼ばれ方をされている、との趣旨の記事も目にした。初代“鉄の女”が深く関与した香港返還について、どのように考えているのか、ベッドの上で質問してみたい気がしなくもない。勿論どんなに写真と違っても絶対にチェンジしないことを、彼女の夫ヒュー・オリアリー氏に誓うつもりだ。Wikipediaの記述を信じるならばリズ・トラスは既婚者のマーク・フィールド議員と不倫関係にあったらしいが夫婦は危機を乗り越えたそうなので、私との恋愛で二人の結婚生活がさらに濃密になることが期待できるだろう。ただし、もしも私とリズが二世を誓う仲になったとしても、ここでの公表は差し控えたいと思う。それは私と故ダイアナ妃が交わした約束のためである。  故ダイアナ妃は英国王室を離れてからも、英国を揺るがす政治的なスキャンダルを深く憂慮していた。具体的にいうと彼女は元義母のエリザベス女王陛下に対し、私との関係を清算するよう求めたが、聞き入れられず困り果てていたのである。  そして故ダイアナ妃は私に対して、私のリリと別れるよう懇願した。私はリリと永遠の愛を誓っている、ずっと年上なのに純真無垢なリリを裏切ることなどできないと告げた。ただし二人の関係については今後五十年間、誰にも漏らさないと約束した。口外しないお礼としてダイアナが私に与えてくれた愛はリリに勝るとも劣らないものだったと断言できる。互いの体の奥でつながっただけではない、心の奥深くで私たちはつながったのだ。あの日、深く愛し合った私とダイアナは絨毯の上で全裸のまま結婚を誓い合った。来世の契りまで交わしたのだ……たとえ、この世で結ばれることがなくとも。永遠に。  あの日から、もう二十五年もの歳月が流れた。リリとの愛の誓いは既に過去のものとなった。リリとの関係を口外しないというダイアナとの約束も今ここで破ってしまった。この調子では、来世でダイアナと結婚する約束も怪しいものだ。自分の不誠実さに呆れてしまう。約束破りのサッチャーと鄧小平を偉そうに糾弾する資格など、私は持ち合わせていなかったのだ。  それでも今、この日この時、私は約束しよう。英国新首相リズ・トラスと私の間に男女の関係が生じたとしても、誰にも話さない。墓場まで持って行く、と。 † 第五話 メロウな夜を、貴女に  視聴率が落ちてきた番組の企画会議より陰惨な空気で充満し殺伐とした雰囲気が漂っているものを私は知らない。プロデューサーは下っ端のスタッフを怒鳴り、ディレクターと放送作家は罵り合っている。制作部長は会議室に入ろうとしない。自分には関係の無い番組だとアピールしているつもりなのだろう。番組からの撤退を検討し始めたスポンサーたちを翻意させようと、広告代理店の担当者はご機嫌取りに回っているらしいが、広告代理店そのものも当番組から手を引きたがっているとかいないとか。 「▽●さん、どうしました?」  ディレクターが私に気付いて声を掛けた。全員の視線が私に集まる。気付かれなかったらドアを閉めて帰ろうとしていたのに、残念。  むさ苦しい男どもに、私は笑顔で話し始めた。 「局が主催するナイトプールのイベントを、こちらの番組内の特集で告知していただく件なのですが、共催関係各位の調整が付きましたのでご報告に上がりました」  あらかじめメールで知らせておいたので、プロデューサーとディレクターたちは私の用向きを分かっていた。外部の人間である放送作家とメールを読む暇の無いアシスタントディレクターたちは話題に付いていけない様子だ。  私たちの局が開催する夏祭りイベントの目玉企画に、各地のナイトプールを梯子して集めたスタンプを応募すると、日本初の有人ロケットによる宇宙飛行の往復チケットが抽選で貰えるという豪華プレゼントがある。企画のターゲットにしているのは若い女性だ。それなのに送られてくるのは男性がほとんどで盛り上がりに欠けている。テコ入れ策として告知を増やすことになり、深夜の情報バラエティである当該番組でもドンドン流して欲しいし、大きな枠で特集をして貰えるなら共催関係各位が番組のスポンサーになることを検討している――みたいな話をしたら、放送作家やアシスタントディレクターたちが色めき立った。金のためなら何でもやりそうな食いつきだ。  そんな彼らが嬉しがる情報を追加する。 「皆さんが取材に行くナイトプールは、◇□山中に建設されたばかりの、最新式のロケット発射基地にあります」  歓声が上がった。そのロケット発射基地については彼らも知っていたようだ。とある大金持ちがポケットマネーで建設した巨大な施設で、ロケット発射台があるだけにとどまらず、周辺には遊園地や温泉などの行楽施設が完備され、産業と娯楽を兼ね備えたテーマパークとして日本中のみならず世界各国から注目されている。その施設の建設に当たっては、宇宙飛行を旅行としてビジネスにしようとする計画が立てられており、このプレゼント企画は宇宙旅行普及のための広告の意味合いがあった。 「番組スタッフの慰労を兼ねて、ロケの際には宿泊施設や娯楽設備を自由に使ってよいと発射基地のオーナーからお話がありました」  スタッフは皆、欣喜雀躍した。もっと喜ばせてやろうと、私は取って置きの情報を付け加えた。 「ロケには私も同伴します。営業部を代表して、水着でナイトプールに入るつもりです」  全員が絶句した。なんでやねん。  確かに私はアラフォーで、全盛期は過ぎているのかもしれない。だが営業部に配置換えになる前は局の女子アナとして人気者だった。男遊びや後輩いじめといった根も葉もある噂のせいで人気が落ちてきて、裏方に回る羽目になってけど、表舞台に復活するチャンスが今、めぐってきたのだ。花形ポジションである女子アナに復帰する好機を逃す手はない! と意気込む私に、プロデューサーが恐々と聞いてきた。 「あの、それはどういう経緯で、どういうことで、そうなったのでしょうか?」  私は即答した。 「基地のオーナーさんが、私の大ファンなんですって。私に、どうしても来て欲しいって。会長と社長と局長と営業部長に連絡が来て。そこまで言われたら私も、一肌脱ぐしかないじゃない」 「何かの間違いでは」 「だまらっしゃい」  ああ、そういう奴はいるだろう。営業へ配置換えになるときフリーアナの道を模索したが、私はもう若くないと大手事務所から移籍を軒並み断られ、自立を断念したのは……もう遠い昔のことだ。イケメンと評判のオーナーが四十代の独身男性で、学生時代から私のファンだとしても、それで何がどうなるわけではないだろう。アラフォーではなく、アラフィフというのが正確な独身女の水着を見て、幻滅する。ただ、それだけだ。玉の輿? そんな甘い夢を見ても、自分が傷つくだけだと分かっているのよ! それでも私は加齢に負けない。肌には張りがある。形が良くて大きな胸は垂れていない。尻肉が落ちてきたのは事実だけれど、パレオで隠せば兵器、じゃない平気よ。  いざ、出陣! と陣太鼓を叩き法螺貝を吹いて鎧兜ならぬ紺色の競泳水着でナイトプールのロケに向かった私は、ロケを見物しに来たイケオジというには若々しすぎる四十代の超大金持ちオーナーと親しくなり、ロケが終わるとプールを覆うサンルーフの天井から見える満天の星を眺めつつ、オーナーに背泳ぎの手本を見せていた。  私の泳ぎっぷりを見て、オーナーは心底から驚いた様子だった。 「プールで泳いでから出社すると書かれた雑誌の取材記事を読んだことがあるけど、毎朝泳ぐのですか?」  平日はいつも、と答える。最近はサボっているけど。 「グラビア見ましたよ。仰向けでバタ足をしながら、容器に入ったジュースをストローで飲んでいましたよね」  思い出した。若い頃、雑誌の女子大生グラビア特集で、そんな写真を撮影した。カメラマンに言われ、ラッコみたいな恰好で撮られた写真を、当時の彼氏が爆笑したのに激怒して別れたのだった。誰にでも、若き日の過ちはある。  やがてオーナーは私の真似をして背泳ぎを始めたが、すぐに水没した。げぼげぼ水を吐き出して立ち上がる。 「恥ずかしながら泳げなくって。平泳ぎとクロールはどうにか泳げるようになったんだけど、背泳は必ず沈むんだ」  私も水に浮かぶのを止め、立ち上がった。オーナーの隣に立つ。長身の私より頭二つ分くらい背が高い。三つか四つ程の身長差が憧れだったけど理想を追いかけてもきりがない、ここは妥協だ。 「スイミングスクールみたいにはいかないかもしれませんけど、よろしかったら教えて差し上げますわ」  私のアプローチに、オーナーは大喜びだった。はにかんで聞いてくる。 「良かったら、水泳以外のことも教えてもらえないかな?」 「……たとえば」 「付き合っている人がいるのか、とか、好きなタイプとか、そういうこと」  簡単には教えられない、みたいな恋愛のテクニックを、男を焦らす技ってか作戦っちゅーの、あれをやろうか悩んだけど、私には時間がない。人生の残り時間を考えて、やることやらにゃああかんのよ。 「フリーです」 「今夜は、時間ある?」  来たよ、キタキタ。言え、あると言え、私。時間があると、二人で過ごす時間があると! しかし、何かちょっと、彼が可哀想になってきた。ハッキリ言って、私はこの男に惚れているわけではない。格好いいのは認めるし、超絶大金持ちなのも事実で、結婚相手に申し分ないけれど、恋愛の対象とは違う。私の理想は、自分で言うのも変だけど、妙なのだ。スーパーマンじゃなくてスッパマンとか、バカボンのパパとか、あんなのが好き。人間離れしている一面があると、そこに惚れる。この人が背泳ぎできないというのは少し面白いけど、それだけじゃ物足りない。なんか、いい人すぎる気もする。けつあな宣言したプロ野球選手みたいな下衆(ゲス)野郎が好きってわけじゃないけど。あ、それで思い出した。この人が子供を望んでいるとしたら、私はその願いをかなえてやれないかもしれない。亡くなった両親は孫の顔が見たいとずっと言っていたのに、私は親の願いをかなえてやれなかった。そんな私なんかで、本当にいいのかって感じもするし……。いやいや、そんなこと考えるな。恋愛は遊び、あるいはエクササイズだけど結婚は真剣勝負で、公式戦だ。勝つのだ、婚活に勝つのだ! 妻に選ばれるような女を演じるのだ! 「あの、すみません。知り合ってすぐに、そういうのって、私イヤです」  半分は本音のセリフを彼はお気に召したらしい。 「いや、そういう意味じゃない、というか、本当に時間があるのなら、付き合ってほしいことがあって」 「……それは、ど、どういったお付き合いで」 「勿論、結婚前提なんだけど、条件があって」  面倒臭い条件ならお断りだよ、と思うが顔には出さず聞いてみる。 「どんな条件なの?」  オーナー男性は言い淀んだ。男らしくない、減点一、いや、マイナス二点だ。 「言うけど、引かないでね。僕は宇宙人なんだ。僕の生まれ故郷は温暖化による海面上昇で海洋惑星になっていて、フォーマルな席では海水に浮かんだまま食事をするのが正しい作法とされているんだけど、どんなに練習してもできなくて。マナー講師にいくら注意されてもできなくって。子供の頃からそれがコンプレックスで、海洋惑星じゃなく陸地がある星なら変なマナーは無いだろうと思って宇宙を旅して地球に来て、そして君を見つけたんだけど、僕の故郷の星を君に見せたいなって思ったら、君と結婚して連れて行きたくなって」  こいつ頭おかしいとは思ったが、これぐらいおかしくないと一代で年商十数兆円もの産業を創建することは無理だろう。私は素直に頷いた。顎から水と冷や汗が滴り落ちる。 「でも結婚式はマナーがうるさい。仰向けで浮かんだまま飲食できるように練習したいけど、自分だけじゃ無理だ。人から教わってもできそうにないけど、君に教わるのなら、できそうな予感がするんだ。それでも、これは自分勝手な考え方だ。君に地球を捨ててくれって言うのは気が引ける。そんな条件、難しいよね」  この男の頭が変だとしても、だ。それでも確認しておかにゃならんことがある。 「聞いていい」 「何なりと」 「私を好きになったのは、仰向けでジュースを飲んでいたからなの? ラッコみたいに」  半分はそうだと彼は言った。正直でよろしい。 「ごめん、悪いけど、そんな話は信じられない。さようなら」  私はプールから上がろうとしたが、彼が手をつかんで離してくれない。 「信じられないのなら、その目で見てくれ。僕の生まれた星まで超光速航行なら一時間弱だ。星空のドライブだよ」  彼は天井を見上げた。その目から極彩色の光線が発射される。光線を浴びて、天井のサンルーフが静々と落ちてきた……違った。私と彼の体が浮かんでいるのだ。体の周りの水と一緒に。 「僕の目から出た光は反重力ビームで、宙に浮かぶときに使う。宇宙飛行時の推進剤は水分子の振動を――」  彼は何か言っているけど何を言っているのか意味不明だったのでどうでもいい。やがて二人の体は中空で止まった。サンルーフが音もなく開く。私たちを漬けたまま水が形を変える。球体となった。その中に私と彼が向き合っている。 「椅子を出せるけど、座る? 無重力で飛行するから立ったままでも、そんなに疲れないと思うけどよ」  ビビっていることを悟られたくないので、私は強気で言った。 「思うけどよって何? あなた、いつもそんな言い方する人なの? 自分の女にはぶっきらぼうな口をきく内弁慶タイプのオラオラ系なの?」  彼は私に謝って、それから言い訳した。 「作者が打ち間違ったんだと思うけど、気を悪くしたら本当にごめんね」  私は彼を許した。それから私たちは婚前旅行、じゃないわあ往復二時間程度の、宇宙旅行というには物足りないお出かけに出かけた――って、変な日本語だけど心が浮ついているせいだから大目に見てよ。 † 第六話 【強制非公開】の話 「ママ、盗まれた、盗まれた!」  娘が大騒ぎして台所に入ってきたので、母の甘露(かんろ)は栗の甘露(き+1、を-1、わ+1)煮を作る手を止めた。 「騒々しいわねえ、何が盗まれたのよ?」 「小説よ、私が書き上げてネットに投稿した小説が!」  娘の趣味が小説を書くことだと、甘露は知っている。どんな内容なのか、詳しくは知らない。 「投稿した作品を誰かに盗作されたってことなの?」 「違うって、私は性的倒錯の作品なんて書いていない!」  微妙に嚙み合わない会話だったが、性的倒錯を主題にした小説を書いていないという娘の主張を信じてあげようと甘露は思った――が、内心では分かったものではないと感じている。 「ママ、私は性的倒錯とかエッチな話なんて書いて――」  甘露は娘を制した。 「それは分かった。盗まれたって何なの? それを説明して」  娘の話によると……とある小説投稿サイトに送信した小説がロックされ、編集不能になってしまった、とのこと。 「何か調子が悪いだけでしょ」 「違うってママ、こんな表示が出たの」  娘が示す先を見る。スマホの画面には【強制非公開】の文字が躍っていた。 「何これ?」 「だから、盗まれたのよ」 「何を?」 「んだから、私の書いた小説」 「強制非公開って、盗まれたってことなの?」 「そう! 誰の仕業か分からないけど、きっと、そう!」  力強く娘は頷いた。母の甘露は首を傾げた。 「盗まれたとしたら、アカウント乗っ取りとか、そういうのなのかしら? でも、ねえ……」  アカウントを乗っ取るような犯人が、娘の書いたバカみたいな小説を盗むものだろうか、と口には出さないが母は思う。 「編集が出来なくなったの。身代金が要求されるかもしれない」 「身代金」 「ニュースでよくやってるじゃない。企業のデータがハッカーに暗号化されて読み取れなくなって、元に戻して欲しければ金を払え! とかって」  企業のデータを暗号化するハッカーが、娘の書いたバカみたいな(以下同上)。 「でもね、ママ、安心して」  身代金は自腹を切るというのかと甘露は予想したが、違った。 「小説は別に保存してあったの。これを編集すれば大丈夫!」 「そう、じゃあ、良かったわね」  甘露は栗の甘露(こ+4、あ+1,ら-4)煮作りを再開した。その後に(む+5、た-5)の甘露煮を作るつもりだった。娘の大袈裟な話に付き合っている暇はない。 「ねえ、ママ」  娘がスマホを操作しながら言った。 「私の書いた小説、読んでみる?」  いいえ結構です。そう言いたい甘露だったが、娘が目をキラキラ輝かせてスマホを差し出しているので、断るに断れない。 「それじゃ、ちょっとだけ」  興味の無い小説を読まされるほどの苦痛は数少ない。それに比べたら小説の暗号化は楽だろう……と甘露は、娘の小説にハッキングした暇人を羨んだ。 「えっと、これね。本文から始まっているから」 「待って、題名は何なの」 「あ、それはファイル名だから、ここには書いてない」  母が娘に注意する。 「国語の時間で習うでしょ。題名は一番右側、その次に名前を書いて、それから話を書き始めるの」  娘は母を蔑みの目で見た。 「昭和世代と今は、違うから」  娘の小説を完全に消去してやったら、どれほど気分がスッキリするか! と思ったが、やったら大騒ぎになるのは必至なので、甘露は耐えた。 「とにかく、題名は教えて」  いたずらっぽく笑って娘が題名を読み上げる。 「えっとね、ふふ、タイトルは『僕らは、せーの、たをほ(-1、-1、-5)強盗団』です」  甘露は額の真ん中に人差し指を当てた。 「清音以外が出てくると面倒になるわね」 「ママ何言ってんの?」 「JISコードにするべきだったのかしら……でも、何もそこまでしなくても」 「ママ、いちみ(+1、+1、+1)大丈夫」  甘露は頭を掻きむしった。 「もう! ややこしいんだから、余計な変換させないでよッ! ただでさえデリケートなことに神経使ってンだからっ!」  小池一夫や梶原一騎も、こういう気苦労をしていたのだろうか……それはさておき娘が話を再開する。 「<ひとこと紹介文>は『思春期直前の少年から、ほんの数日だけ漂い何の痕跡も残さず消える甘い香りを嗅いだことがある? と三歳の娘が寝言で言います』」  甘露は腕を組んで考えた――これはオーケー。きっと大丈夫。  娘が意地悪く笑った。 「お母様、イヒヒ、いよいよ本文ですわよ」  お前は私の実の子供ではないよ、と真実を告げたら娘はどんな顔をするだろう、と甘露は思った。 「分かったわ、始めて」 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  思春期直前の少年から、ほんの数日だけ漂い何の痕跡も残さず消える甘い香りを、ママは嗅いだことがある? と三歳の娘が寝言で言うのを聞いて甘露(かんろ)(仮名)は戦慄した。幼児の寝言ではない――大人でも言わないだろうが――から、だけではない。かつて彼女も、娘と同じような台詞を母に言ったからだ。  話は、甘露が幼子だった頃へ戻る。そのとき彼女は、現在の娘と同じ、三歳だった。甘露も「思春期直前の少年から、ほんの数日だけ漂い何の痕跡も残さず消える甘い香りを、ママは嗅いだことがある?」と突然言って、その場にいた母を驚かせた。  娘の甘露が漏らした変態チックな発言を聞いて甘露の母は「そういうことは言っちゃいけません」と(たしな)めた。 「どうして?」 「どうしても!」  不服そうな幼女の甘露に母が怖い顔で聞く。 「そんな話、誰から聞いたの?」 「おともだち」  体が弱く幼稚園に通っていない甘露に友人はいない。彼女の<おともだち>は絵本と映像媒体そして、ぬいぐるみ、これぐらいだ。  当惑を押し殺して母が尋ねる。 「おともだちって、どんな子?」 「知らない」 「嘘おっしゃい、ちゃんと言いなさい!」 「言うなって、言われてるんだもん!」 「だから、誰に?」 「知らないってば!」  それだけ言って甘露は母の傍を離れ、ぬいぐるみたちとおままごとを始めた。その種の発言をすることは、それから二度と無かったので、酷く気にしていた母も、やがて忘れた。その母が幼き頃の甘露の不思議な言葉を思い出したのは、甘露の娘つまり自分の孫が生まれて一才になった頃だ。孫の顔が幼児だった頃の愛娘と似ていると笑っていたとき、ふと笑顔が固まり「そういえば、昔……」と上記の発言に関する記憶が蘇ったのである。  娘の甘露には何の記憶もなかったので「何じゃそれ」としか思えなかったが、実際その場面に遭遇すると背筋が震えた。意識せずに呟く。 「今、どんな夢を見ているの?」  寝言に返事をしてはいけないというが、質問してもいけないのだろうか? と娘に語り掛けてから甘露は悩んだ。そのときである。 「たをほ(-1、-1、-5)を泥棒する夢」  寝ている娘は確かに、そう言った。甘露は固まった。その耳元で、誰かが囁く。 「違うでしょ、せーの」  誰の声なのか? 彼女は怯えて周囲を見た。寝室にいるのは自分と娘だけだ。また声が聞こえてくる。 「ちゃんと合わせようよ、いくよ」  そして複数の子供の声が、同時に鼓膜を震わせた。 「僕らは、せーの、たをほ(-1、-1、-5)強盗団」  その中に甘露は、幼い頃の自分の声を聴いた。そして思い出す。あの頃、自分は確かに、強盗団の一員としてたをほ(-1、-1、-5)を泥棒しまくっていた。それには理由がある。思春期直前の少年から、ほんの数日だけ漂い何の痕跡も残さず消える甘い香りを求めて、その匂いの元と思われたサヤエンドウを収穫していたのだ。  甘露は幼少時の記憶を辿った。しかし思い出せたのは、そこまでだった。詳細が不鮮明だったし、強盗団の仲間は、誰だったのか……それらは思い出せないのだ、だけれども――その思い出が蘇ったとして、何になる? 何じゃそれ。結果は、きっと、そうなる。無意味なことに労力を費やすべきときではない、今は育児で疲れているのだから、変なことに頭を使わず休もう。娘と一緒に寝よう。  そして甘露は娘の隣に身を横たえた。まもなく彼女は寝息を立て始めた。たをほ(-1、-1、-5)を泥棒する夢を、大人になった彼女は見ているのだろうか? 見たとして、その夢判断は何を示すのか? それはそれとして、彼女の横で寝ていた娘が体をムクリと起こし、寝姿の母を見つめる。 「お兄ちゃんたちが、返せって言っているよ。凄く真っ赤な顔で怒って、ママのことを睨んでる。ずっと恨んでやるって言っているよ」  そう呟いて、やがて床にコテンと横たわり、二三回転がってから、母の隣で眠りに就いた。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  読み終えた甘露は率直な感想を述べた。 「面白くない」  娘は意外と冷静に受け止めた。 「私もそう思う。それと、分かりにくかったところを書き直した」  書き直して、これか! と甘露は呆れた。現在、過去、現在と時系列が変わる構成は読者の混乱を招く。甘露と甘露の娘そして甘露の母、三人しか登場人物がいないのに時系列の乱れと人物の書き分け不足が災いして誰が誰だか分からなくなっている。これなら、そのまま【強制非公開】で良いのでは……というのが一読者としての甘露の感想だった。 「あ、本文の他に<作品説明・あらすじ>という項目もあるの」  まだあるのか……どうせ同じだから止めよって――とは思うものの、ここまで来たら最後まで付き合ったれ! と甘露は観念した。 「やりましょう、始めて」 「ここまでリライトして、また出そうかと思うんだ」と娘。甘露は頷く。 「協力するわ、私はあなたのママ、いつだって味方ですもの」 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  ノーベル文学賞の受賞者といえど、駄作や失敗作はある。書き始めの頃などは若気の至りでトンデモない小説を発表しては嘲笑される――の反復だった人もいるそうだ。この作品は、その一つに基づいて執筆された。そういった恥物語を、そのままの形で転載するのは道義に(もと)るし、黒歴史を消去したい作者の羞恥心に消えない爪痕を残しかねないのが何よりも悲しく、それを断じて避けたいので訳出するにあたり原作の野趣溢れる風味を残しつつ、令和時代に寄せた改変をさせていただいたのである。いわば二次創作なわけだが、これは単なる改悪に過ぎないというご意見は当然あると思う。その責任が原著者ではなく翻案者の私にあるのもまた、言うまでもないことだ。  変更を加えたものの第一は題名だ。原題を直訳すると年齢制限が掛かる。マイルドで可愛らしい響きのある表現に変更したが、これでもレーティング対象に相当するのかもしれない。  文体を変える。  それにつけても作品情報のページにはルビを振る機能が無いのですね。ダサ(嘲笑)。そんなことを書きましたけど、ルビの機能が何処にも無い小説投稿サイトに比べたら書き味は最高ですよ(ヨイショ!)。  作品説明・あらすじの項目にルビが入るのか確認するため書きかけを一瞬だけ公開し、すぐ非公開に切り替えたのですけど、表示は『公開中』になったままで何だか凄くキモいです。まさか執筆の途中経過がダダ洩れになってませんよね、恥ずかしくって死にそうですわ……と思いましたが、途中だろうが最終稿だろうが恥ずかしい作品であることに変わりないわけで、まあどうでもいいか、と開き直った私ピュアきゅん(何だそれ)。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  娘は言った。 「こっちもね、ちょっと手直ししたんだけどさ。もしかしたら、こっちの方が色々不味い感じする」  母の甘露が頷いた。 「そうかもね。無駄に敵を作っているなって気がするわ。でも、もうこのままで良いと思う。まあ良くはないけどさ、スピードも大事。巧遅は拙速に如かず(こうちはせっそくにしかず)とか兵は拙速を尊ぶ(へいはせっそくをたっとぶ)って言うじゃない。ところで」  甘露は娘に尋ねた。 「【強制非公開】になったの、いつ?」 「10/8」 「その日のうちに出したかったわね。だけど、逆に良かったかもしれないわ。夜討ち朝駆けってやつよ。こんな時間ですもの、相手だって油断しているわ」  まるで討ち入りでも決行するかのような口調だが、あくまでも小説の投稿である。母に指摘された箇所を直していた娘が「ここが最後の部分」と示したのが<作者コメント>だった。  そこには、こう書かれていた。 『執筆中に怖い事が起きました。もう寝ます。中途半端な終わり方になってしまい、申し訳ございません。』  母の甘露が言った。 「『執筆後に怖い事が起きました』に変えようか、どうしようかって悩むわね」  娘が鼻の頭を掻いた。 「ごめんなさい、もうしません、許して下さい、じゃないかな」  暗い表情で娘は、そう言った。母が明るく励ます。 「あなた、悪い事したわけじゃないんでしょ、読者に対して。それなら謝る必要なんてないと思う」  それでも娘の顔色は冴えない。甘露が尋ねた。 「【強制非公開】になったのはハッキングされたからって話、本当なの?」  娘は答えなかった。甘露は、読み終えた小説の内容を踏まえて、娘が語りたがらない状況を推察する。 「【強制非公開】になったのは、誰かにハッキングされたからじゃあなくって、読者が運営側に苦情を申し立てたからじゃないのかなあ」  娘は俯いた。そんな我が子を哀れに思うが、インターネットに作品を投稿する際のルールを娘が知らないのだとすれば、それを教えるのも親の務めだろう。 「読者から文句が来たら運営側は動くし、そうでなくても[コミュニティガイドライン][会員規約]に違反する内容だったら削除するわ。それは当然のこと。【強制非公開】になったとしても、恨むのは筋違いよ」  娘はポツリと呟いた。 「恨んでなんかない。私は、ただ、インパクトのある題名と内容で、注目を浴びたかっただけなの」  それで【強制非公開】になったら世話がないとは思えども、甘露は母として優しく慰める。 「可哀想だったけど、良い経験になったじゃない。これに懲りたら、もっとおとなしいタイトルにしときなさい」  唇をツンと尖らせて娘が言った。 「でも、でもね、こうでもしないと誰も私の小説なんて読まないと思ったの。誰にも読まれないまま、ネットの闇に消えていくんだなって考えたら、いてもたってもいられなくなって、それで」 「ネットに出てくる小説なんて、どれも皆そんなものよ」 「ねえ、ママ」 「ん?」 「私、小説をネットに上げるの、もう止めようかな」 「どうして?」 「だって、誰にも読まれないし」 「誰からも読まれないから書くのを止めるというのなら、そうしなさい。だけどね」  再投稿前に小説の誤字脱字最終チェックをしながら甘露は言った。 「あなたが次に書く小説は、凄い名作になるかもしれない。あなたが筆を折ったら、その傑作は永遠に生まれない。闇の中へ消えていくの」  そして彼女は娘にスマホを渡した。 「一応、推敲は済ませたわよ。送信するかどうかは、あなたが決めて」  手渡されたスマホを握り締めて、しばらく娘は考え込んだ。やがて彼女の指が画面を滑る。送信ボタンを押すか、あるいは全消去のキーに指を止めるか? 甘露は黙って娘を見守った。 † 第七話 <雑草魂>というお題に基づいて作ったゲームブック擬き  ビディリディィィイン、パピィリピィィィイン、ビディリディィィイン、パピィリピィィィイン――上空一万メートルを飛び交う超磁力兵器から発生する異音が硬い岩盤を震わせ地下深くに建設された巨大な核シェルターの内部にまで鳴り響く。その強力な衝撃波のためにシェルター内の居住環境を維持する精密機器に狂いが生じた。地球の表面に万遍なくばら撒かれた毒性の高いプルトニウム239の半減期は二万五千年。その間、核シェルターは内部に収容した人間を守らねばならない。二万五千年も経てば、わずかな狂いも大きな誤差となる。その誤差が取り返しのつかない事態を招く恐れがあるため、精密機械メーカーが派遣した技術者たちは修正を急ぐ。だが、その手は震え顔から血の気が失われ唇に(くわ)えた精神安定剤入り酸素マスクの異常を示す赤ランプが真紅に明滅している状況で、迅速かつ正確な仕事を期待するのは酷というものだ。実際それどころではない。酸欠のせいで技術者たちがバタバタと倒れている場所もある。それがここ、核シェルター内に設置された播種機の保冷コンテナ倉庫だ。棺に似た冬眠装置が詰め込まれた倉庫の中で極寒と酸素欠乏に苦しみながらも、技術者たちは作業の手を休めない。人類を滅亡から救うために、命を捨てる覚悟なのだ。  どうして人類は滅亡の危機にあるのか? その原因を一口に説明するのは難しい。経済格差、宗教、災害、戦争その他の要因が積み重なった結果、核兵器より強力な超磁力兵器の無差別攻撃が現実のものとなり、今このとき地表には様々な生物の死骸が折り重なっている。原因は、もうどうでも良い観がある。すべてが焼け(ただ)れた地球は人の住める星ではなくなった、その結論の方がむしろ大切だろう。  絶望的な状況だが前向きな発想をする大金持ちがいて、最新の科学技術を駆使して人類を新天地へ送り込み、そこで再起を果たす! と決意したのが、この物語の端緒である。その金持ちは最終戦争――になるかどうかは不明だが、今のところは人類最後の戦いになる可能性大――勃発前から準備を始め、自身の死後も計画を進めるよう遺言した。その後継者たちは律儀に遺言を守り、計画に参加した企業には期日通り仕事を終わらせるよう指示した。  戦時下でもノルマをこなさねばならないのか! 何というブラック企業だ! と第三者は憤ってしまうが、当事者は激怒していなかった。むしろ悲愴な決意をもって難しい業務を遂行している。自分たちが仕事をしなければ、人類は滅ぶ。すべての希望が、ここで潰える。だからやる……と思わねば到底やっていられない、とも言える。  さて、技術者諸君が頑張っている場所の一つが、核シェルター内に設置された播種機の保冷コンテナ倉庫であることは、既に触れた。播種機とは何か? 人類を他の場所へ送り込む運搬機だ。幾つかの種類がある。他の惑星へ超光速飛行するロケット型、異次元転送で別世界へ逃避する転移系、過去へタイムトラベルする時間旅行式の三つだ。これら播種機を用いた集団と、地上が生存可能な環境に回復するのを核シェルターで冷凍睡眠しながら待つグループの二つがある。人類を復活させる計画は、いわば二本立ての作戦だった。  そんな設定を書いている間に、超磁力兵器の異音が聞こえなくなった。衝撃波で揺れ動いていた核シェルターは落ち着きを取り戻す。技術者たちの顔に安堵の色が浮かぶ。修理した箇所の最終確認を終え、書類の修正項目をチェックした者から、技術者用の冬眠装置に入る。その棺に似た機械で眠りに就く前に息絶える者も多くいた。汚物を消毒するための殺虫剤チクロンB等の殺菌剤がシェルター内に急速充填されつつあり、酸素欠乏と寒さで衰弱した者が冬眠装置に入る前に毒ガスの噴射に巻き込まれてしまったのだ。それらの死骸を片付ける者は誰もいないため、腐敗してシェルター内を汚染してしまう恐れがあるけれども、彼らを死に至らしめた毒ガスの強力な殺菌効果と極めて乾燥した空気のために、無害な木乃伊(ミイラ)となるはずである。それを発見した者は、さぞや驚くだろうが、そこまで気にしなくても構わないだろう。何しろ冬眠者たちが目覚めるのは遠い未来だ。その頃には木乃伊は崩れて無くなっているはずである。何かを見るとしても、目撃するのは人間の原形をとどめたまま乾燥した木乃伊ではなく、それが崩壊した後に残った粉や埃だけだろう。  そんなことを書いておいて何だが、訂正する。核シェルターに充満した消毒用のガスから毒性が抜けた頃、その秘密の出入り口をこじ開け、扉と枠の間に出来た狭い隙間を通って内部に侵入した者がいた。その人物は作業員たちの死体を見て大いに驚いた。数多く設置された冬眠装置の中に冷凍睡眠中の人間が入っていることは知っていたが、その他にも大勢の作業員が死体となって斃れているとは聞いていなかったためである。  その人物はスマホに保存しておいた人類復活計画の概要を眺めた。内容を再確認するとメンテナンスを担当する作業員についての記述がある。だが、作業服を着た者たちの死体がゴロゴロ転がっているとは書かれていなかった。  息苦しくなったので、その人物は防護服の中で深呼吸をした。それでも強い不安は消えない。選ばれた人間を冷凍睡眠させ、新天地で目覚めさせるという、この計画は本当に成功するのだろうか? そんな疑問が湧き上がり、心の中を満たしていく。  唐突だが、この人物の正体は誰あろう、君だ。  人類復活計画を知った君は自分も生き残りたいと考え、冷凍睡眠装置に入れてもらおうと地上を離れ地下へ降りてきたのである。  しかし折り重なるように斃れた遺体を見ているうちに考えが揺らいできた。地上につながる長い階段を再び登った方が長生き出来るのではないか? 確かに地表は放射性物質や毒性の高い化学物質そして治癒が不可能の致死性病原体でいっぱいだ。それでも得体の知れない冷凍睡眠装置で冬眠するより安全なのかもしれない。そんな思いが浮かんできたのだ。  ここは悩みどころだ。地上へ戻るか、ここへ残るか? 好きな方を選ぶがいい。 ★地上へ帰還する ★核シェルターへ残る  君に与えられた選択肢は上記の二つだ。他の選択肢はない(ここまでで読むのを止めるという選択肢はある。それは当然だが忘れてしまっている読者がいるかもしれないので、念のために書いておく)。{★地上へ帰還する}を選ぶ場合は『地上へ帰還する』の部分をコピーしてからCtrlキーとFのキーを同時に押して検索すると、該当するセクションが表示されるはずだ。上手くいかないときは自力で到達して欲しい。{★核シェルターへ残る}を選択するときも同様だ。検索しても出て来ないときは自分の力で見つけ出して欲しい。君の健闘を祈る。 {★地上へ帰還する}  地表で通じる長い階段を登る途中で、君は線量計を確認した。健康に問題が生じない数値だった。これならば地上へ戻っても何とかなりそうだ、と君は安堵する。酸素濃度も大丈夫のようだ。超磁力兵器の爆発で大気が宇宙空間まで吹き飛ぶため、地球は呼吸する空気のない死の惑星になると噂されていたが、それほどではなかったのだ。だからといって防護服を脱ぎ酸素マスクを外す気にはなれない。有毒な化学物質や致死的な病原体のすべてを検出する検査キットは調達できなかったのだ。何がどうなるか分からないうちは、安全策を取るべきだろう。  それでも君は心が浮き立つのを感じた。想定していたより地上の被害は少ないと考えたからだ。最終戦争の開始と同時に地下の巨大核シェルターへ通じる秘密の階段に飛び込んだ君は、地上の状態を見ていない。だから、戦前の悲惨な予測しか知らなかった。実際のところ君は、それらの予測で描かれた惨状を全面的に信じてはいなかった。原子爆弾の投下前、百年程度はヒロシマに草木が生えないだろうと考えられたけれど、そうはならなかったではないか? しばらくは大地が荒れ果てているとしても、やがて植物が生え動物が姿を見せるようになるだろう。畑に作物の種を蒔いて収穫する光景を思い浮かべ、君は顔を綻ばせた。雑草退治の農薬として有害な化学物質を薄めて使うのはどうか? と考えていた君は強い眩暈を感じて立ち止まり、階段に座り込む。強い疲労のために君は、その場から動けなくなった。猛烈な吐き気に襲われ、酸素マスクへ嘔吐を繰り返す。体中に痛みを感じる。急に高熱が出てきた。下痢が止まらなくなる。やがて意識がもうろうとなり始めた。  重症の放射能障害が疑われる症状だった。しかし線量計は安全な数値を示している。君は予備の線量計を作動させた。そこに表示された線量は三か月の被爆許容線量を遥かに超えていた。その数値は、さらに上昇しつつある。それが意味するものは、何だろう……とぼんやり考えているうちに、君は意識混濁状態となり、そのまま死んだ。 {★核シェルターへ残る}  この選択をした君には、次の選択が待っている。播種機に乗り込むか、乗り込まないか? この二つだ。  播種機に乗り込む場合は、さらに選択さ、間違えた、選択だ。 ☆他の惑星へ超光速飛行するロケット型 ☆異次元転送で別世界へ逃避する転移系 ☆過去へタイムトラベルする時間旅行式  これら三つの中から一つを選び、該当するセクションへCtrlキーとFキーの同時押しワープで移動せよ。 {☆他の惑星へ超光速飛行するロケット型}  冷凍睡眠に入った君を収容したロケット型の播種機が地下サイロから宇宙へ打ち上げられた。目的地は太陽に最も近い恒星ケンタウルス座アルファ星こと、通称アルファ・ケンタウリである。自動航法システムに制御されたロケットが超光速飛行へ移行しかけた頃、重力センサーが異常を検知した。進行方向に謎の天体が観測されたのだ。それはネメシスと呼ばれる未知の恒星だった。太陽の双子星でありながら、太陽の光に遮られて観測不能であり、想像の域を出なかった存在が、この期に及んで姿を現したのである。超磁力兵器の影響が宇宙にまで波及し、太陽系の重力バランスを大きく乱したが故の珍事だった。天文学者がいたら大喜びでネメシスを観測しただろうが、自動航法システムにとっては邪魔者でしかない。計算外の存在であるネメシスの巨大な重力によってアルファ・ケンタウリの最短航路は塞がれた。アルファ・ケンタウリに到達するためには迂回路を通らねばならないが、そのための推進剤は足りない。  自動航法システムは現状の推進剤でアルファ・ケンタウリへ辿り着くルートを計算した。ぎりぎりで到達する針路が導き出され、それに向けてロケットが軌道修正を始めた頃、ネメシスの位置変化によって周回軌道を逸脱したハレー彗星がアステロイド・ベルトの小惑星を多数引き連れて地球に殺到、その進路上にあったロケットは隕石の直撃を受けて四散した。 {☆異次元転送で別世界へ逃避する転移系}  君の乗る播種機は異世界に転移した。目覚めた君は自分が確かに異世界の住人になったことを実感した。見上げれば青い空、地平線には見渡せる限り青々とした草が広がっている。素晴らしい土地だった。しかし、動けない。地面に根が生えたかのように動けないのだ!  やがて君は、自分が緑の草になっていることに気が付いた。君は異世界の草に転生したのだ。現生人類そのままの形で復活を遂げることは出来なかったが、草人間として進化を遂げる時が、いつの日か訪れるかもしれない。幸い、草食動物の姿は見えない。葉を食べる虫もいないようだ。雑草になった気持ちで――実際、雑草なのかもしれない――大繁殖し、新しい進化の形を示すのも一興だろう。 {☆過去へタイムトラベルする時間旅行式}  タイムマシンの機能を兼ね備えた播種機は数千万年前の地球へ時間遡行した。そこは恐竜の闊歩していた時代である。恐竜なんて言ったって図体はデカいが脳みそはちっぽけなトカゲの親戚に過ぎない、人類の科学力があれば恐るるに足らず! と意気込む君を待ち受けていたのは、サルから進化した現生人類より遥かに高い知能を有する爬虫(はちゅう)類型人類だった。君や君の仲間たちは全員捕らえられた。厳しい尋問の後、未来からの侵略者である君たちは全員、処刑された。皆殺しになる前、爬虫類型人類は君たちに彼らの考えたプランを伝えた。哺乳類型人類の最終戦争で汚染された大地が浄化された頃の地球に植民地を建設しようというのである。彼らは自分たちを滅ぼす巨大隕石が地球に衝突する危険性を察知し、その隕石を迎撃・破壊するシステムを構築しようとしていたが、部族間の対立が非常に悪い影響をもたらした。隕石を攻撃する軍事力で対立する部族を滅ぼそうとする試みは爬虫類型人類の準最終戦争に発展し文明は半ば崩壊、隕石を破壊する前に彼らは滅亡の危機に瀕してしまったのである。そんなときモンキー(づら)の団体がノコノコ現れて喧嘩を吹っかけてきた。捕らえて拷問したら、時間旅行の技術が判明した。そして彼らは未来へ目を向けるべきだと考えるようになったのだ。隕石をどうこうするより、清浄な地となった未来へ引っ越した方が安上がりという判断である。  それはともかく、君のことについて語ろう。未来の人類へ警告を発しなければ! と君は考えなかった。ただただ泣いて命乞いをするだけ、そして、その努力も空しく、君は爬虫類型人類による一般的な処刑つまり頭から丸呑みされて生涯を終えた。 ※播種機に乗り込まないというチョイス  播種機に乗り込まない場合は核シェルターの冷凍睡眠装置に入り、地球が再び生存可能になる時を待つことになる。そして遂に、その日が来た。目覚めた君たちは撮影や大気の検査が可能なドローンと偵察用ロボットを地表に派遣する。それらの偵察機器が緑の草が生い茂る地上の映像を地下に送って来た。シェルター内に設置されたモニターを眺める君たちから歓声が上がった。大気や地表の検査では有毒物質は検出されなかった。生存可能な環境なのだ。とうとう君たちが地上へ出る時が訪れたのだ。  外は春の穏やかな天候に恵まれていた。君たちは防護服を脱ぎ裸足になって草の感触を楽しんだ。そのときである。 [痛い、踏むな!]  そんな抗議の声が全員の頭の中に響いた。君たちは驚いた。その声が足元の草が発していると気付いたからだ。植物に知能があるのか? そんな疑問を抱き踏みつけた草に話しかけてみると、相手は[相手に物を尋ねる前に、上から降りろ!]と激しい剣幕である。やむなく立つ場所を変えるが、そこも痛いらしい。緑の草が風もないのに波打った。 「草よ草、どこに立てばいいんだね? 一面の草だらけで立つところがないぞ」  草は人の脳内へ伝わる声で答えた。 [それじゃ立つな] 「そういうわけにはいかない。私たちは長い間、地上へ出る日を夢見ていた。地表は草だらけなのだから、草を踏むのは仕方がない」  地表へ出た人類の気持ちは分からないでもない。だが踏まれた草が痛みを感じるのであれば、人が草原に立つことは草にとって許し難い暴力である。草は憤然とした声で言った。 [そうか、お前たちが伝説の人類か。地球を汚した悪魔の生き残りだな。この雑草塊がいる限り、好きなようにはさせないぞ]  異世界の草に転生した人類の一派は、雑草魂で繁栄を遂げた。知的生命体として進化し、高度な文明を発展させたのである。ただし、それは元の人類の発展形態とは異なる形であった。あくまでも植物である。便宜上、草人間と呼ぶが、人間とは言い難い。個体ではなく、集団的な知性の塊なのである。知性だけでなく、痛みも共有していた。ある草が踏まれたら、全部の草が痛みを感じるのだ。さらに記憶も共有している。いうなれば個にして全の草という存在が地上を覆い尽くす地球に、君たちは姿を現したのだった。  自らを雑草塊と称する地球の支配者は、君たちに冷酷な命令を下した。 [また地球を汚すつもりだろうが、そうはいかない。地下へ戻れ]  人類という邪悪な存在が地球を汚染させたという悪事の記録が遺伝子に残されているので、その残余である君たちを雑草塊は許そうとしなかった。農薬を撒いて枯らしたり、火炎放射器で焼き尽くしてはどうか? と多く者が考えたが、雑草塊の次のような言葉を聞いて再考を余儀なくされた。 [お前たちが来る前には爬虫(ハチュウ)人類とかいうトカゲの仲間が侵略してきたけど返り討ちにしてやった。この雑草塊と戦うつもりなら、容赦はしない。だけど地下に戻るなら命は取らない]  選択のボールは君に与えられた。おとなしく地下で眠りに就くも良し。地下へ戻って戦いの準備を整えてから、地上の雑草塊と戦うも良し。好きな方を選ぶがいい。 @寝る @戦う {@寝る}  寝る子は育つという。草の天下も永遠ではないだろう。雑草塊が雑草魂を無くした頃を狙って攻撃を仕掛けてみたらどうか? {@戦う}  君たちは返り討ちに遭り、その死体は朽ち果て雑草塊の栄養となった。どうやら君たちには雑草魂が欠けていたらしい。いや、仮に雑草魂があったとしても、本物の雑草塊を持つ雑草魂に勝てたかどうか、分からない。あれ、逆だ。 † 第八話 <解禁>というお題で書いた話だったような気がする  非人類系海洋知的生物群の諸族代表で構成される人口抑制委員会は、持続可能な開発のために約一万年にわたって維持してきた、ゼロ産児政策を全面的に撤廃することを緊急会議で決定した。宇宙元旦の満潮時刻から交配が許可される予定だが、それに先立ち、万物の霊長を自称し我が物顔で地表にのさばる人類の捕食が解禁される見通しだ。人類の骨と肉と脂をたらふく食べることで生殖活動に必要なエネルギーを満たして欲しいと同委員長は述べている。  世界人口が八十億を突破したため環境負荷が大きくなり、非人類系海洋知的生物群の人口抑制策が無意味になりつつあることが今回の緊急決定につながった、と別の委員はオフレコで語った。極端な人口抑制策のために一万年の長きにわたって次世代を生み出さなかったことへの批判もある。労働力不足を補うため現役世代に対し高額な抗老化剤を投与して働かせる政策は勤労意欲を低下させ生産性低下を招いたと財界から非難されているのは周知の事実だ。環境保護団体からも現状の施策は費用対効果の面で問題があり、長期的には限りある資源の浪費をもたらすと指摘されており、これらの提言が方針変更に寄与したとの憶測が流れている。  いずれにせよ、自粛が終わったのは喜ばしいというのが諸族代表に共通する意見だ。ただし人肉の解禁を危惧する声もある。飛翔型甲殻類系男子代表は「女子の取り合いで刃傷沙汰(にんじょうざた)になるのはやむを得ないとしても、八十億人もいるヒトの肉の奪い合いで怪我をするのは愚かなことだと自覚して欲しい」と、繁殖のパートナーを巡る争いなら命を懸けることも許容されるとの判断を示しながら一方で、摂食時には譲り合いの精神を持ち理性と節度と品位のある紳士的な行動を求めている。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  夫の入院中に義父と関係を持った貴女は、虚弱体質の夫では味わえなかった肉の喜びに震え、夫が退院してからも年上の男の体を貪り続けている。今日も幼い子供を病身の夫に預け夜だというのに家を出た。妻を亡くしてから独り身の義父の世話をするという理由を、夫は疑いもしない。その純粋さに憐れみと苛立ちを覚える。同時に、罪の意識も感じなくはない。だが、そんなこんなも義父に抱かれると忘れてしまう。何もかもが溶けてしまうのだ! 行為を終え裸のまま窓際に立つ。満月に輝く夜の海を見る。波音が聞こえたような気がした。海からは離れているのに、と貴女は不思議に思う。気のせいなのか? それとも、揺れ動く心の現れなのか……と悩ましく思う。その元凶である義父を振り返って溜息を吐き、涙を流す。もう離れられないと、心の底から思った。これは過ちでしかない。そうなのだけれども、この出会いは運命だという確信は揺るがない。そして、我が子を思う。  あれが、この愛しい男の子供だったら良いのに……と、どうにもならぬ想いに囚われていたせいで、キチン質の頑丈な翼二枚が背中の左右に生えた小学校低学年程度の大きさのエビみたいな生き物が窓の外に張り付いていることに気付かなかった。イセエビだったら物凄く高値の付きそうな翼あるエビは、その大きなハサミで窓ガラスを叩き割り、そのまま貴女の後頚部を鋭い爪で切り裂く。それから器用にハサミを使い、貴女の頭を引き千切ると口元へ運び、発達した顎で噛み砕いて咀嚼した。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  この男はナメクジかよ、と貴女は腹の中で罵った。貴女の腹の上ではナメクジみたいにネチャネチャした脂ぎった男が動き回っている。腹の下には船室のベッドがあって、その下には船底があり、そのまた下には深い海がある。貴女は自分が海底に沈む大きな貝となっているイメージを浮かべようとした。それは現実逃避である。お金のためとはいえ、こんな奴に抱かれる自分が情けないし、腹立たしい。さっさと終われ、重いんだよ! と自分に伸し掛かる男に唾を吐きたくなるが、高級クルーズ船にただで乗せてもらっている身分なのでパトロンの機嫌を損ねるわけにもいかず、ただただ「私は貝になっている」と思い込むことで気分を紛らわせていた。それにも限度があるので、自分が貝殻に乗ったヴィーナスとなった空想をして楽しむ。子供の頃はプリンセスになりたかったことを、唐突に思い出す。自分は今、幼い頃に憧れたプリンセスに、いやプリンセスっぽい何かになれているのだろうか? 金持ちしか乗れない豪華客船に乗っているのだから、それっぽいものになれてはいるのだろう。満月の夜のナイトクルーズですもの。貧乏だった子供の頃には考えもしなかったわ。ま、プリンセス全員がイケメンの王子様と結ばれるわけでもないっしょ! と自分を納得させて気分を落ち着かせたら、男を見る目が変わってきた。さっきより引き締まった顔になった感じなのだ。タイプの顔に思えてきたのである。貴女の全身が熱くなり、気分は異様に高揚した――あれ、もしかして、これって恋に落ちたってやつ? 私こんなナメクジ男にマジ惚れしたっての! 信じらんない! こんな奴、絶対に好きになんかならないんだから!  貴女はラブコメっぽい錯覚に陥っていたが、それは皮膚や粘膜から吸収された毒が脳に回ったことによる幻覚である。その毒は貴女の上にいる男が貴女に注入したものだ。貴女を愛している軟体動物のナメクジみたいな男は、海水に再適応したナメクジの知的な仲間に体の内側から食べ尽くされ、皮膚の薄皮を残すだけになっている。つまり真のナメクジ男と化してしまったのだ! 男を貪った怪物の次なる獲物は貴女だ。貴女の体内に注入した毒で何もかもを麻痺させ、抵抗できなくなったところを消化液の沁み込んだ舌で舐めまくり、柔らかく溶かしてから小さな歯で削り取って食べるつもりなのだ。メインディッシュが男で、デザートは貴女なのである。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  自分は夢をかなえた。それなのに、どうして死にたいのだろう?  タワーマンションのベランダから夜の都会を眺める貴女。超有名の美人モデルで会社経営者で、社会的地位は高く金には不自由していない。ミュージシャンの夫とは別れたが新しい恋人は二人もいるし、可愛い子供が一人いる。人生に不満は無い……はずだった。それなのに今、死にたくて死にたくて我慢ができなくなった。ベランダから飛び降りたくて仕方がないのである。いや、待て、早まってはいけない。子供を残して死ぬわけにいかない……と思うものの、こんな自分がいた方が子供の迷惑になると考え直す。  みんな、さようなら!  貴女はベランダの手すりを乗り越え、空に身を投げた。  それを下で待ち構えている生き物がいた。鯉に似た風貌の半魚人である。図体は鯨のように大きい。それでもタワーマンションよりは小さいので、上からだと小粒に見る――が、それは一瞬のこと。地球の重力に引き寄せられて貴女は地表にグングン近づき、それにつれて半魚人の姿が大きくなっていく――と書いている間にも落下し続け、空に向けてパカッと開けられた大口が今この瞬間、貴女の目の前にある。  貴女は半魚人の口の中にスポッと収まった。柔かい舌の上に落ちたので衝撃は分散され、首の骨は折れて絶命したものの百万ドルの保険が掛けられた全身が潰れる事態は免れた。貴女が床に落としたトマトみたいな姿となるのは、半魚人の喉元を通過する時だ。鯉型半魚人は鋭い牙も尖った歯も無いが喉に石臼のように硬くて丈夫な歯が有る。それを使って、どんなに硬い獲物も噛み砕き、すり潰して食べるのだ。貴女は半魚人の喉でペースト状になってから胃袋へ流れ落ちた。そこにはドロドロに溶けた先人の死骸が数人分ある。貴女の前にも餌食になった人間がいたのだ。粥状になった先客たちの肉汁に貴女の美身が合わさり、半魚人の胃袋がまた少し膨らんだ。  半魚人の犠牲者は貴女で最後というわけでもなかった。胃袋には、まだまだ食べ物の入る余地があるのだ。貴女を飲み込んだ鯉型半魚人は上顎から生えた二対の髭からタワーマンション上層階の住人へテレパシーを放射した。急に飛び降り自殺がしたくなる、そんな物騒なテレパシーだ。テレパシーを受信した反応があったら、その人物の心を操るため集中的にテレパシーを浴びせる。鯉型半魚人の超能力にかなう人間はいない。二分も経たずに上から落ちてくる。インスタントラーメンより手軽に新鮮で美味しくて滋養になる獲物が食べられるのだ。 § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  こういった具合で、多くの人類が食い殺された。それでも八十億人もいるのだから、一晩では食べ尽くせない。捕らえられたが殺されずに済んだ者は、それなりの数に上る。貴女も生き残った一人だ。ただし死ぬまで腹痛に苦しむ。人類より大きな脳を持つ超特大なアニサキス型の寄生虫が貴女の体内に息づいているためである。その宿主となった貴女は寄生虫と共に生きる運命なのだ。一種の夫婦といっていいだろう。さらに寄生虫の虫卵を皮下脂肪内で孵化するまで育てる役割も担っているから、母親みたいな存在でもある。出産時に母体へ大きなダメージを与える人間の赤ん坊と違い、寄生虫の子供たちは母親の皮膚を食い破る際に痛みを緩和し傷の治癒を促進する物質を分泌するから、安心して子離れの時を待つと良い。  しかし問題は、寄生虫の子供だけ繁殖させていれば後は寝ていて構わない、とはいかないことだろう。人類という種を絶やさないため、子孫を残す激務がある。貴女に種付けをする男は生殖細胞の中に人類の染色体を持っているから繁殖は可能だ。ただし子育ては全く手伝わない。他の女に種付けをしなければならないので、貴女に構っていられないのである。  人類の男は徹底的に殺され、ほぼ絶滅した。非人類系海洋知的生物群は人口大爆発で地球環境を破滅の危機に追いやった人類に対して、その人口を厳しく抑制することにしたためである。それでも人類という種の保全は、最低限ながら行うこととした。中を仕切った巣箱の中に多くの女性を入れ、種付け用の男を各部屋に巡回させるのである。平安時代の宮廷や江戸時代の大奥みたいなものを想像して頂ければ――いや、それほど優雅なものではないから、あまり似ていないかもしれない。  ちなみに種付けの成功率が低い男女は殺されるので、誰もが必死に交尾する。交配が成功し妊娠しても、最低限の栄養しか与えられないので上手く生育できるとは限らない。巣箱の中は排泄設備が不十分で換気も悪く妊婦が快適に過ごせる生活環境とは程遠い。そして死産も多く、無事に生まれても一か月を待たずに死ぬ赤子が、しばしばいる。  それでも人類の人口が急カーブで上昇しつつあることを、非人類系海洋知的生物群の研究者たちは驚きの目で見ている。絶滅の危機に瀕したとき生命は最も激しく燃え盛るのだろうと詩的な見解を表明する生物学者がいれば、住環境を少しでも良くするため狭い巣箱の中で同居人の間引きが横行しており、仲間に殺された犠牲者の死骸を生存者たちが食べていることから、人肉食のタブーが破られ共食いが一般化したことが栄養状態の改善に貢献し、それが出産ブームを後押ししていると考える家政学者もいて、意見は一致していない。 † 第九話 電気の妖精ぷるとクン  やあ(みんな)、ご機嫌いかが? 僕は電気の妖精ぷると! 科学の力で平和と安全そして健康的な未来を人類に約束する天使っぽい存在だよ!  今日は皆に、僕の力で幸せになった素敵なカップルのお話をするよ。この話を読み終わったら、とってもハッピーな気分になれるから、このページをたまたま開いた君は、すっごくラッキーさ! さあさあ、読み始めてよ。遠慮しないで、今すぐに!  § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  結婚式の当日、彼は式場に現れませんでした。代わりにやって来たのは、彼の妻を名乗る怪しい女の代理人と称する胡散臭い中年男です。その中年男は弁護士と書かれた名刺を私に見せ、私の胸元をジロジロ覗き込んで嫌らしいニヤニヤ笑いを浮かべながら、多額の慰謝料を請求しました。私が一生働いても稼げない額でした。彼の妻だと言っている女が、私の不倫によって心身共に酷く傷つけられたので、その損害賠償とのことです。これは詐欺だ! と恋する女の直感で見抜いた私は、ウエディングケーキを切るための大きなナイフで弁護士を詐称した男の胸を切り裂き、それから返す刀で男の首を肩口から跳ね飛ばしました。それから血で汚れた手で携帯電話を操作し彼に連絡しようとしますが、つながりません。彼に何か深刻な事態が起きたのは明らかです。キモい中年男の汚い鮮血に染まったウエディングドレスを脱ぎ捨て、隣の会場でダサい結婚式をやる予定の女が用意していたセンス最悪のウエディングドレス――グラマーな私に胸のパットは不要なので外したけど、緩くてブカブカのウエストは詰める時間が無かった――に着替え彼の元へ向かおうとする私をホテルの従業員が取り押さえようとしたので血染めのナイフを振り回して必死に暴れました。そのうち警官二名がやってきたので、その二人を刺し、血と脂で斬れ味が悪くなったナイフの代わりに警官の拳銃二丁を奪いホテルの外へ出たとき、私は気付きました。私は彼の住所も職業も知らないのです。連絡はいつも彼からで、電話番号はいつも非通知設定で、会うときはいつも、このホテルだったのに彼は、彼は肝心の今日この時に限って、ホテルに来なかったのです。  私は彼が何者かによって殺害され、もうこの世にいないことを、彼を心の底から愛していた女の直感で悟りました。  落胆した私は腹いせに拳銃を一発空へ向かって撃って気分を上げてから、街を軽やかに歩きました。とても暑い日でしたので、涙と汗で化粧はいつしか剥がれ落ち、自分でも凄い面相だとウインドウショッピングしているときに思いましたが、気にしません。街の喧騒に疲れた私は、パチンコ屋の駐車場で燃料が一番多く入っていたスポーツ・ユーティリティ・ビークル(Sport utility vehicle、SUV)を奪い、車内でぐったりしていた幼児と一緒に郊外へ向かいました。  街外れで警官隊が道路を封鎖していましたので、熱中症で既に死んでいた子供を、まだ生きているかのように動かして警察を騙し封鎖を解除させます。封鎖を解かなかったら子供を殺すと脅したのです。道路封鎖を突破した私は、進入禁止地帯へ向かいました。そこは度重なる原発事故で人の住めなくなった土地で、放射性廃棄物や毒性が極めて高い産業廃棄物の仮置き場そして多様な理由で人目を避けて暮らすようになった人の楽園です。愛する人を失って世界に絶望した私にピッタリの場所でした。  その場所に着いた頃には日が暮れていました。その頃には幼児の腐敗臭が酷くなってきたので、私は死体の処置について考えました。命を大切にしない親のせいで死んだ、可哀そうな子供です。埋めて供養するのが一番、と思い車を路肩に停めましたら強烈なライトを浴びせられました。続いて拡声器から声が聞こえてきます。 「人質を解放し、それから車を降りろ。さもないと催涙弾を撃つ」  一生分の涙が出尽くした私に催涙弾を撃ったところで、何になるというのでしょう? 私は子供の死骸を助手席に置き、運転席のドアを開けました。そのドアを盾の代わりにして、前方に停まる警察車両のヘッドライトに向かって拳銃を発砲します。その数が多すぎて、たちまち弾切れとなりましたので、胸の谷間に挟んでいた拳銃を引き抜きました。再びライトに向かって銃撃しますが、その途中で気が付きます。弾倉に残った弾丸よりも警察車両のヘッドライトの方が、圧倒的に数が多いことに。  私は弾丸を一発だけ残して発砲を止めました。その弾丸で私の心臓を撃ち抜き、この純白のウエディングドレスを真っ赤なカラードレスに染め直して、お色直しの代わりにしようと考えたのです。  私が胸に銃口を向けた、そのときでした。 「ボインは撃たれるためにあるんじゃない、赤ちゃんが吸うためにあるんやで~」  なんじゃそりゃ? と思い声がした方を見ますと助手席に座っていた幼児の死骸が目を覚まし、私を見つめています。その幼児は言いました。 「大量の放射能と染色体を変容させる化学物質それから未知のウイルスが充満している場所へ連れてきてもらったおかげで、僕は超能力に目覚めたみたいだ。本当にありがとう」  土気色だった幼児の体が緑、赤、黄色と、まるで葉っぱのように色鮮やかに変色し、やがて青い輝きを発しました。車のフロントグラスも様々な色を反射して光り、そして青一色に染まります。そんな場合ではないと分かってはいますが、私は目の前の光の渦に目を奪われました。その荘厳な光を見て警官たちは「チェレンコフ光だ、逃げろ!」と口々に叫び逃げ去ります。価値の分からない奴らですよね。  超能力者となった幼児は私に語り掛けます。 「ここから先は地上の楽園だ。今から、その最深部へ行こう。そこへ行けば、僕たちは新しい景色を目にすることになるはずだ」  私は新しい景色を見たくなりました。エスパーとして生き返ったゾンビっぽい幼児に微笑んで、私はアクセルを吹かします。  追っ手から逃れた私は超能力者となった幼児を乗せて、進入禁止地域の中へ車を走らせました。助手席の幼児が、ちょっとの間で急激に大きくなり、その服が裂けて全裸の美しい少年そして美青年になったのは驚きましたけど、彼が私に「愛している」と囁いたことに比べたら、それほどのことではありません。こんな私を愛してくれる人がいるなんて……本当に嬉しいです。  § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § § §  は~い(みんな)、面白かったかい? え、話が途中で終わっている気がするって? ははは、そりゃそうだよ。物語が終わるのは宇宙が終わるときだけさ。それはともかく、体調はどうかな? 君が手に持っているスマホや使っているパソコンには僕の体から作った電気が流れていて、これが健康に凄く良いんだ。え、何も変わらないって? もうすぐ分かるよ。原子力で作った電気を使っていると、気分がスッキリするからね。覚醒するんだよ、新しい自分に目覚めるんだ。超能力者に生まれ変わるかもよ! 少なくともメンタルが鍛えられるのは確かだよ!  二酸化炭素を排出する火力発電や環境を破壊する水力発電より原子力発電は地球に優しくて素晴らしいってことは皆が知っていると思うけど、メンタルにも良いなんて、本当に素敵だよね!   それじゃ、今日はこれでお別れだけど、ぼくはいつも君の側にいるよ。  電気の妖精から離れられる人間なんて、この現代社会にいないんだから。 † 第十話 大学入学共通テスト直前の、問題提起小説  列車内は痴漢だらけだった。右を見ても左を見ても、痴漢・痴漢・痴漢である。痴漢集団のなすがまま、好きなようにされている女の子たちは俯いたまま動けずにいた。恐怖心や羞恥心そして口惜しさと怒りが強すぎて、身動きが取れないのだろう。  この光景を車内に入ってすぐに目撃した貴方も、唖然として固まってしまった。 「共通テストの当日は痴漢日和」 「痴漢チャレンジするなら共テの日!」 「1/13と1/14は痴漢チャンスデー、乗り遅れるなよ」  大学入学共通テストが近づくと、そんな破廉恥かつ卑劣な投稿がインターネットに目立つようになるとの話を、貴方は知っていた。しかし実際これほどまでに痴漢が多いとは想像していなかった。  痴漢されていないのに固まっている場合ではない、と貴方は己を𠮟咤する。スマホで警察に通報だ! と思ったところで、また固まる。家にスマホを忘れてきたのだ。それなら痴漢を取り押さえてやろう! と決意したが相手が多すぎた。被害者の女性たちを除けば、車内にいる全員が痴漢なのだ。反撃されたら返り討ちに遭うのは間違いないだろう。だが、このまま黙って見過ごせない。【人間には負けると分かっていても戦わねばならないときがある】とバイロンやハーロックが言っていた。それが今、このときなのだ。  貴方は拳を固め痴漢どもへ向かって足を一歩踏み出した。そのときである。 「申し訳ございません。試験中ですので、どうかお見逃し下さい」  女性の声で背後から突然話しかけられ、貴方は文字通り飛び上がった。顔を強張らせて振り返る。パリッとしたスーツの女性が会釈した。 「痴漢行為を止めさせようとなさっていることは、私には分かります。そのお気持ちはとても嬉しいのですが、これはサキュバスたちの異性吸引力を評価する試験なのです。どうかこのままにしていただけないでしょうか?」  正確なところは知らないけれど、サキュバスというものが性的な分野に深く関わる魔性の存在だと貴方は知っていた。それにしても異性吸引力を評価する試験とは、これ如何に?  スーツの女性は、自分は試験官だと名乗ったうえで、試験の概要を説明した。  サキュバスたるもの、男たちを誘惑できて一人前だ。この試験では痴漢たちを自らに惹き付け、迷惑行為をさせた人数が評価点となる。トップになるためには他のサキュバスから痴漢を奪わねばならず、そういったサキュバス同士の駆け引きも試験官は注視している――との話を聞いて、同じ店の中で贔屓の客を取り合う接客業の人みたいだな、と貴方は呑気な感想を抱いた。 「今日が試験日なのですか?」 「昨日と今日ですね。大学入学共通テストがあると、痴漢が湧いてきますから、試験がやりやすいんです。害虫みたいな奴らですけど、一つくらいは良いところがあるのですね」  女性試験官は美しい顔を憎悪に歪めて、そう言った。 「それでは、あの女の子たちが俯いているのは、どうしてなのです?」 「テレパシーで痴漢たちを呼び寄せているのです。自分のところへ来るように、精神を集中させて強く念じているのです」  やがて列車は駅に到着した。扉が開くと、男たちがドヤドヤ入ってきて、すぐに痴漢行為を働き出した。降りる客はいない。痴漢に夢中で、何もかも忘れているように、貴方の目には映った。  貴方は試験官に尋ねた。 「この痴漢たちは、変態行為に没頭しすぎて、正気を失っているように見えるのですが」  彼女は頷いた。 「その通りですわ。ですから痴漢をやっているのです」  痴漢する気が無かったのに、妖艶なサキュバスに惑わされた心の弱い人間がいるのでは? そんな貴方の問いかけに女性試験官が答える。 「それは言い訳にすぎません。すべての人間がサキュバスに惑わされるわけではありませんし、痴漢行為を働くわけではありません。心の弱さなんて言葉は、犯罪者の戯言なのです」  それは正しいのか? 貴方は分からない。列車が貴方の降りる駅に近付く。貴方は試験官に別の質問をした。 「この痴漢たちは、この後どうなるのです? 警察に突き出すのですか?」  女性試験官は冷たく笑った。 「いいえ、このまま魔界へ連れて行って、生贄にします。痴漢なんて生きる資格がありませんから。私たち悪魔も、一つぐらいは良いことをしませんとね」  列車は貴方の目的駅に到着した。痴漢たちが鼻息荒く車内に乗り込んで、すぐさま迷惑行為を始める。貴方は無言でホームに降りた。女の嬌声と男の悲鳴が聞こえたような気がして、振り返る。既に列車は駅を出た後だった。 † 第十一話 貴女が殺人犯の物語  殺人犯の貴女はバスに大事な書類を忘れてしまった! 身分証明書やパスポート等を偽造するための大切な書類である。そんな重要書類を座席に置いたまま、一体どうしてバスを降りてしまったのか! と責めたくなるが、警察から逃げることに貴女は疲弊していたので、うっかりミスも仕方ないと言えよう。  バス停の横で貴女は思案した。  道路が混んでいる……走れば次の停留所で追いつけるか!?  しかし後ろからパトカーが猛スピードで走ってきたのが気になる。警察は貴女を血眼になって探していた。犯人を追いかけて歩道を疾走する刑事ドラマの登場人物みたいな目立つ真似はしたくない。  計画変更だ。偽造パスポートを使っての海外脱出は諦め、航空機をハイジャックしよう! と貴女は思い立つ。  そうと決まれば話は早い。空港で自家用機のハイジャックに成功する。  プライベートジェットの所有者でパイロットの女性を人質に取り、国外逃亡を謀るが――その人物は魔女だった。  その魔女は貴女の中に、魔女としての優れた資質を見出した。 「どんな悪事を働いても無問題、それが魔女! 根っからの悪党である貴女は魔女にふさわしい人間よ! 貴女にとって魔女こそが天職なのよ! そう、魔女になるのよ!」  そう言われると、そう思えてくるから不思議である。貴女は魔女の弟子となり魔女の国へ向かった。魔女の道場に入門した貴女は、そこで素晴らしい成績を修める。師匠の魔女の見込みは間違っていなかったと言っていいだろう。実際のところ、それ以上だった。貴女の邪悪な本性が、さらに研ぎ澄まされていったのである。  たとえば……立派な魔女となるためには人の恨みを買わないといけない! という根拠のない思い込みのために、欲望の赴くまま好き勝手なことをやり、貴女は周囲から大いに憎まれた。  人の彼氏を奪うなんて日常茶飯事だった。  恋人を追いかけて内緒で上京した娘がいた。驚かそうと彼の部屋に行ったら、知らない女がやって来て……つまり貴女が現れたわけだが、そこで大騒動となった。 「あなた誰? 私の彼に何の用なの!」 「あたしは凄い魔女になる女だよ。この男に用があるってのは、他でもない。若いエキスを吸収するためさ!」  そう言うが早いか凄まじい吸引力を持つバキュームの魔法で青年の若いエキスを吸い取り、干からびたシワシワの老人へと変えてしまった。驚き嘆く娘に高笑いを浴びせてから巨大な蝙蝠に変身して逃走! などといった事件を起こしまくったので、各方面から道場に苦情が殺到した。  師匠の魔女は閉口した。魔女にピッタリの邪悪な貴女がトラブルメーカーになることは予想の範囲内だったが、ここまで極悪人だとは想像の範囲外だったのだ。貴女をスカウトしておいて、さっさと厄介払いしようとする。  一人前の魔女になるための最終試験。その内容は、鬼ごっこで師匠を捕まえること!? というわけで追いかけっこが開始された。師匠としては、さっさと捕まって終わりにしたいところである。貴女が今後やらかすであろう、取り返しのつかない迷惑行為の責任を世間から糾弾される前に、貴女を一人前の魔女にしてしまう腹積もりだ。そうなったら、自分とは無関係だと開き直れる。鬼ごっこをやる気はまったくなかった。  一方、貴女は真剣である。全能力をフルに使い、師匠を捕捉しようとした。 「令和版シャイニングブリザード!」  必殺の魔法を食らった魔女は即死した。この国でも貴女は殺人犯になってしまったのだ。魔法の国にも警察は存在するので、貴女はここでも警察から追いかけられる立場になった。逃亡のために、また身分証明書やパスポートを偽造しなければならない、と貴女は思った。もしもバスに乗ることがあっても、中に忘れ物はしないと固く決意する。  しかし残念ながら、またもバスに大事な書類を忘れてしまうのであった。 † 第十二話 ネット小説家メチャイヌの物語  ナヘム・ラフリン・ラボイルはスマートフォンを握り締めて言った。 「これが兄のメチャイヌが書いた小説。あんたが酷評した作品も、この中に入っているよ」  ララ・ムーニュームーは言った。 「何だか知らないけど、私には関係のないこと。私に復讐がしたいのなら、もう済んだ。あなたの兄さんが書いた変な小説を読まされて、もうくたくた。反吐が出そう。それで十分、気が済んだでしょ?」  そうね、とナヘム・ラフリン・ラボイルはスッキリした顔で頷いた。
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