幕間1

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幕間1

  ◇  私の高校時代は、いつも海が隣にあった。  自転車で駆けていく通学路でも、昼休みによく入る校舎の屋上でも、いつでもあの広大な水平線が視界の中に入り込む。まるで、おれがこんなに堂々としてるんだからお前も少しは見習うんだ、なんて言われてるようで心底うんざりしてしまう。  机に頬杖を突きながら、その日も私は溜息をついていた。喚起のためにと開けられた窓の隙間から木枯らしが入り込み、頬を撫でてくる。今年も冬が段々と近づいていることを心の何処かで実感する。  早く部活に行かないと。あの鬼顧問が来るよりも早く。  無理に自分を鼓舞するものの、それでも気力が沸いてこない。これも私が前の本番でヘマ起こしたせいだ。うちの吹奏楽部の中ではかなり重要な本番だったのに、私がソロで音を外してしまい散々な結果になった。当然部内の色んな人達から恨まれることになって、先生にもあからさまに失望されて、もう居場所がない。  辞められるのなら辞めてしまいたい。だけど、ここで辞めたら私が現実逃避した意気地なしみたいで、なんか嫌。  室内の喧騒が段々と廊下へと去っていく中でも席から立ち上がれずにいた。このまま消えてしまえたらどれだけ楽だろう。誰かに責任を押し付けるわけでもなく、ただ静かに灰となって冬の海へと吹き去っていく。  そうすれば、誰にも迷惑をかける心配は無くなるのに。 「あ、こんなところにいた」  その時、廊下の方から天真爛漫な声が響いてくる。憂鬱の溜まった胸の奥に手を突っ込んで、無理やり栓を引き抜いてくるような馴染み深い声。振り返ると、そこには扉に手をかけて教室を覗き込む紗友里の姿があった。 「やっぱり本番の件、ずっと引きずってるでしょ? 駄目だよ、一人で抱えたら。友梨佳、何でもかんでも抱え込んじゃうタイプなんだからホント良くないって」 「……うるさいな。あっち行ってよ」  クラスが別とか関係なくずかずかと踏み込んでくる紗友里を、私はしっしと手で払う。けど、こうやって他人を軽くあしらうのも幼馴染である彼女にしかできない。それと、この程度で諦めるほどこの子が柔じゃないことも知っている。 「やだ。最近の友梨佳、目を離した隙にどっかに消えて行っちゃいそうで危ういんだもん。そんなに部活が嫌ならさぼっちゃおうよ。あたしも付き合うからさ」 「いいよ別に。てか紗友里、次の演奏でソロあるじゃん。私に構ってたら今度はあんたが怒られるよ?」 「だって、こんな可愛い友梨佳を虐めるようなヤツらのために頑張りたくなんかないもん。それに、何だかクーデターみたいでかっこよくない?」  隣の机の上に腰を下ろし、紗友里は悪戯っぽく笑った。私を元気づけるためだとは知っている。だから嫌なのだ。私の我儘に無理矢理付き合わせているみたいで。 「なに変なこと言ってるのさ。早く戻りなよ。別に私、一緒にいてほしいなんてお願いしてないし」 「冷たいこと言うなよぉ。もう虹太に買い出し向かわせちゃったんだし」 「そんなの戻ってきてから部活に戻れば……って、ちょっと待って。買い出しに行かせたってどういうこと?」  答えを聞くより先に、廊下の奥からドタバタと忙しない足音が響いてくる。驚いて振り返ると、同じタイミングで両手にビニール袋を掲げて息を荒げるもう一人の幼馴染、虹太の姿が視界に滑り込んでくる。 「おら紗友里。頼まれてた物……買って来たぞ」 「お、ナイスタイミング! ちょうど紗友里が駄々こね始めてた頃だった」  机から飛び降りた紗友里はてくてくと虹太のもとへ歩み寄り、片方のビニール袋を漁り始める。そんな他愛のない様子を眺めていると、突然彼女の手から何か四角い物体がこちらへと放り投げられる。  胃が喉から飛び出そうな想いをして、胸元で危うくキャッチする。両手に染み渡る尖った感触。恐る恐る物体を確認すると、それは私が幼少期から愛飲する、紙パック入りのいちごミルクだった。 「それ飲んだら早くトンズラしよ。そろそろ先生にさぼってることばれちゃうから」  ぺろりと舌を出しながら、そう紗友里が促してくる。廊下の虹太も白い歯を見せて笑いかけてくる。私を元気づける手段も、その表情も、小学校の頃から何にも変わっていない。  全くもう。  この二人を見ていると、自分の悩みが馬鹿馬鹿しく感じられる。  廊下の奥へと消えて行く二人の背中を、私は慌てて追いかけた。こういう時の自分の表情が大体笑顔になってることを、最近になってようやく気付いてしまった。
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