保護

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 つい昨日の行動を、僕は心の底から悔やんでいた。墨をこぼしたみたいな夜闇が広がる空を、駆け抜けながら。  僕の読み通り、爺ちゃんはいつも通りに帰ってこなかった。普段なら遅くとも、夕方までに警察が見つけてくるのに。  あの時、僕がもっと我慢していれば……。爺ちゃんを傷つけるような事を吐いていなければ……。今更後悔したって、爺ちゃんは見つからない。  母と婆ちゃんはずっと泣いているし、父は二人を慰めるために奔走していた。僕はというと、何もせず、ただ警察が爺ちゃんの事を見つけてくれることを、ずっと待っていた。それに、耐えられなかった。胃液の濁流が荒ぶり、せりあがってくる熱を無理矢理押し込めた。  ジッとしていると、吐いてしまいそうになるのが、気持ち悪かった。僕は奥歯を欠けてしまうぐらい強く噛むと、家を飛び出した。じりじり待っていても、らちが明かない。胃の中だけでなく、頭の中も破裂しそうで、どうにかなってしまう前に、行動した。家族の止める声が耳に入ったけど、僕は乱暴に振り払って風を切りながら走った。  冷たい空気が穴という穴に沢山入ってきて、脳が破裂しそうだ。まあ、脳が健全にあったところで、爺ちゃんを突き放すような言い方をしたあの瞬間が、永遠に繰り返されるだけなんだけど。  その場面が流れる度、僕は爺ちゃんの存在を必死に探しまわる。しわくちゃな手で僕の頭をなでて、優しさと強さで構成された笑顔を浮かべる爺ちゃんを。けれど、見つけたところで、そこには認知症になった爺ちゃんしか、いないんだ。  でも、それでもいい。  僕は地面が跳ね返る程、思いきり蹴りながら走る。一応靴は履いてきたけれど、履いてきたというより突っ込んだ形だから、かかとは踏んだまま。多分、何かの拍子ですぐに脱げるのが目に見えている。けれど、僕はこのまま脱げても裸足で走る気満々だ。足の皮がむけて、ヌルついた生暖かい血液が出ても、足跡を地面に擦り付ける勢いで走るつもりだった。  それで、爺ちゃんが見つかるのなら、安いもんだ。  僕の肺は吸っても吐いても情けなく空気が通り抜ける音しか聞こえなくて、鉄の味がほのかに口に広がる。明りが灯っていない、寝静まった住宅街の中に僕の呼吸音がやたらと響いて耳障りだった。呼吸音ですらハッキリ聞こえるんなら、足の関節が軋む音も皮膚を貫通して聞こえてくるようになるんだろうな。  孤独な音に、耳を支配されるその前に、爺ちゃんを探さないと……。  僕は、懸命に足を動かした。煩わしい感情や雑念を一切合切捨てて。  走って、走って、走って……そして、ついに限界が来た。  足が急に止まり、僕の体は前につんのめった。そのまま、固いコンクリート状の地面にダイブし、鼻を強かに打ちつける。手で支える反応が、一瞬遅れたのだ。  慌てて起き上がって走ろうにも、足に力が入らなかった。笑っている。ここまでか、と高笑うかのように笑っている。僕は躍起になって立ち上がり、走ろうとしたが、口の中に香るよりもっと濃い鉄の匂いが鼻に伝う。  驚いて、思わず鼻の下を触ると、少し粘性のある液体が指に絡みついた。  見ると、夜闇に溶け込んで赤がぎらついていて、僕を睨み上げるように見ている。ふっと、張りつめていた全身の糸が切れてしまった。  コンクリート状の地面に縫い付けるように座り込み、ボンヤリと宙を見る。星は、一つも出ていない。ただ、黒が一面中に広がっているだけだ。  もう、会えないんだろうか。もう、話せないんだろうか。不安が徐々に湧き出てきて、ぐじゅぐじゅと歪な殻が心を覆いそうになる。これに任せたら、楽なんだろうな……。そう思いながら目を閉じた、その時。  肩に、暖かく、節くれだった棒状のものが触れる。感触を辿ると、五本ぐらい、ある。  不安の殻を無理矢理剥いで、後ろを振り返った。顔が暗がりで見えないが、高齢な男性だということは、手と体格で何となく掴めた。  爺ちゃん……だよね……。  殻を剥いだ先には、一筋の希望が見えた。この光を掴んだら、僕も救われるのかな……。光の先に、手を伸ばすように、しわくちゃな大きな手にしがみついた。 「君、大丈夫かい?」  期待外れの声が、僕の鼓膜を貫く。急速に光の筋は閉じ、また闇の中へと放り出される。身寄りだと思って掴んだ暖かい手も、ただの冷たい他人だったと気づいた。  違う、この人は、爺ちゃんじゃない。  僕は握っていない方の手で拳を作り、爪を立て、痛いぐらいに握り込む。笑いたいのか、泣きたいのか、怒りたいのか、もう分からない。これからどうしたらいいかも、分からない。立ち上がり方も、分からない。  爺ちゃん、早く、保護されてよ。  僕はまた、殻に包み込まれる前に、心の底から、確かにそう叫んだ。    
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