保護

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「いつも、ごめんな……本当に……迷惑かけて」  僕は、手に持っている本を落っことしそうになった。振り返ると、爺ちゃんが涙目を浮かべて、こちらを見ていた。  迷惑かけている自覚があるなら、泣くなよ……。ふいに湧き出てきた感情に、僕は蓋をした。  爺ちゃんが病院で認知症だと診断され、二年ほどの月日が経った。この頃は、爺ちゃんは既に何回か行方不明になっていた。どれも見つかって事なきを得たが、家の中では妙な緊張の糸が張り巡らされていて息苦しい。反抗期満載の中学時代だったら、僕は家に帰ってこなかったかもしれない。でも、爺ちゃんがこんな状態になってからは、反抗している暇じゃあなかった。それぐらいの理性は、さすがにある。  外で遊んだら気持ちよさそうな休日に、僕は爺ちゃんの散らかった部屋を片付けていた。本だけでなく、どこから持ってきたか分からない生ごみが置かれてあったり、父親は仕事で忙しくほとんど家に居なかったが、母と婆ちゃんは家に居る。呼べば来てはくれるが、あまり呼ぼうと思わなかった。  母と婆ちゃんは、僕が学校に行っている間に一生懸命爺ちゃんの世話をしている。そのせいで、二人の瞼は常にうっすら隈が浮き出ており、見るに堪えないほど疲弊している。これ以上二人に負担をあまりかけさせたくない。ただでさえ、僕は比較的守られている立場にいるのだから。そういった思いから、休日ではできる限り二人のサポートまがいの事をした。  これが、結構キツイ。爺ちゃんは何度も何度も同じ話をするし、玄関の置物とかを爺ちゃん自身の部屋の押し入れに隠すし、名前を、間違えられるし……。心を、無造作におろし機で細かく削られるみたいだ。これを母と祖母はほぼ毎日繰り返しているのだから、僕の精神状態の悪化具合は些末なものだろう。  これで、認知症の症状は、まだ穏やかな部類に入るらしい。その事実は、ひとつまみ程の幸運にしかならないけれど、ないよりはましだ。  それに爺ちゃんの場合、自分がおかしくなっている自覚はある。けれど、自分で自分が制御できない。だから、時たまその現実に苦しんでいるんだ。  最初、僕は慰める側に回っていたけれど、段々とそれが疲れるようになってきた……。爺ちゃんの認知症で、家族が疲弊しきっているのは事実だから。嫌な言葉が、次々と浮かぶ。それに無理矢理笑顔で蓋をして、僕は爺ちゃんに気休めの言葉を投げかける。 「全然、迷惑だなんて思ってないよ」  ああ、語彙力が貧弱な自分を恨みたい。きっと、母と祖母だったら、もっと上手く返したりするんだろうか……いや、疲弊しきっているから、返す余裕もないかも……。  そんなことを思って、不器用で稚拙な自分から逃避していると、爺ちゃんはまた言葉を紡いだ。 「本当に、申し訳ない……。迷惑ばかりかけてごめんなぁ……」 「だから、大丈夫だって」 「もう、俺は老いぼれだから、ダメだなぁ」  涙目で震えながら声を紡ぐ爺ちゃんに、沸々と今までこらえていたものが湧き出そうになった。上手く返せない事の苛立ちもそうだが、弱音を吐く程ネガティブではなかった爺ちゃんが、普通に弱音を吐いている姿にやるせない気持ちが湧き立つ。  こっちだって頑張ってんだよ、弱音吐く暇あったら片付けるのを手伝ってくれ。  そんな強い言葉は、認知症の方にかけてはいけない。脳の悪い所を刺激して、進行を促してしまうから。今は爺ちゃんの話にひたすら合わせなきゃいけないんだ。ほら、反抗期も終わったじゃないか。だから醜い感情に蓋をして、爺ちゃんの認知症と付き合って……。 「こんな、老いぼれ、いなくなった方が良いよなぁ」  今度は、しっかり本を落とした。僕は、冷え切った心で、爺ちゃんを見た。柔和な雰囲気を纏い、太い芯が一本通っているかつての爺ちゃんはもういない。部屋の隅で丸くなっている、老いぼれたジジイがいる。 「そうかもね……」  思わず、口から零れてしまった。留めていたものが少し出ていたはずなのに全く軽くならず、逆に淀んだ重みが身体中に巡った。  我に返った時には、手遅れだった。  爺ちゃんは黙って静かに目を閉じ、唇を真一文字に引き結んでいた。    
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