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 もう二十年近く、私は読書らしい読書をしていない。 「読書をしなければ」と焦る気持ちは強くある。自分自身の教養や人間性を高めるためだ。私は何かと無学なのだ。卑下するのではなく、事実を書いている。  ニュースを読んでいても、分からない言葉が多くあって困惑する。  特に経済や科学の記事は分からない言葉が次々に出てきて、だんだんと読むのが嫌になってしまう。常日頃から読書をしていれば、専門用語も多少は理解出来るかもしれない。そうすれば、読んでおくべき記事を放置することも無くなる。  また、良い文章を書くには読書が必要だとよく聞く。  それは私もよく実感している。小説やエッセイを書いているときに、よく手が止まるからだ。  この接続詞や記号の使い方は間違いではないのか。似ていても意味の違う言葉もある。「意思」と「意志」などであるが、それの使い方に私は戸惑う。それをネットで調べるのが面倒になり、自信がないままに文章を書き終えることもある。  これも日常的に読書をしているなら、わざわざ調べる必要はないだろう。きちんとした読書をしていれば、語彙力は自然と身に付くはず。段落の取り方や視点の問題なども、実際に優れた文章を読めば、私にでも少しは分かるかと思っている。  このサイトでもいくつかの小説を発表したが、実は視点などを私はよく理解出来ていない。それでも、小説を書きたいという気持ちが強くあったので、技術がないままにそれらを書いた。自分でも良いことだと思ってはいない。  読書の必要性を痛感したことがあった。  数年前に通っていた文章教室で、私は自分の無知に気が付いた。講師や他の受講生の話を聞いても、私は分からなかったのだ。高名な作家の話題が出たとき、私は黙りこんでしまった。その作家の著書を読んだことがないのだ。それなのに、感想を求められた。  「すみません。私はものを知りません」  正直に答えたが、屈辱に似たものが心にあった。自分の無教養が恥ずかしく、それを馬鹿にしたひとを嫌悪した。  しかし、笑われても仕方がないとは思った。私以外の受講生の文学的素養はかなり高かった。文章を読んでも書いても、私は彼らの足元にも及ばなかったのだ。持って生まれた知性がないうえに、読書を怠っていたのだから、これは当然の話だと言える。  
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