赤い幻影

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   赤い幻影 akaigenei ~立志編~      赤鎧 akayoroi 少年は青空を見上げて笑みを浮かべて、両腕を後頭部に回して足取り軽く、活気のある商店などを横目で見ながら、勤務先である城に向かって歩いていた。 特に機嫌がいいわけではなく、これがこの少年のいつもの姿で、今日のような快晴の日でも雨の日でもほとんど態度は変わらない。 そしてこの少年だけ、まるでこれから合戦にでも行くように感じるほどの鎧を身につけている。 人通りの多い大通りなのだが、ほぼ全員が顔見知りなので、気さくにあいさつをする。 しかし鎧はそれほど大げさなものではなく、軽装備といった、このご時世ではかなり珍しいものだ。 全てはこの少年が考案して、自分自身の手で作り上げていた。 まだまだこの戦乱の世は終わりそうにないので、この少年独自の考えをもって、鎧だけではなく様々なものを作り上げている。 一件、軽装備の忍者のようだがそうではない。 その鎧は赤く輝いていた。 ―― 変わってるよなぁー… ―― と少年は思いながら城の一の丸である天守閣を見入っている。 奈良にある法隆寺の六角堂や夢殿のようなものが天守に挟み込まれている。 この少年は十五才で元服はしているが、まだまだ性格的には少年だ。 しかしかなりの物知りではある。 「相変わらず変わっておる」 白髪頭の城の門番がにやりと笑って言うと、「俺だという証明のようなものさ」と少年は気さくに言って、城門をくぐった。 少年は目上であろうが目下であろうが態度を全く変えない。 よって特に、殿に仕える大名たちからの評判は大いに悪く、殿中であってもケンカが絶えないほどだ。 しかし殿様は、「元気があっていい」というだけで機嫌よく笑っている。 もっともこの少年は殿様のお側付きのひとりで、それなり以上の実力者であり、達人の域に達しているので、無碍な扱いもできない。 よって殿様である織田信長が指導をすることはない。 しかし、この少年の味方は誰もいない。 それが何を意味するのかは、誰にでもよくわかるはずだ。 そして数奇な運命を自分自身が招いていたことなど、今のこの少年に知る由もなかった。 「お蘭ちゃん! 今日もきれいだ!」と天守の謁見の間までやってきた少年は、殿様の小姓の森蘭丸をいつものようにからかった。 蘭丸は少年を一目にらんだだけで目を閉じて、小さくため息をついた。 「あんたにならこれ、作ってやってもいいぜ」 少年は言って左手の小手に触れて言うと、「そんな妙なものいらぬ」といつものように返した。 「ここが戦場になっても命を落とさねえ、いいものなんだけどなぁー…」 少年は大いに残念そうに言って、何度も首を横に振った。 「蘭丸、打ってもらえ」 信長の有無を言わさぬ言葉に、「承知」と蘭丸は渋々答えて、少年に頭を下げた。 「御屋形様、どんな感じです?」と少年が気さくに聞くと、蘭丸は大いに目を見開いた。 「ああ、重さを感じなくなった。  それにこの安心感は、今までに経験したことがないわぁ!!」 信長は上機嫌で叫んで、大声で笑った。 「少々雲行きが怪しいのでね…  斥候に出てもいいんですけどね…」 「…いや、お前はここにいろ…」と信長が厳しい口調で言うと、少年は座り直してすぐさま頭を下げた。 「今日から通いではなくここで暮らせ」 再びの信長の有無を言わさぬ言葉に、「えー…」と少年は答えて大いに眉を下げた。 「…地下に仕事場を設けた…」と信長が小声で言ってにやりと笑うと、少年は満面の笑みを浮かべて頭を下げた。 「…明るいうちに材料の調達に行ってまいります…」と、少年も小声で答えた。 「いや」と信長は言ったがしばらく考えて、「…そうしてくれ…」とすぐさま考えを変えて何度もうなづいた。 仕入れをすると多方面から様々な情報を漏らすことにもつながるので、少年一人に任せた方が安心できるからだ。 「ところで、お前の元主人も欲しいのだがな…」 「隠居を楽しんでいるようです」と少年は言って少し笑った。 「…風を読んでおる、か…」と信長は言って城下を見て笑みを浮かべた。 しかし信長はこの少年の元主人を雇うことを戸惑い断念したいきさつもある。 「今日中に二着ほど打ちたいと思っております」 「そうか、行け」という信長の重厚な言葉に、少年は頭を下げてから、まるで忍者のように音もたてずに廊下に出た。 「猿飛はどうなった?」と信長が蘭丸に聞くと、蘭丸はすぐさま頭を下げて、「いまだ行方知れずです」と答えた。 「…和歌山の山奥におるか…  駿府に潜んでおるか…」 信長の言葉に、「御屋形様、お聞きしたいことがございます」と蘭丸は信長に向き直り燃えるような瞳を向けた。 「あやつ、幻影は武士だ」 信長の言葉に、蘭丸は目を見開いた。 そして、「…やつは、我らの命を持っておりません!」と蘭丸が叫ぶと、「ワシには見えるが?」と信長は言って鼻で笑った。 そして力強く拳で胸を叩いた。 「真田の次男の弟子でな、  武士でもあり、忍びでもある。  だが、隠居の身の幸村…  真田信繁の家来ではない。  師匠兼育ての親、といったところだ。  だからこそ、ヤツがここに来た時にすぐさま召し抱えた。  ヤツはな、わずか八才で初陣を果たし、  しかもいただけではなく仕事もした、  どこにもおらぬ達人で猛者だ」 信長が自慢げに言うと、蘭丸は大いに戸惑った。 「服部のヤツに紀伊の九度山に聞きに行かせたから間違いない」 蘭丸は大いに戸惑っていた。 服部刑部は松平に雇われている忍者だ。 信長であろうとも、それほどたやすく扱える代物ではない。 「ワシとあやつの興味が一致したからじゃ。  真田幻影という小さな赤い影が、ウロチョロしているとな」 「…うーん…」と蘭丸は大いにうなった。 「家康のタヌキはまだ気づいておらぬ。  召し抱えるとな、  刑部の出番が大いに減ることがわかっておるからじゃ」 信長の言葉に、蘭丸はすぐさま納得して頭を下げた。 「さらにはお蘭、お前の婿にとも思っておったからな」 「お戯れを…」と蘭丸は大いに赤面して頭を下げた。 「無理にとは言わぬ。  ヤツにも好みがあるだろうからな!」 信長は言って大いに笑うと、蘭丸はこっそりとホホを膨らませていた。 幻影は手製の強化と軽量化を果たした大八車を引いて、いつものように彦根にやって来た。 実は安土城にほど近い北西部の森にも鉱物が出土するのだが、少々理由があって明るいうちは行かないようにしていた。 この彦根のこの高台の地下には、質のいい鉄鉱石やら金や銀までも採掘できる、幻影だけが知っている場所だ。 さらに信楽にもあるのだが、さすがに遠いので、今日は比較的近場で済ませることにした。 ここは人影がほとんどない農村地帯で、申し訳けなさそうにぽつんと建っている城が北東方面にかすかに確認できる。 この琵琶湖東部近辺は城銀座と言ってもいいほどに城が多いのだが、ほとんどは土台の石組みが確認できるだけだ。 湖にほど近い場所に鎮座するこんもりとしたうっそうとした小山が目の前にある。 ―― 見つかっていない… ―― と幻影は判断して、素早く山の頂上に忍び、妙な眼鏡を使って全方向を子細に確認した。 ―― やはり監視されていた… ―― と考え、その探索人が見えなくなった瞬間に地上に戻り隠し扉の偽装を解くと、暗い穴が開いた。 素早く中に入って、また偽装を施した。 そして火種を出してろうそくに火をつけた。 何もかも幻影の手作りで、武士でもあり忍者でもあり発明家でもあった。 ここからは体が小さい幻影だからこそできる離れ業で、動物や子供でしか入れない小さな穴に潜って行った。 穴の長さは五間ほどあり、少し下りながら、まるで蛇のように進んでいく。 穴から出るとその先には、大人の背丈ほどの比較的広い空間がある。 すぐさま右に移動して、手探りすることなく数個の明かりをともしてから、土に刺さっている幻影が改良した鍬を手に取って壁に突き立てた。 まさに鉱物の宝庫で、いつもよりも多めに鉄鉱石やら青銅やらを掘り出した。 そして時折手早く仕分けをしながらにやりと笑った。 ―― 献上献上… ―― と幻影は思って、心地良い重量がある小さな岩をさらに割って、初心な金などを懐に収めた。 一刻程して、幻影は鉱物などを長い箱に入れ込んでから、穴から這い出してから腰に巻いていた綱を引っ張って、箱を引き寄せた。 大八車に箱を分割して乗せて、わらなどで覆ってから、大きな茣蓙をかぶせて荒縄で縛り付けた。 そして中から外を監視して、誰もいないことを確認して素早く外に出た。 ―― 今日は懐が重い… ―― と上機嫌に考えながら、意気揚々と安土城を目指して大八車を勢いよく引っ張った。 「…ふふふ… ついに発見しましたぞ、幻影様ぁー…」と京で顕著な商人数名が姿を見せた。 こうならないように、細い裏道を選んで城を目指していた。 ついに見つかってしまったのだが、これは予想していたことだ。 「殿に上申して!」という幻影の無碍な言葉に、「…言えないから幻影様に…」と商人の代表の石川五右衛門が眉をひそめて言ってうなだれた。 「勝手なことはできないから…  俺が作り出したものはすべて殿のものだから…」 「はぁー…」と商人たちは大きなため息をついた。 「まあ、世間話としてだけ話してもいいけどね…  だけど、かなりの制限かかかると思うから、  覚悟しておいた方がいいよ?」 「…うう… ある程度は理解しておりますぅー…」と五右衛門は言って大いにうなだれた。 もちろん、便利なものは軍事利用されるからだ。 その便利なものが敵の手に渡ることは屈辱に近いことなのだ。 今日の鉱物の収穫は百貫ほどあるのだが、それほど大きくもない大八車で、幻影はひとりで楽々と運んでいる。 それなのに車輪が地面に埋もれない。 車輪自体にも仕掛けがあるのだが、基本的には幻影が、この辺り一帯の道路整備をしていたおかげでもある。 しかし商人のひとりが偶然に帰り道の幻影を見つけて、常に追いかけるようになっていた。 だが途中で必ず幻影が消えてしまうので、帰り際だけに目をつけて、そこら中で見張っていた。 この大八車があれば、速やかに荷物を運ぶことができるし、何よりも安全なのだ。 大八車での事故は年に何件もあって、貴重な働き手が少なくなり、商売に支障をきたすこともしばしばある。 もちろん商品が売り物にならなく場合もある。 商人たちの気持ちもわかるが、幻影だけの考えでは決められないのだ。 「…あー…」とつぶやきながらひとりの商人が手を上げた。 「なんだい、吉川屋さん」と幻影が気さくに聞くと、「幻影様は高職のご身分だとお聞きしているのですがぁー…」と吉川吉右衛門は大いに戸惑いながら聞いた。 「殿のお側付き」と幻影が自慢げに親指を立てて自分を指して答えると、誰もが一斉に目を見開いて地面にひれ伏した。 まさかそれほどの高職だとは思いもよらなかったのだ。 もちろん、小姓である森蘭丸も大いに恐れられている。 「…だから明かすのはいやだったんだけどね…」と幻影が大いに眉を下げて言うと、「…で… ですが、ご神体を…」と五右衛門が控えめに聞いた。 「あ、太刀?  刀なんていらないから携行してないだけ。  長いし邪魔だろ?」 「…破天荒でらっしゃる…」と五右衛門が眉を下げて言うと、「…ま、今の時代にはまずいない侍だろうね…」と幻影は言って少し鼻で笑った。 「斬られなきゃ勝てるから」と幻影は言って、両腕を重ねて叩いた。 『ガンガン!』という少し重い音に、「…おー…」と商人たちは一斉にうなった。 「忍者修行もしたからね。  これが俺にあった普段着で、俺の鎧だから。  じゃ、行くよ」 幻影が言うと、商人たちは一斉に立ち上がって道をあけた。 幻影は安全確認をしつつ逃げるようにして、大八車を素早く引いて慌てるようにして走り去った。 幻影はのんびりと大八車を引いて、城の中庭に入れてから辺りを見回した。 ―― ん? 庭じゃないのか… まさか室内? ―― と幻影は思って、辺りを見回しながらも、地下に続く道を探った。 そして、磨き上げられている廊下に、かすかに泥汚れを見つけて、手拭いを出して吹き上げてから、足元を見てにやりと笑った。 ここは奥の間で、今は誰も使っていない部屋だ。 ―― 俺の部屋兼作業場… ―― と思って、ここからのからくりは幻影の考えたものだと自信をもって部屋に入って、八本ある柱を見入って、「あ、あったあった」と陽気に言ってから床の間にある柱に触れた。 「…いい職人を雇ったもんだ…」と幻影はつぶやいてから、柱を握るとにやりと笑って横にずらした。 くりぬかれた柱の中にある綱を引っ張ると、中庭の廊下に近い一角が地面に落ち込んだ。 幻影はすぐに外に出て、大八車を地下に入れてから、部屋に戻って後片付けをして、また地下に戻った。 「…部屋よりもひれえ…」と幻影はつぶやいてから、ろうそくに火をともしてから、斜めになった地面をからくりに繋がっている棒を押して元に戻した。 幻影はろうそくを灯して部屋の広さを確認してから、「ふーん…」と意味ありげに声を発した。 しかしそれほど気にすることはなく、「さあ、火入れからだ」と幻影は明るい声で言って、火起こしを始めた。 炭などは用意されていたので、心おきなく使い、まずは懐から金や銀を取り出してるつぼに入れ、ふいごを使って溶かしてからそれぞれを一塊にした。 延べ板が完全に冷えるまで作業をしようと思い、早速鉄鉱石などを種類別と合金用に調合して溶かし始めた。 「…ん? 火花…」と幻影はつぶやいてから思案してすぐに思い至り、どこかに修行に出たいと考えた。 いつものは出ない火花が大いに使えるものだと確信したのだ。 もちろん、この知識もあるのだが、本格的な修行がまだだったのだ。 鉄の下ごしらえだけを済ませて、お宝の冷え切った延べ板を懐に入れて外に出た。 この辺りには誰も来ないので、監視しなくても気配でわかる。 幻影はその足で天守に登った。 蘭丸と竹千代と朗らかに話している信長の斜め前の竹千代の正面に幻影は座った。 「なにやら、いいにおいがするな」と信長は言ってにやりと笑った。 幻影もにやりと笑ってから、三方を出して正面に置いてから袱紗を広げお宝を乗せてから、「副産物です」と言って頭を下げた。 「竹千代だけでは重いか」と信長が言ってから、「いつも通りでよい…」と少しめんどくさそうに呆れるように言ってから、「では」と幻影は言って、三方を持ってずかずかと歩いて、「家賃です」というと、信長は大いに笑った。 「過ぎたるほどじゃ…  いつまでもいてくれと言いたいのじゃがな…」 信長は言って大いに眉を下げた。 「地下に潜って理解できております」 幻影が意味ありげに言うと、信長は機嫌よさそうに何度もうなづいた。 「では、作業に戻りますが、  その前に食事にいたしますので」 幻影は頭を下げてから廊下に出ようとしたが、「猿が怪しい」とひと言言った。 「やはりお味方は少ないようですね」と幻影は言って顔を伏せてから廊下に出た。 ―― 斥候がいなくなったな… ―― と幻影は考えて眉を下げてから、階段を降りて飯支度場に行った。 幻影はこの厨房にも多くの便利道具を造り上げた。 そのひとつを使って、幻影自ら調理をして、手もみをするようにして、厨房の端に陣取った。 「…見事なもんだねぇー…  どこぞの料理だい?  早くてしかもうまそうだ…」 この飯支度場の責任者のお妙がうらやましそうに聞くと、「道具と同じで、俺が考え出した」と幻影は言って笑みを浮かべた。 「…だけどねぇー…  あんたを見てると、  生き急いでいるとしか思えないんだけどねぇー…」 お妙の言った通りで、大量に作った料理をもうほとんど食い尽くしていた。 「武士や忍者の宿命だ」と幻影は言って、「ごちそう様」と言って手を合わせてから、厨房の片付けを手伝ってから厨房を出て行った。 「…幻影様…」とひとりの少女が幻影を見送りながらつぶやき、両手のひらで胸を押さえつけた。 「あとで茶でも持って行ってやんな!」とお妙は威勢よく言って、お静の背中を乱暴に叩いた。 幻影がいくら気さくであっても、高職の身であることは誰もが知っている。 よってこのお静も高職の身だ。 ただひとり残った、信長の取り巻きの武将の預かりものという人質でもある。 明智静香も幻影と同じく、世界が大きく動くことを知っていた。 よって人質というよりも、ここにかくまわれているといっていい。 ―― 幻影様の指南を… ―― とお静は思って大いにホホを赤らめてから両手でホホを抑え込んで腰を振った。 「…あんた、考えが超越しすぎだよ…」とお妙は言って大いにあきれ返っていた。 お静が甘い考えを持っている間に、幻影は薄い鎧をひとつ完成させていた。 色は塗っていないのだが、白く輝いている。 そして幻影はいきなりホホを赤らめた。 幻影の鎧は赤いのだが、苦難の末、鮮やかに発色する(うわぐすり)を開発していた。 よってどれほど時間が経ってもはがれることはなく、さらには金属を保護するので錆びることもないし、撥水効果も高い。 休憩のために外に出てから縁側に座ると、都合よく茶道具を乗せた盆を持ったお静がやってきた。 「…や、やあ…」と幻影は大いに照れて言ったが、お静をしっかりと見ている。 「…ご休憩らしいので…」とお静は言って滑るようにして廊下に座って、素早く茶を汲んだ。 「…ありがと…」と幻影は礼を言って、慌てることなく味わうようにして茶をすすった。 すると、どかどかと乱暴な音がして、その発生源を幻影とお静が見入ると、後ろで束ねた長い髪を揺らしながら蘭丸がやってきた。 どう考えても機嫌が悪そうな顔をしていた。 幻影たちは随分と先にいるのだが、「鎧はできたのか?!」と蘭丸が怒鳴るようにして聞くと、「あんたのは二の次だからまだだ!」と幻影は叫び返した。 「くっ!」と蘭丸は悔しそうに言ってから、荒っぽい顔のままお静を見て軽く頭を下げた。 お静は両手を床につけてしっかりと頭を下げている。 その姿が幻影の妻のように見えて、蘭丸はさらに気に入らなかった。 「俺の相手になれ!」と蘭丸が言葉をかなり省略して様々な意味をもって幻影に言うと、「何の?」と間髪入れずに答えた。 「その件もあって、私も参ったのです!」とお静が声を張って言うと、「…まさかだけど、剣術指南?」と幻影が眉を下げて聞くと、ふたりは素早く頭を下げた。 「…強くなったら面倒なんだけど…  特にお蘭ちゃん」 幻影の言葉に、「さらに強くなれるわけだ」と蘭丸は言って笑みを浮かべて何度もうなづいた。 「言っとくが、俺の技は戦場でひとりで戦うことに特化してんだ。  相当な覚悟が必要だぜぇー…」 幻影が大いに雰囲気を出してにやりと笑うと、「ここに来た時に覚悟は終えています!」と真っ先にお静が言った。 「…その件は御屋形様に聞いてるよぉー…」と幻影は言って大いに眉を下げてからホホを赤らめた。 「こやつは今日いきなり俺を口説きよった!」と蘭丸は言って幻影に指をさしたが、そのホホは真っ赤になっていた。 「あ、挨拶挨拶」と幻影が軽い言葉で答えると、「…くっそぉー…」と蘭丸は悔しそうにうなってから、腕を下ろして少しうなだれた。 「静香様の鎧はできたから。  まずは着て欲しい」 幻影が真剣な目をして言うと、お静はその雰囲気から照れることはやめて、真剣な目をして幻影に頭を下げた。 幻影は驚いているふたりを地下室に案内した。 そしてお静は白く輝いている甲冑を見て、「…ああ、きれい…」とつぶやいてから無意識に触れていた。 「釉に貝殻の内側の成分を混ぜて焼きつけたんだ」と幻影は少し照れながら答えた。 「身に着けて数日すれば重さは消える。  だけど着る前にこの鎧の強度を見ておいて欲しい」 幻影は言って、白い平たい板を出して叩くと、『コンコン』という乾いた音がした。 「…重そうですが…」とお静が言って手を出すと、幻影はすぐさまお静に手渡した。 「…まな板よりもずいぶんと軽い…」と意外な軽さにお静はつぶやいて笑みを浮かべた。 そして強度の確認に、ふたりとも大いに目を見開いていた。 まずは鉄砲の弾が貫通しない。 しかも板にはかすかにくぼみができただけだ。 もちろん矢は刺さらないし、刀は折れるし、槍も刺さらない。 そして肝心かなめの頭部の防御だが、これだけは組み立て式になっていて、ふくらはぎの部分から部品を出して、まるで手品のように組み立てて、ゆっくりとお静にかぶせた。 「重くありません!」とお静は涼やかな声で言って、ほぼ頭部に密着している軽い兜を外した。 「…斬りつけても、刀は折れるし、槍は刺さらず…」と蘭丸は嘆くように言ってから、「俺のものもさっさと作れ!」と蘭丸は大いに荒れて叫んだ。 「制作と鍛錬、どっちが先だ?」と幻影が呆れ返って聞くと、「…両方…」と蘭丸が答えると、幻影は大いに笑った。 「できればそうしたいが、さすがに無理だ」と幻影は言ってふたりを外に誘った。 「早く作らぬか?!」と蘭丸がまた叫ぶと、「少しは休憩させてほしいね」と幻影がまたあきれ返って答えると、「お茶のお代わりを」とお静は言って、お盆を手に取って音を立てることなく、廊下をすべるようにして移動した。 その動きはまさに幽霊だった。 「…いい足さばきだ…」と幻影が言って何度もうなづくと、「…くっそぉー…」と蘭丸はうなって、お静のマネをしながら天守に戻って行った。 蘭丸が書室に滑るようにして入ると、「ん?」と信長が言って少し振り返ってから、笑みを浮かべてうなづいた。 蘭丸は一瞬頭を下げてから、自分の席に座って、早速書類に目を通し始めた。 「…まさかのお静か…」と信長が言うと、「…おふたりのお邪魔はできませぬので、退散してまいりました…」と蘭丸は答えた。 「…ま… 全てがうまく行った時、天は幻影を望むだろう…」 信長が預言者のようにつぶやくように言うと、―― 逃がした魚はでかかったかぁー… ―― と蘭丸は大いに嘆いた。 「駿府と伊豆はどうだ?」と信長が誰に聞くことなく言うと、「はっ! 三代目であることは必定!」とそば付き家老の山下大善が勢い勇んで答えた。 「…となると、まだまだいそうだな…」と信長はあきれ返ったように言った。 この件が、信長にとって最重要事項だった。 そしてこの件を示唆した張本人が幻影であり真田信繁だったのだ。 「大善は幻影をどう見る?」と信長が気さくに聞くと、「はっ! 今すぐにでも我が息子に!」と胸を張って答えた。 「…その役はワシの仕事じゃ…」と信長は眉を下げて言ってから大声で笑った。 この書室はここでしか語られない話が多い、重要な場所でもあった。 「巫女様?」とお静が首をひねって、蘭丸用の鎧を見て言うと、「巫女は女子しかおらぬ」と幻影は信長の口調を真似をしてから、大声で笑った。 お静は陽気に笑って、「よく似ていらっしゃる!」と言って、陽気に笑い始めた。 「飯を食ってから、今度は腕力的な相手でもするか…」と幻影がため息交じりに言うと、「今回は私が後ろに引きましょう」とお静は言って、また見事なすり足で厨房に向かって歩いて行った。 ―― どっちがいいか、悩むぅー… ―― と幻影は大いに嘆いてから、抜けるような青空を見上げて笑みを浮かべた。 幻影ほどの者であるのならば、側室を置いても構わないのだが、幻影の性格上それはない。 本物はひとりだけでいいという、この時代には珍しい、少々確執した考えを持っていた。 この根拠は、幻影の技にある。 ひとりで戦場に立ち、ひとりだけでも生き残る自信があったからだ。 幻影は食事を終わらせてから書室に行った。 もう日中の仕事は終わっていて誰もいない。 室内は暗闇に近いほどだが、今夜は月明かりが廊下の障子を照らしていて、辺りの確認は十分にできるようになった。 これはほぼいつものことで、幻影は席に座ってから書を認め始めた。 仕事と趣味を終えて片づけをしていると、『…ドン、ドドドン…』と遠くから音が聞こえた。 幻影は滑るように書室を出て天守に登った。 幻影は室内に入って、一度も顔を上げることなくすぐさま座って頭を下げた。 蘭丸は目を見開いていた。 信長から話を聞いていなければ、ずっと気づいていなかった。 信長は畳を拳で軽く叩いただけで、幻影を呼び出したのだ。 「都合が良ければ、お蘭の指南を」と信長が言うと、「はっ 望むところです」と幻影は答えてすぐに蘭丸を見た。 「…御屋形様もいらした方がよろしいかと…」と幻影が進言すると、「無論だ!」と信長は言って素早く立ち上がった。 「今、討たれてやるわけにはいかんからな」と信長は言って陽気に笑った。 信長は廊下で会った者のほとんどを誘って、幻影の秘密基地にやってきた。 信長は部屋の一番奥の椅子に座って腕組みをして、幻影と蘭丸を見入っている。 「しばしお持ちを」と幻影が言って隠し扉を上げるとお静がいて、驚愕の顔を幻影に向けた。 ここに信長が来ているとは思わなかったのだろう。 「公開の試練だ」という幻影の言葉に、「…緊張しちゃうぅー…」とお静は言ってすぐさま信長に向かって頭を下げた。 「この室内の殿様は幻影である!」と信長が堂々と言うと、誰もが一斉に幻影に頭を下げた。 幻影は大いに苦笑いを浮かべたが、早速蘭丸に鎧をつけさせてから、間髪入れずに向き合って、半身に構えて両拳を中段に構えた。 蘭丸はすらりと太刀を抜いた。 「その太刀の代わりはもう打ってあるから安心しろ」 幻影の言葉に、「…我が魂… 折れることなどないわぁ―――っ!!」と蘭丸は大いに気合を入れて叫び、素早く上段に構えたが、その動きに吸い込まれるように幻影を懐に招き入れてしまった。 ―― なっ!! ―― と蘭丸が思った瞬間に、蘭丸は、『ガン!!』という金属質の音とともに後方に飛ばされて、二転三転して止まった。 「うむ!」と信長が一声うなり、何度もうなづいている。 「まだ参っておらぬ!」と蘭丸は素早く立ち上がって、「キェ―――ッ!!!」という奇声とともに剣を上段に構えたまま幻影に襲い掛かった。 幻影は打って出て、蘭丸の真正面からの素早い一太刀を左腕で受けると、『キィーン!!』という乾いた音とともに太刀がほぼ中央部分から折れて、天井に向かって弧を描いて飛んだ。 「…なっ…」と蘭丸は言って、両手を震わせて、握力を失くしたように柄から手を放した。 幻影は宙から落ちてきた剣の刃を左手でつかんで、「完全に打ち直して、脇差にでもしてやろう」と言うと、「折れるわけないもんっ!!」と蘭丸は大いに混乱して叫んだ。 「金属はな、固すぎると簡単に折れるもんなんだよ。  特に刀は折れやすいから、  間合いの外と思った場所から打ち込むべきなんだ」 幻影は言って、大きく重そうな藁人形を持って来てから、異様に長い太刀を右手に握って戻ってきた。 そして右腕だけで剣を構えて、藁人形に突き出した。 剣の切っ先は、藁人形にわずかながらに届いていない。 「おー…」と見物人たちはその剣の長さと美しさに声を上げた。 幻影は素早く上段に構えて、瞬きの瞬間に長太刀を振り下ろすと、藁人形はほぼ中央部から斜に切れていて、『ドン!』という音とともに地面に落ちた。 「芯は竹ではなく木だ」と幻影が言うと、誰もが一斉に藁人形を見入って、「…なんという太刀筋だ…」と誰もが大いにうなった。 「試し切り終了」と幻影は言って長太刀の点検をしてから小さくうなづいて鞘に収めた。 そして、蘭丸に長太刀を突き出した。 「もう折るなよ」と幻影が言うと、「…うん… もっと大事にするぅー…」と蘭丸は少女の笑みを浮かべて太刀を受け取った。 「狭い場所での素振りを忘れるな」という幻影の指導にも、「うん、がんばるよ?」と蘭丸は言って、長太刀の鞘に頬ずりをした。 信長は膝を叩いて愉快そうに笑い、「武蔵にも勝るはず」というと、「備中宮本村の武蔵と名乗っているやつですね?」と幻影が聞くと、信長は深くうなづいた。 「もう勝ちました」という幻影の言葉に、信長は大いに目を見開いた。 「二刀とも折りましたので、まだ生きています」 「天下一の武士が、この真田幻影だ」と信長が堂々と言うと、誰もが一斉に幻影に頭を下げた。 「ヤツも剣に泣いて詫びていたので、  新しい太刀を打ってやりました。  今頃は控え目に鍛錬の途中だと思います。  今の指導もしておいたので、  そのうちどこぞの合戦場で会うこともあるでしょう」 「ここに来る直前か…」 「はい、駿府にほど近い山奥でした。何か土産話をと思いまして」と幻影は言って頭をかいた。 「いや! 最高の土産話だった!」と信長は言って、「お静、さあ、やれ」と真剣な目をしてお静を見た。 お静は大いに眉を下げてから、素早く幻影の前に立った。 「むっ!」と信長は大いにうなって、「お蘭、邪魔だ!」と叫ぶと、蘭丸はすぐさま立ち上がって、走って信長の横に立った。 「…さあ… ぶっとばすぜぇー…」と幻影がうなるように言うと、「させません!」とお静は気丈に言って、右前にして太刀ではなく手刀を構えた。 幻影は両足を肩幅に広げて、拳を後ろに引いて、「はっ!!」という気合いとともに突き出した。 するとお静はなぜだかつま先立ちになって後ろに倒れそうになったが、素早く移動してきた幻影に支えられていた。 「イチャイチャすんな!」と蘭丸が叫ぶと、信長は何度も膝を叩いて喜んでいる。 「重心は常に下だ」という幻影の指導に、「…負けてしまいましたので伴侶に…」とお静が言ってホホを赤らめると、「…投げ飛ばすよ?」と幻影は大いに苦笑いを浮かべて言った。 幻影にとってはかなり厳しい試練のような乱取り稽古を行って、信長以外の者たちをすべて寝かせた。 「竹千代だけでは心もとない。  幻影も来い」 信長が上機嫌で言うと、「はっ」と幻影は短く答えて、信長とともに部屋を出て天守に登った。 「ひとりだけでお留守番はつまらないです」と竹千代が少しホホを膨らませて言うと、「そうか…」と信長は機嫌よく言って、竹千代の隣に座った。 「数年後、お前も幻影に剣を習え。  だが今はまだ早すぎる」 「…はぁーい… 御屋形様ぁー…」と竹千代は言ってうなだれた。 「…竹千代様は七つか…」と幻影が言うと、「はい! 幻影様!」と竹千代は満面の笑みで答えた。 「確かに普通だとまだ早いですが、  今できることは指導したいと…  ですが、あと三人ほど、  御屋形様のお付きとして雇いたいと思っているのです」 「よきに計らえ」と信長は機嫌よく言った。 すると乱暴に障子が開け放たれて、長い太刀を持った蘭丸が姿を見せて、素早く移動して信長の隣に座ってから、長太刀を背後に丁寧に置いてすぐに幻影をみらみつけた。 「…ひとりだけでも十分だと判断しますけどね…」と幻影が眉を下げて言うと、信長はさらに機嫌よく、膝を叩いて笑った。 幻影は竹千代に向かって、「俺が剣術を習い始めたのは三才だったらしい…」と言って、今までに聞いた話と覚えている話を竹千代に語った。 「…幸村のヤツ… 何を考えていたのか…」 信長がうなるように言うと、「とにかくやる気を出させてくださったのです」という幻影の言葉に、「…まあ、八才で戦場に出るほどだからな…」とさすがの信長も大いに眉をひそめて言った。 信長もその仲間のようなもので、元服して間もなく戦場に出ている。 しかし、子供と少年では、世間の見方と考え方は大いに差がある。 「結局はかくれんぼや鬼ごっこのようなものでした」 「危機はなかったのか?」と信長が真剣な目をして聞くと、「一度見つかってしまいましたが、追ってこられなかったようです」と幻影は言って頭をかいた。 「ですが、敵の仲間が追っている者を悟った別の斥候が迂闊にも追って来て、  我が軍の中隊に簡単につかまりました。  ですが、風魔の里のものだったようで、  すぐさま自決しました」 信長は何度も深くうなづいた。 「場所によっては、クマと戦いました」 そして幻影は右腕を突き出して竹千代に見せた。 「噛まれた跡、わかる?」と幻影が聞くと、竹千代はすぐにわかったようで目を見開いて、「…こんなに大きな歯形…」となげいてから、目に涙を浮かべて信長を見た。 「…それほど脅してやるな…  …いや、これも必要なことだ…」 信長はうなるように言って、何度もうなづいた。 「逆に相手を縛り付けたも同然だから、  簡単に勝ったぞ」 幻影の言葉に、「うわぁー…」と竹千代は笑みを浮かべて喜んだ。 もちろん、それほどひどいことにならなかったので、幻影はここにいるわけだ。 しかし竹千代にとっては、幻影の武勇伝が楽しくて仕方ないようだ。 「話だけでも、修行になっておる…」と信長は言って何度もうなづいた。 「数日後に、竹千代様を私の弟子として召し抱えます」 「…それでよい…」と信長は眉を下げて言った。 「活きのいい小姓候補は町人の中に数人おります。  まずは私が養子として迎え」 幻影がここまで言うと、「かまわぬ」と信長が幻影の言葉を遮るように威厳をもって言うと、幻影は素早く頭を下げた。 「明日一番に迎えに行ってきますが…  …腹を空かせてるかなぁー…」 幻影の言葉に、「さっさと連れて来い」と信長がにやりと笑って言うと、「はっ すぐさま」と幻影は言って素早く頭を下げて、風のように廊下に出てその姿が消えた。 「幻影ひとりだけであっても脅威だ」と信長が言うと、蘭丸も竹千代も頭を下げた。 「だが、なぜワシに仕えたのかだけがまだわからぬ…」と信長が言うと、蘭丸も竹千代も何も言えなかった。 信長はおべっかは好まないので、信長が強く素晴らしいから、などと言ってしまうと、確実に雷が落ちるからだ。 よってふたりは大いに考え込んだ。 「…御屋形様は、今後、どうされるおつもりでしょう?」という蘭丸の素朴な質問に、信長は目を見開いて、「…そういうことか…」とつぶやいて何度もうなづいた。 「…やはり、天は幻影に決めていたようだ…」と信長は機嫌よく言って何度もうなづいた。 蘭丸も竹千代も答えを知りたかったのだが、さすがに聞けなかった。 半時後、幻影は着替えをさせ、顔と手足をきれいに拭き上げた、竹千代と同年代の三人の子供を謁見の間に連れてきた。 礼儀作法は幻影が教えていたので、三人とも礼儀正しい。 しかしまさか、城の天守閣に誘われるとは思わなかったようで、内心は落ち着いていない。 「三人とも、竹千代と仲良くせよ!」という信長の重厚な言葉に、三人はすぐさま頭を下げた。 竹千代がすぐさま三人に寄り添って、挨拶を始めた。 一番の年少者が竹千代なのだが、精神的な面は竹千代が一番年長者のように見えた。 幻影は笑みを浮かべて四人を見ている。 「…むう…」と信長はうなって、一番身長が高い弥助を見入った。 「力仕事は得意です」と幻影が言うと、信長は納得したのか何度もうなづいた。 「剣術も三人とも初級編は終わっていますので、  腰が引けた侍よりも強いはずですから」 幻影の言葉に、信長は機嫌よく大声で笑った。 「おぬし、ここに来る前にはどこにいた?」 信長の言葉に、幻影は物おじひとつせず、「様々な土地を巡って、最終的には越後に行っていました」という言葉に、信長が大いに驚いていた。 「…越後から伊豆経由で安土まで来たか…」 「はい、その通りです。  越後には母がおりますので」 信長は眉を少し上げて、「…母は上杉ゆかりのものだな…」と確信して言うと、「はい、父は武田の者だそうです」という幻影の少々軽い言葉に、「…驚くのも飽きた…」と信長は言ってにやりと笑った。 この約一年前に信長は武田軍を壊滅させていたからだ。 その直後に幻影が織田家に仕官にやってきたのだ。 「父も母も表舞台には立てませんので、  その代わりに私が」 幻影の言葉に、「…幸村はすべてを知っていたか…」と信長は言って何度もうなづいた。 「真田の長兄、信之様が驚いていたほどでしたから」と幻影が笑いながら言うと、「…驚かいでか…」と信長は言って鼻で笑ってから大声で笑った。 「…信繁の弟子であっても手下ではない…  当然のことだったか…」 「事情は大いに察しましたので、  私は自由の身となってから、  日の国を巡って現状をつぶさに調査してから、  母に報告に行ったのです」 「あいわかった」と信長は答えてから、「…竹千代の夫になる気はないか?」と小声で聞いたが、ここにいる全員に聞こえていた。 「成長次第というところですが、  弟子を嫁にするわけには参りません」 堂々とした幻影の言葉に、「…その通り…」と信長は言ってうなだれた。 「だがな、ワシと対等に話ができるのは、おぬしだけだ!  あの前田の暴れん坊でも尻込みしおったわ!」 信長が愉快そうに言うと、「越後でお会いしました」と幻影は言って眉を下げていた。 「何を狙っておったのだ?」 「もちろん、私です」という幻影の言葉に、信長は大いに頭を抱え込んだ。 そして、「兼続のヤツは手打ちじゃ!!」と大いに荒れて叫んだ。 「ですので、おふたりの剣を折って、  髷を切ってから、  母のように剃毛しておきました」 幻影の言葉に、信長は目を見開いてから、大声で笑い転げた。 「素手の相手に剣を取っての真剣勝負。  結果は誰にも言えないことでしょうし、  私のことはもうお忘れになったと」 幻影の言葉に、信長は笑みを浮かべて何度もうなづいた。 「…上杉と武田の落とし種…」と蘭丸は目を見開いてつぶやいた。 「それよりも師匠の方が大きいから」と幻影は笑みを浮かべて言った。 「なぜその師匠を助けない?」 「まだまだ武人だからです」 幻影の堂々とした言葉に、「…さもありなん…」と信長は言って何度もうなづいた。 「都合がつけば手を出しますが、  きっと拒まれると思っていますので、  見守ることに決めています。  それに、復讐心があると感じますので。  師匠の弟子としては少々恥ずかしいのです」 「わかった、決めた」と信長は言ってから、「寝るぞ」と言って寝所に入った。 「お休みなさいませ」と幻影は信長の背中に向けて言った。 翌朝、幻影たちが厨房の一角で食事を摂ってると、二番目の兄弟のような存在のお菊が幻影を見て眉を下げていた。 「なんかあった?」と幻影が聞くと、「大店の石川さんが来てね…」とお菊が言うと、「…あー… すっかり忘れてたぁー…」と幻影は言って頭をかいた。 「…盗賊と同じ名前なんて嫌だよね?」と長男の存在の弥助が言うと、「…えっ?」と幻影は素っ頓狂な顔をしてつぶやいた。 お菊の話を聞くと、京では石川五右衛門という義賊と名乗る者が現れ、石川屋も押し入られたが、大した被害はなかったようだ。 義賊といってもほとんどは自分のためにとっておいて、はした金を適当な家に投げ込んでいるだけの盗賊だ。 「…そりゃまた不憫だ…  苗字も名前も同じなんて…  だけど昨日会った時に言ってくれたらよかったのに…  …ああ、そうか…  人前で言いたくなかったからか…」 幻影は急いで食事を終えて、三人の義兄弟を連れて書室に行った。 早速信長に話をすると、「京見物にでも行ってくればいい」と信長は言ってにやりと笑った。 幻影は素早く頭を下げて、今度は大八車の話をすると、さすがに信長は大いに渋った。 まさに幻影が思っているように、軍事転用を恐れたのだ。 それほどに、幻影の作品は使えるものだった。 「石川屋に責任をもって管理させる。  さらに、石川屋に名をやってくれ」 信長は一筆認めて幻影に渡すと、幻影は恭しく受け取った。 「まずは盗賊の方から調べてまいります。  昼時までには帰ってまいりますので、  それまではこの三人をおそばに」 「あいわかった」と信長は機嫌よく言って、三人を蘭丸に託した。 「…だが、昼時までにとは…」と信長は言って大いに苦笑いを浮かべると、「京に向かって一直線に走りますので」と幻影は言って頭を下げると、信長は目を見開いた。 「…湖面を走るというのか…」とつぶやくと、「かんじきの要領です」と幻影はなんでもないことのように答えると、「あいわかった」と信長は機嫌よく言ってから、「行け」と命令すると、幻影は素早く廊下に出て消えたように見えた。 「かくれんぼに使うんだ!」と末の弟の源次が言って、何かを出したのだがよく見えない。 すると、ゆっくりと源次が消えてしまったのだ。 「えー…」と誰もが大いに嘆いて困惑の目を弥助に向けた。 「光を反射する鉱石を織り込んだ布なのです」と弥助が答えて、布をゆっくりと持ち上げて、頭を下げたまま信長に渡した。 「…うむ…」と信長は言って、体の一部が消えたように見えたが、鏡でつぶさに確認して、中途半端な存在になっていることに気付いた。 しかし、このからくりを知らなければ、きっと誰も気づかないと思って、機嫌よく笑った。 「…あやつはどれほどのことを知っておるのかのう…」と信長は言って、この先の展開を大いに期待した。 「お兄ちゃんは絵も上手なんです!」とお菊が満面の笑みを浮かべて言って、懐から小さな厚手の紙を出すと、「…このようなものまで作り出すのか…」と言ってから、まずは紙の手触りを楽しんでから、「…驚くほどに生き写しじゃ…」とお菊の顔と見比べて言った。 「幻影様にお駄賃をもらって、  材料などの収集を請け負っていたのです」 弥助の堂々とした言葉に、「納得いった」と信長は言って弥助たちの頭を乱暴になでた。 一方幻影は、湖の上を超高速で走っていた。 あっという間に大津に到着して、今度は比較的平坦な街道を選んで突き進み、時には道なき山裾を駆け抜けた。 まさにこの道は京に向かって一直線で、山科を通過してもう目の前の手前に南禅寺、奥に東本願寺が見えてきた。 遥か南に、東寺の五重の塔もよく見える。 幻影はその足で四条にある京の警備を請け負っている番屋に駆け込んでから様々な人と会い、石川五右衛門について情報収集を終えた。 出没している位置と、投げ込みがあった家などから、石川五右衛門の住処をある程度の察しをつけた。 ―― 鴨川沿い… 船を使っている、か… ―― と幻影は考えて、十条から一条までを駆け抜けて、もう住処がわかってしまった。 五条大橋の端の下に繋がれている、漆黒の船を発見した。 そして幻影は番屋に文を投げ込んでから、今度は大店の石川屋に行って、安土から戻っていた店主の五右衛門に大歓迎を受けた。 そして信長からの文を受け取って、「…ああ、ありがたい…」と言って幻影を接待しようと思ったのだが、昼時までに帰る必要があると聞いて、名を法源院信右衛門と変えた五右衛門は渋々幻影を開放した。 もちろん大八車についての話もして、信右衛門が管理責任者としてその重責を負うことになった。 幻影は来た時よりもかなり急いで安土を目指した。 幻影は約束通り昼時までに帰って来て、全てを信長に報告した。 「民間のことなど簡単に解決できるものなんだな」と信長は少し嘆くように言ったが、幻影の実力をさらに見せつけられたと感じていた。 「昼からは貸し出し用の大八車を作りますので、  兄弟たちを使いに出します」 幻影の言葉に、「…うう…」と信長はうなって、まずは竹千代を見てから、弥助たちを見て、「…よきにはからえ…」と気落ちして言った。 「三人が戻ってくるまで、私がおそばに」という幻影の言葉に、「うむ」とだけ信長は答えて、「今日はここで食せよ」と信長は命令した。 「はっ ありがたき幸せ」と幻影は笑みを浮かべて答えた。 昼食までの間に幻影が弥助たちに今後の指示を与えていると、「塗料が多いな…」と様子を覗き見ていた信長が言うと、幻影は一枚の絵を出して、信長を大いに笑わせて、「それでよい!」と言わせた。 持ち主がわかるように、大八車に、『安土城』と大きな文字で至る所に書かれているからだ。 よって大八車ではなく、屋根のない豪華な車輪付きの籠のようにも見える。 さらには丁寧に扱う必要があるので、管理する方には心の隙が生まれないことも狙っていたのだ。 それが事故防止にもつながるはずだと幻影は考えたのだ。 「…この材料がこうなるんだぁー…」と弥助たちは感慨深く言って、笑みを浮かべて素晴らしい師匠に笑みを向けた。 「さらには非公式で」と幻影は言ってから、別の絵を出すと、「…これも、幻影が引くのだな…」と信長は眉を下げて言ったが、「いえ、基本、弥助に引かせて、私は外の警護に当たります」と幻影はすぐさま答えた。 「うむ!」と信長は力強く答えて、「まずは帝に会いに行ってやる!」と叫んでから大声で笑った。 「景色がよく見えるのもよい」と信長が言うと、「中にいる警護の者は景色を楽しめません」と幻影が言うと、蘭丸は大いに渋い顔になった。 「見晴らしがいいからな…  楽ができる分、目を光らせる、か…」 「それも重要なお役目ですから。  死角がなくなったと言っていいでしょう。  お菊にも車の中で警護に当たらせますので」 お菊は満面の笑みを浮かべて幻影を見た。 「源次は外の手伝いか」と信長が機嫌よく言うと、「まだ体は小さいのですが、十分にお役に立てます」と幻影は胸を張って言った。 「ほら、これこれ!」とお菊が袂から望遠鏡のようなものを出すと、信長が興味津々で見入った。 「なんという遠見だ…」と信長は言って、双眼鏡を見入り始めた。 お菊が気を利かせて信長に渡すと、早速城下や森などの景色を堪能し始めた。 「…返してもらえないと思うから、また作るから…」と幻影が小声で言うと、お菊は機嫌よく信長に献上することにしたようだ。 しかし、「その古いのと新しいのとどっちがいい?」とお菊が気さく信長に聞くと、「…うう! …うーん…」と言って双眼鏡をお菊に返した。 幻影は声を出さずに大いに笑っていた。 「幻影、これを十機用意しろ!」と信長が命令すると、「はっ 喜んで」と答えた。 「…もう、あるわけだな…」と信長が言うと、「必要になる小物は、ほぼ準備を終えております」と幻影は答えて頭を下げた。 「ですので、御屋形様に献上する品はこれから作り上げますが、  ひとまずこれをお持ちください」 幻影は言って、お菊が持っているものよりも小さい双眼鏡を献上した。 小さいが装飾が素晴らしい逸品で、「褒美は何なりと言えばいい!」と信長は機嫌よく言って、また景色の堪能を始めた。 「…あー… いいなぁー…」とお菊が言うと、幻影はまた笑い、信長は大いに眉を下げてお菊を見ていた。 「…そなたのものの方が遠目が利くから交換せよ…」と信長は渋々言って、双眼鏡を手渡すと、「うふふ! ありがと!」とお菊は気さくに言って交換してから、信長と並んで景色を堪能し始めた。 「…末恐ろしい子だわ…」と蘭丸はつぶやいて大いに苦笑いを浮かべた。 「お菊は、どこぞのお姫様のようだからね。  話せは最低でも拘束されるはずだから、  俺は聞いちゃいない」 「正式に養女にすればよい!」と信長は機嫌よく言って、お菊の頭をなでた。 「北条政江と申します」とお菊が言うと、誰もが大いに目を見開いた。 北条家はもうすでに没落して、ほとんどの者が松平に拘束されていた。 「ここで豪胆さを出したか…」と幻影が嘆くように言うと、「よいよい!」と信長は上機嫌で言って、お菊を娘として召し抱えた。 「お兄ちゃんと婚姻するのよ!」とお菊が叫ぶと、「それは幻影が決めることじゃ」という信長の常識的見解に、「…御屋形様、使えないぃー…」とお菊は大いに嘆いた。 「ワシなんぞ、幻影ほどには使えぬわぁー!!」と信長は機嫌よく叫んで大声で笑った。 「…御屋形様の側室でもいいかも…」とお菊が言うと、誰もが目を白黒とさせていた。 「…お菊が別人になったぁー…」と弥助が大いに嘆くと、「おまえ、お姫様の裸を見ただろ?」と幻影がからかうように言うと、「もう忘れた!」と弥助は叫んで耳をふさいだ。 「お兄ちゃんだから恥ずかしくないよ?」というお菊の言葉に、「…そういう意味で言ったんじゃないんだけどね…」と幻影は大いに眉を下げて言った。 「庶民と武家の融合もよいことじゃ!」と信長は機嫌よく叫んだ。 「だけど、弥助だって普通じゃないって思ったんだけど?」 幻影が聞くと、弥助は、「…とにかく逃げろって…」と答えてうなだれた。 「どこぞの武家か…」と信長がつぶやくと、「…お話で聞いて… 源平合戦…」と弥助がつぶやくと、「…まだやっておったわけだ…」と信長は言ってため息をついた。 「弥助の足取りから平家か源氏の者のようです。  そこには、言い伝えられている剛力の者がおります」 幻影の言葉に、「…天下、とってもいいか…」と信長は言ってから腹を抱えて笑った。 そして、「真の名を名乗ってみよ」と信長が大いに期待して聞くと、弥助は木札を出した。 「絵馬? いや、なかなかの特別製だな…」と信長は言って目を見開いた。 「源弁慶。  我が子に願いを込めたのでしょうね。  それに、一緒に住んでいた者たちは家族ではなく家来だったようにも思います。  弥助の成長だけを楽しみにしていたのでしょう」 「…もう、ほとんど覚えてないんだけどね…」と弥助は言って少しうなだれた。 「いや! 生きていることに価値がある!」と信長は胸を張って言った。 「…源次に期待が沸いてきたな…」と信長が言うと、「はい、人質です」と幻影はなんでもないことのように言った。 「前田慶次源次郎か…」と信長が言うと、「ヤツは遊び過ぎです」と幻影が少し憤慨して言った。 「そうか、本人も知らぬか!」と信長は叫んで、源次を抱き上げた。 「もちろん源次を盾になどにはしません。  精神的余裕を持つため、ですね」 幻影の言葉に、信長は何度もうなづいた。 「源次は色男になりそうだな」と信長がお菊に向けて言うと、「源次の側室でもいいよ?」とお菊が明るく言うと、幻影だけが大声で笑った。 「…偶然、と言っていいのか…」と信長は言って幻影を見ると、「ある意味偶然で、引き寄せたのは私の勘と考え方です」と答えた。 「…まあ、とんでもない速さで移動できれば、それも可能だ…」と信長はあきれ返って言った。 「謎解きのようで楽しかったですね。  そのついでに、身体能力も精神力も勘も養われました。  もしも御屋形様につかなければ、  三人とともに旅でもしていたことでしょう」 「…仲間に、入れろ…」と信長が小さな声で言うと、幻影はすぐさま頭を下げて、「御意」と答えた。 穏やかに食事を摂ってから、弥助たちは早速幻影のお使いに出た。 幻影はここは経験として、見込みのある部下に信長のお付きを言い渡してから、地下に籠って、様々な下ごしらえをした。 一刻ほど作業に集中してから外に出て休憩することにした。 どうしようかと大いに考えていたのだが、できればすぐにでものどを潤したかったので、幻影特製の大きな水筒を出して、湯飲みに茶を注いだ。 「…あー、なかなかうまい…」と幻影は言って、笑みを浮かべて青空を見上げた。 「俺にもくれ」といつの間にかここにいた蘭丸が言うと、「やあ、いらっしゃい」と幻影は驚くことなく歓迎して、湯飲みを出して茶を注いだ。 「…面妖な入れ物じゃ…」などと蘭丸は言いながらも茶を飲んで、「温かい…」とつぶやいて目を見開いた。 「冷えないように工夫をしたんだ。  夏は逆に川で冷やしたものを入れて、  冷たくおいしくいただくこともできるだろう」 「…旅を、するべきだろうか…」と蘭丸は言って幻影の隣に座った。 「旅をすれば俺になるわけでもないさ」 「…それはそうだ…  人それぞれ、考え方は違う…」 「あら? まあ!!」とお静が音もたてずにやって来て、大きな水筒を見入った。 そして茶道具一式を縁側に置いて、茶をごちそうになった。 「…持ってきたものと変わらないほど暖かいです…」とお静は大いにうなだれて言った。 「一番は心遣いですから」と幻影が言うと、「そうですよね! お代わりを!」とお静は機嫌よく叫んで幻影の湯飲みに茶を汲んだ。 『…チンチン…』と地下と部屋から小さな音が聞こえると、「お呼びだ」と幻影は言って手早く片付けてから、聞きたいことが山ほどできた蘭丸とともに天守に登った。 やはり来客で、幻影が一度だけ会ったことがある人物で、お静の父の明智光秀だった。 「明智様にはご機嫌うるわしく」と幻影は言って頭を下げた。 光秀は少し下がって幻影に顔を向け、「静香をもらってやってくれ」と言って頭を下げた。 「こら鼠、勝手なことを抜かすな。  幻影は蘭丸か竹千代の夫となるのだ」 信長の言葉は厳しいが、やけに芝居じみていると幻影は感じた。 「推薦のない姫君を嫁に迎えることが一番のように思いました」 幻影の言葉に、信長も光秀も大いに眉を下げていた。 「私、結納の品をいただきました!」と蘭丸は言って、長太刀を掲げると、「なんと!」と光秀は叫んで、長太刀を見入った。 「あ、振れるの?」と幻影が気さくに聞くと、「ぬかせ」と蘭丸は答えて、長太刀を背後に置いて涼しい顔をした。 「鼠、微笑ましい夫婦と思わぬか?」 信長の言葉に、「畏れながら、仲のいい友人としか思えませぬ」と光秀が言うと、幻影は笑みを深めていた。 幻影はまずは信長に献上する双眼鏡を三方に乗せて竹千代に寄せた。 竹千代は覗いてみたかったのだが、涙をのんで信長に渡した。 「おまえにはこれを授けよう」と信長は言って懐から、元はお菊が使っていた双眼鏡を出した。 竹千代は高揚感を抑え込んで頭を下げて受け取って、膝の上に置いて幸せそうな顔をした。 光秀は大いに気になったが、間髪入れずに幻影が三方に装飾品を乗せて光秀に献上して、「ガラシャ様に」と一声添えた。 光秀は目を見開いて、「…なんということだ…」とつぶやいて、髪飾りを手に取った。 銀色の複雑な枠に、ガラスのようなものがはめ込まれている素晴らしい逸品だ。 「…ガラシャには過ぎたるものじゃ…」と信長は悪態をついたが、内心は大いに穏やかだった。 「…この金属は銀ではないのか…」と光秀が言うと、「白金というものらしく、出土数が少ないもので、変色を起こさず安定した硬さをもったものです」と幻影はすぐに答えた。 光秀は拝むように髪飾りを軽く掲げ上げて、添えてあった箱に収めて、箱書きを見た。 「…雅良素髪結…」とつぶやいて笑みを浮かべた。 「…蘭丸には?」と信長が少し苛ついて聞くと、「このあと打ち上げましょう」と幻影が言うと、信長の機嫌は直っていて、何度もうなづいた。 「蘭丸には額当ての方が似合いますが」 幻影の言葉に、「さもありなん!」と信長は叫んで大いに笑ったが、蘭丸はそれでもいいのか薄笑みを浮かべていた。 光秀の来城は信長のご機嫌伺いもあったのだが、先の大雨によって街道の一部が流されてしまい、橋まで落ちてしまったので、人足の手配などを上申にやってきたのだ。 「…幻影殿に言われていたのだが…」と光秀は悔しそうに言ったが、「よいよい、幻影、すべてを見繕ってこい」という信長の素早い対応に、光秀はすぐさま頭を下げた。 「はっ すぐさま」と幻影は言って消えた。 光秀は夢でも見ているように目を見開いて、信長を見た。 「…忍びであってもあの動きはない…」と光秀がつぶやくと、「幻影ひとりで、万の敵をも打ち倒すであろうな」と信長は機嫌よく言った。 「伜は、あの猛将を差し出せというのか?」 信長の言葉に、光秀はひれ伏して、「お許しください」という言葉しかでなかった。 「まあよい」と信長は機嫌よく言った。 「伜はそろそろ身辺整理にかかれ」と信長が威厳をもって言うと、「御意」と光秀はすぐさま答えた。 「…ここだけの話、ワシは幻影に弟子入りさせてもらった…」 信長が小声で言うと、「…平らな道を歩まれるか…」と光秀は笑みを浮かべて言った。 「子供の喧嘩に大人は出ぬものじゃ!」と信長は機嫌よく叫んで大いに笑った。 「…ですが…」と光秀は言って蘭丸を見ると、「門番程度は必要じゃ」と信長は機嫌よく言ったが、蘭丸はそっぽを向いてホホを膨らませていた。 「…あの長太刀…」と光秀はつぶやいて、蘭丸を見て大いに脅威に思っていた。 戦場では武将であり、その武将自身が戦場に出れば、兵たちの士気は大いに上がる。 どれほど不利であろうとも簡単に優劣をひっくり返すことができる。 その自信が、戦場ではないここでも感じられるのだ。 「幻影同様、蘭丸も止められぬ。  どのような災いが起ころうともな」 今までにない信長の自信に満ち溢れた言葉に、「…平らな道、なのですよね?」と光秀は大いに戸惑って聞いた。 「旅をすることが決まっておる」という信長の言葉に、「御意」と光秀はすぐさま薄笑みを浮かべて答えて頭を下げた。 「伜は年寄りだ。  ワシの戦車に乗せてやろう」 信長の言葉に、光秀は大いに目を見開いた。 大まかな話は聞かされていて知っているが、今すぐにでも戦場に出向くような覚悟だ。 しかし言葉は大いに穏やかで、さらに、今までの信長であれば、今のような平穏な言葉は出ない。 しかし光秀は、『戦車』という言葉にだけ、大いに引っ掛かりを持ったのだ。 「迷え迷え!」という信長の無垢で陽気な言葉に、「いえ、考えることをやめにしました」と光秀は笑みを浮かべて言って頭を垂れた。 その頃、幻影は安土から坂本に向かって走っていた。 もちろん、におの湖を横断しているのだ。 岸に近づくたびに人が多くいたが、この辺りには船着き場はないので、景色を楽しんでいる者だけが幻影の存在に気付いたのだが、瞬きをするともういなかった。 まさに意表を突くように、湖面に人がいるように見え隠れするのだ。 幻影はあまり人がいない場所を選んで岸に上がって、ほぼ姿を消したまま街道を北上して走っていると、―― あ、あれだ ―― と災害現場に気づき、大勢の人足がいる街道に出て、人がいない場所で姿を現した。 そして確かに橋も落ちている。 それほど大きな橋ではないが、この辺りに住む者にとっては橋がないと大いに難儀だ。 街道の地滑りは岩盤に乗っていた土砂が流れ出してしまったようで、さらに崩れることはなさそうだ。 よって、隠れてしまった全長一丁ほどの土砂を排除して、整地をするだけで通れるようになりそうだった。 幻影は辺りを見回して、倒木などを使って、食べ終わった後の魚の骨のような戦車を作り出すと、誰もが気づいて戦車に近づいてきた。 「さあ! これを街道に出してくれ!」と幻影は叫んで、大勢の人足とともに骨の戦車を街道に出して、力の限り押すと、いとも簡単に街道から土砂が左右に分かれ、硬く素晴らしい新しい道が出来上がっていく。 「真田様!!」と現場監督の光秀の配下のひとりが叫ぶと、「監視役人さんはいらない! 押せ押せ!」と幻影が叫ぶと、さらに人足が増えて、あっという間に街道を通れるようになった。 「…なんてえこったぁー…」と人足たちは嘆くように言ったが、みんな笑みを浮かべていた。 そして土砂除去戦車を広い場所に出して、「処分してもいいよ」と幻影が言うと、顔見知りの役人が、「いえ、街道の補修用に使わせていただきます」と言って素早く頭を下げた。 「さあ、次は橋だけど、臨時に吊り橋をかけるから。  大勢じゃなきゃ、難なく渡れる程度のものでいいだろ?」 「…はは… ここの復旧工事、もう終わってしまいそうです…」と役人は言って、また幻影に頭を下げた。 幻影はたくさんの荒縄を用意してもらって、それを編んで太い綱にして、幻影特製の防腐剤に付け込んで、8本の綱の端を担いで川面を走り抜けた。 誰もが目をぱちくりとして動けなくなってしまったが、巨大な柱を四本立てて、綱を固定した。 対岸は幻影だけで立て終わっていて、綱を目一杯張った。 あとは板を敷くだけで通ることができる。 幻影は器用に綱渡りをして土砂崩れ現場に行って、右手の小手に仕込んだ刀を出して、生木を縦に切り裂いた。 土砂崩れで倒れた生木などを使って、板を作り始めたのだ。 誰もが大いに手伝って、板を干して今日の大きな作業を終えることにした。 ここからの作業はそれほど難しくないので、説明だけをして、幻影は安土城に戻った。 幻影が天守に戻ると、信長と光秀は茶を汲み交わして陽気に談笑していた。 「ほぼ終了しました」という幻影の言葉に、光秀は大いに目を見開き、信長は高らかに笑った。 「一銭もかけんかったか」と信長が言うと、「現在働いている人足分だけです」と幻影は言って頭を下げて、すべての作業報告をした。 「…街道はもう通れるし、明日にでも橋を渡れる…」と光秀は言って、落ち着かなくなった。 今がどういった状態なのか、すぐに確認したいようだ。 「船で帰った方が早いと思いますけど、  どうされます?」 幻影の言葉に、光秀はすぐさま信長の顔色をうかがうと、「…ワシも行きたいところじゃ…」とさも残念そうに言ったが、「船からでも確認できます」という幻影の言葉に、信長は真っ先に立ち上がった。 「まずは戦車ではなく、戦艦に乗ることになったな!」と信長は陽気に叫んで、「まずは戦車に乗っていただいて、戦艦に乗っていただきましょう」と幻影が答えると、光秀もようやく立ち上がった。 ここからはお祭りが始まったのかと思わせるほどの騒ぎとなった。 戦車と戦艦が陸地を走っていれば、誰もが驚くだろう。 城の裏庭には、におの湖の入り江でもある西の海が広がっているのだが、ここはあえて使わない。 狭いので、急襲されると逃げ場がなくなるからだ。 よって、まずは見晴らしのいい大海原に出ていた方が安心できる。 城の真北にある湖岸にたどり着いて、幻影は部下たちとともに船を湖面に浮かべた。 幻影以外の護衛はすべて甲板に出て、本来の護衛の役割をする。 『出立いたします!』とくぐもった幻影の声とともに、船はゆっくりと動き出し、瞬く間にとんでもない速さで湖面を疾走した。 光秀はただただ首を横に振って、美しい景色の堪能を始めると、なんともう対岸についてしまった。 左手に坂本城があり、正面を向いている信長は、「おお! あれか!」と機嫌よく言って、完成間近の吊り橋を見入った。 「街道の往来も問題なさそうじゃ!  今回もあっという間だったな!」 信長が機嫌よく言うと、光秀は大いに頭を下げて幻影に礼を言って、街道と吊り橋の確認に行くために名残惜しそうに船を降りた。 「…ゆっくりと帰ろ?」と竹千代が幻影に懇願すると、「たまのことだ! 幻影に任せる!」と信長が答えた。 「御意」と幻影は快く答えて、操舵室に行って、からくりを踏み込み始めた。 もちろんここからでも外の確認はできるので、湖岸から少々離れた場所を長浜に向かって操舵した。 竹千代は景色を堪能しながら大いに陽気になって信長と話をしている。 まさに父との休日を楽しんでいる親子のように見える。 そして彦根方面に操舵して、真正面に安土城が確認できた。 「…あーあ、もう着いちゃったぁー…」と竹千代が寂しそうに言うと、「楽しいことはすぐに終わるものだ」という信長の言葉に、「…はい、御屋形様ぁー…」と竹千代は答えてうなだれた。 湖岸に船を寄せてから、大勢の人足たちとともに船を陸に上げて、信長たちはまた戦車に乗って城に戻った。 街道には人だかりがしていて、大方の理由は把握していたようで、誰もが笑みを浮かべて頭を下げていた。 今回の騒ぎの事情を話したのは、居残りになってしまった門番たちの仕事だった。 今まででも十分に有名人だった幻影は、さらに有名になった。 というのも安土城下は、自由に商売ができ、税も取らないという特例措置がとられているので、この近隣でかなり多くの人々が暮し始めていたからだ。 「…舟遊びもよいものじゃ…」と信長が機嫌よく言うと、「でしょ?! でしょ?!」と竹千代は大いに陽気に言った。 今日の一番の収穫は、今までで一番陽気になった、竹千代の笑みだと幻影は思ってうれしくなっていた。 「どういうことでございますか?!」と城の巨大な玄関で着飾った女官が叫んだ。 「視察」とだけ信長は答えてそそくさと天守に続く階段を昇って行った。 幻影は女官に素早く頭を下げて、信長に続いた。 「お蘭! 説明なさい!」という女官の厳しい言葉に、蘭丸は大いに苦笑いを浮かべてすべての事情を話した。 ―― 怖い怖い… ―― と幻影は思いながら歩いていた。 そして、―― 濃姫様たちはどうされるのだろう… ―― と幻影はこの先のことを考え始めた。 しかし全ては信長の胸の内なので、余計なお世話とも思い始めて、信長の大きな背中を眺めながら階段を上った。 竹千代は大いに機嫌がよく、幻影に礼を言いながらも信長に陽気に話しかける。 それとはまるで逆の面持ちで蘭丸が部屋に入って来て、すぐさま信長の右隣に座った。 すると、廊下がやけに騒がしくなり、『バンッ!!』という大きな音を立てて障子が開いた。 「女子のすることではない」と信長がたしなめると、濃姫は何と信長に尻を向けて幻影の前に座った。 幻影は一瞬にして濃姫から離れると、「…面妖な…」とつぶやいたので、信長は大いに笑った。 「勝手知ったる場所でも、ここは公の場だ。  幻影の対応が正しい。  間に仲介役が必要なのは、お前だってわかっているだろ?」 「どうして誘って下さらなかったのですか?!」と濃姫は幻影に向けて叫んだ。 その顔はまさに鬼のようだったのだが、多少の照れはあるようで、濃姫も竹千代と同じで子供でしかなかった。 信長が竹千代の背中を押すと、竹千代はすぐさま幻影と濃姫の間に立って、「…おばば様が恥ずかしいぃー…」と小声で言うと、「本当のことを言ってやるな!」と信長は言って膝を叩いて大いに笑った。 竹千代は織田信雄、すなわち信長の息子の娘で孫にあたる。 決して人質のようなことではなく、花嫁修業の一環として、信長の小姓をさせているのだ。 もっとも、この恐ろしい信長に懐く孫はそれほどいない。 竹千代が唯一と言っていいほどなので、信長は息子に頼み込むようにして小姓につけている。 さらに言えば、武将たちが大いに集まる場所にいることで、素晴らしい経験の積み重ねと素晴らしい婿と巡り合う可能性も高いのだ。 よって、人を見る目も養えることになる。 もちろんそのひとりに幻影もいる。 「舟遊びに連れて行っておじゃれ」と濃姫が上目遣いで幻影に言うと、すぐさま竹千代が、「私もまた行きたいよ?」と希望を言ってきた。 幻影はひとつため息をついてから、今抱えている仕事をすべて並べ立てた。 さすがの濃姫も開いた口が塞がらないようで、「…それをすべて… なんて横暴な…」と濃姫は信長批判をしたが、その信長は大いに笑っている。 幻影が竹千代に目配せすると、「幻影様がほとんど提案したんだよ?」と竹千代が言うと、「…早死になさらぬように…」と濃姫は本気で心配して言って、幻影に頭を下げてから、信長に向き直った。 「対岸に向かわれるお勤めはいつでおじゃる?」と濃姫が穏やかに言うと、「予定はない」と信長は堂々と答えた。 幻影が信長に目配せすると、「…京には行くが…」とつぶやくように言うと、「…帝は苦手だわぁー…」と濃姫は大いに嘆いた。 「…あとは長浜だな…」と信長が言うと、濃姫はさらにうなだれた。 仕事のついでではなく、舟遊びの日を決める必要があるが、幻影の予定からすれば、数カ月ほど先になりそうだと踏んだ。 「都合がつく日はいつなのですか?!」と濃姫が畳を叩きながら催促すると、「…追って知らせる…」と信長は大いに眉を下げて答えた。 「あらよかったわ」と濃姫は機嫌よく言って、竹千代の頭をなでてから廊下に出て行った。 「…やれやれ…」と信長は言って頭を振った。 「いつなの?!」と竹千代が幻影の顔を覗き込んで言うと、「早くて七日後、かなぁー…」と幻影が言うと、「うふふ…」と竹千代は機嫌よく笑ってから、心も体も軽くなったようで、機嫌よく信長の左隣に座った。 「事前に日程を決めておくのはあまりよろしくありません」 幻影の言葉に、「ワシが即決するからよい」と信長はごく自然な感情で言って、「…様々なことを幻影でしかできないところが誤算だな…」と信長は大いに嘆いた。 「周遊であれば、弥助と源次でも構いません。  私は安心して警備に回りますので」 「…それだけでも助かった…」と信長は大いに苦笑いを浮かべて言った。 「もしも、大砲を撃って来てもほぼ問題はありません」と幻影が言って拳で胸を二回叩くと、「あいわかった」と信長は機嫌よく言った。 この日から幻影は現在必要なすべての製作と今後の予定の作成を五日間で終わらせて、時間ができたことを信長に伝えると、「船を出せ!」と信長は間髪入れずに言った。 幻影はすぐさま移動して、幻影の直属の兵に指示を出した。 兵たちはようやく出番が来たと活気に満ち溢れ、あっという間に準備ができた。 信長は大いに困惑している濃姫を連れてやってきて、まずは戦車に乗り込んだ。 濃姫は今までに乗ったことがない移動する貴賓室に大いに感動して辺りを見回した。 「では、出立いたします!」と幻影が叫ぶと、弥助と源次が力強く戦車を引いた。 「…まあ… 幻影の弟たちではありませんか…  まだ小さいのに逞しい…」 濃姫が機嫌よく言うと、「幻影のお墨付きだからな」と信長は機嫌よく言った。 幻影は戦車の背後に回って、戦車を押しながらも片手は双眼鏡を覗いていた。 大津方面はほぼ問題ないと感じたので、安土を出て右回りで琵琶湖を周遊することに決めた。 あっという間に港についてから、船を湖に降ろした。 幻影が点検して、「少し気を抜いて踏めばいいいから」と指示を出すと、弥助と源次は身軽に移動して、操舵室に降りて行った。 幻影はさらに辺りの確認をして、不穏な動きはないと感じたが、それは今だけだ。 この催しを知った者が早急に準備を整えてここに来る可能性もある。 ―― ま、予行演習、だな… ―― と幻影は気軽に考えた。 もちろん、蘭丸も油断はしていない。 そして幻影の緊張感も大いに感じていた。 ―― 幻武丸の出番があって欲しい… ―― と蘭丸は思い、寝かせていた長太刀を持ち替えて立てた。 「この近隣の警備を強化」と幻影が指示を出すと、部下たちは一斉に頭を下げて、決められた場所に移動して監視を始めた。 蘭丸の部隊は湖と城の中間に陣取っていて、こちらも指示を受けて監視している。 ただの舟遊びだが、ここは完全に戦場でしかなかった。 船はゆっくりと動き始め、守山を通り、大津に向かった。 雄琴辺りまでは不審な点はない。 時間をかけて船は予定の半分ほどに差し掛かって、高島近辺までやってきた。 幻影は予定通りに、船に織田家の旗を掲げた。 そして長浜を見入ると、やはり動きがあったので、「お蘭! あとは任せた!」と幻影は叫んで、陸地に向かって湖面を走った。 「…なんということでしょう…」と濃姫が大いに嘆くと、信長は機嫌よく笑い始めた。 「水面の上は走れねえぇー…」と蘭丸は大いに悔しがって言った。 水面を人間が走れば、驚かない者は誰もいないだろう。 正体不明の鉄砲隊は、ハチの巣をつついたように逃げ惑ったが、幻影の足にかなうわけがない。 多くの者がその場に倒れて動けなくなっていた。 幻影が音が出ない笛を吹くと、鳥が飛び立って旋回してから、安土城に向かって行った。 するとあっという間に小さな足漕ぎ船が飛んでやってきて、乗り組み員たちはすぐさま狙撃手たちを縛り上げて、船につないでいる簡素な牢に賊を閉じ込めて、安土城に向かって戻って行った。 ―― 硝煙! ―― と幻影は感じ、すぐさま場所を移動して、風上に走った。 茂みに潜んでいた五名ほどの狙撃手たちが砂浜に向かって狙いを定めていたのだが、標的がいなくなったので大いに混乱した。 その側面から幻影が現れ、賊はあっという間に意識を断たれた。 幻影はまた笛を吹き、拘束班を呼んだ。 出番が多いことで、幻影の部隊は活気づいていた。 ―― 秀吉の手の者か… ―― と幻影は思って長浜城を見上げながら思ったが、どこで雇われたのかはよくわからない。 しかし、ひとりくらいは自白するだろうと思い、五人を引きずって砂浜に出た。 辺りを見回し、木陰に隠れて双眼鏡で覗いたが、今度こそ誰もいないようで、幻影はまた砂浜に出た。 拘束班がやって来て、「さすが幻影様!」と部下たちが高揚感に満ち溢れて叫んだ。 船は停船して観覧していたのか、今になって動き始めた。 「殿から褒美があるかもよ?」と幻影が気さくに言うと、さらに配下たちの士気が上がっていて、豪華船に向けて頭を下げていた。 幻影は湖面を走って船に戻り、何食わぬ顔をして警備に当たった。 城の近くでは何事もないようで、幻影の別動隊を大いにうらやましく思っていた。 「素晴らしい催しものだったわ!」と濃姫が上機嫌で叫んで船を降りた。 「幻影様! すごいすごい!」と竹千代は言って、幻影に抱きつかんばかりに飛び跳ねていた。 「…出番、なかったぁー…」と竹千代と逆の感情を持って蘭丸が下りてきた。 信長たちが戦車に乗り換えている間に、幻影たちは後片付けを済ませてから城に戻った。 捕らえた狙撃手は十八名で、専門の取り調べ班が調査をする。 しかし幻影は信長に許可を得て現場に立ち会った。 「あの場面では、捕らえられなかったはずだけどな」と防諜組の組長の村上五平が穏やかに幻影に言った。 「…時代の動きが早くなったかもしれません…」と幻影が言うと、「それはある」と五平は自信を持って言った。 しかし案の定、取り調べでは真相が明らかにならなかった。 供述を拒絶しなかったのだが、「浪人のような者に頼まれた」という回答が全員から聞くことができた。 「…じゃ、絵でも描くかな…」と幻影が言うと、「人相書きか…」と五平は言ってにやりと笑った。 幻影は全員から浪人の人相を聞くと、どう考えても三人ほどいるようで、その人相書きを見せると、「…そっくりだ…」と誰もが目を見開いて言った。 幻影は三枚の絵の写しを大量に描いてから天守に登った。 人相書きを信長に見せると、「もう消された」というと、「失敗した時点でそうなったのでしょう」と幻影は答えたが、「…狙撃隊を雇った時点で消されていた…」と言い直すと、「俺ならそうする」と信長は言った。 「木下様を陥れるため…」と幻影がつぶやくと、「その線は濃いな」と信長は無機質に答えた。 「どなたか、お見舞いに来ていただきたいものですね」 幻影の言葉に、信長は大いに笑った。 この時点で来た場合、ほぼ主犯と言い切れるからだ。 長浜の浜には、ほとんど人影はなかった。 更に一発も発砲していないので、ただの小競り合いでしかなかった。 よって、見舞いに来ること自体、大いに怪しいのだ。 「まずは味方から」と幻影は言って、笛を出して短く二回吹いた。 「…諜報の方に長けてるな…」と信長は眉を下げて言った。 「あとで慌てないために、今、面倒なことをしておくだけです」 「しかし、どういった指示なんだ?」と大いに疑問をもって信長が聞いた。 「現在、城の出入りはできないように命令してきました。  中の者が外の者と接触した場合、鳴き声を三回上げます。  門番も中に入れましたので。  こちらのお部屋は特等席です」 幻影の言葉に、「今度は空を飛んで捕らえるわけか」と信長は愉快そうに言った。 『カアカアカア』とカラスが三回鳴いたと同時に、幻影は消えた。 その幻影は塀の上に立っていて、外にいる者をにらみつけた。 「何の用だ」と幻影が聞くと、女は逃げようとしたが動けない。 「兄ちゃん早すぎるよぉー…」と源次は言って眉を下げた。 「捕らえたからいいんだ」と幻影がにやりと笑って言うと、源次は照れくさそうにして頭をかいた。 中の者は蘭丸が当て身を食らわせて眠っている。 「猿の元にいたやつだな」と蘭丸が言った。 幻影が綱をもって女を引き上げると、「…ふん、お亀か…」と蘭丸は鼻で笑って言った。 「おまえの殿様、打ち首だなぁー…」と蘭丸が首の横で手刀を振ると、「そんなはずはございません!」とお亀は大いに叫んだ。 「ま、じっくりと調べさせてもらうさ」と幻影は言って、お亀を蘭丸に引き渡した。 幻影が手を伸ばすと、源次がその手に抱きついて引き上げられた。 「他にはなし、だな…」と幻影は言って、源次とともに庭に降りた。 「きっとね、兄ちゃんのこと調べてんだよ」と源次が言うと、「…さもありなん…」と幻影がため息交じりに信長のマネをすると、「似てる似てる!」と源次は叫んで喜んだ。 幻影は天守に戻って一部始終を話した。 「猿は打ち首」と信長が言うと、「それでもかまわないでしょう」と幻影が肯定すると、「止めないところが素晴らしい!」と信長は言って大いに笑った。 「疑いを持った時点での打ち首は、どこの武家でもあることです。  疑われた方に非があるのですから」 「…さもありなん…」と信長が言うと、源次が大いに笑いをこらえて、太ももをつねっていた。 「ヤツは備中出立の準備で忙しいはすだが、  確実に来るだろうな」 「かなり焦っているものと。  そして白装束でここに来ると推測します」 幻影の言葉に、「…それを聞かなんだら許しておったわ!」と信長は大いに叫んで大いに笑った。 「斬りたくはありませんが、介錯はお任せを」と幻影が頭を下げて言うと、「…本音が聞けそうだな…」と信長は言って鼻で笑った。 「三方と敷布の準備をしておきましょう」 「ま、先手だな」と信長は言ってうなづいた。 幻影が準備を終えた時、木下秀吉が来城したと連絡があった。 幻影も今は白装束で、太刀を脇に置いている。 「…お前と刀が似合わねえ…」と蘭丸が嘆くように言うと、「…使わなければ、御屋形様に献上いたします…」と幻影が伏し目がちで言うと、「使っても頂こう」と信長は機嫌よく言った。 「ヤツは頭が切れるので、  障子を開けた途端うろたえる芝居をするものと。  その場合、武士にあらずということで、  天守から落として城の人柱となっていただきます」 「よかろう」と信長はすぐさま答えた。 すると廊下が騒がしくなり、素早くふすまが開いて、白装束の秀吉がその場で固まった。 そして、「拙者のほかにも誰か粗相を…」と秀吉は言って信長を見入ってから、その場に座り込んだ。 「ふんっ! 詰まらん!  ここにきて事情を話せ!」 信長の厳しい言葉に、秀吉は立ち上がって信長の正面に座って頭を下げた。 秀吉は頭を下げて、「ここにいる真田幻影は隠し事をしております!」と叫んで訴えた。 「その先」と信長が落ち着いた声で言うと、「…えー…」と秀吉は顔を上げて大いに眉を下げていた。 「幻影が消えるのは当たり前だ。  その程度のこと、ワシが知らんとでも思ったか!  この戯けが!」 信長の本気の怒りに、秀吉は意識を断たれるほどに体を震わせた。 「幻影をつけ回していた。  それを理由にしてだ。  もしも落ち度があろうものなら、ワシから幻影を奪おうと画策した!  そうであろう!」 「…高松城は、真田がおれば簡単に落とせますぅー…」と秀吉は言って半分以上泣いていた。 「ふん!  どこのどんな戦場であっても、幻影ならただひとりですべてを落とせる。  これは決まっていることだ」 そして昼にあったことを信長が語ると、「…湖を走った…」と秀吉はつぶやいてからうなだれた。 「問題はその場所だ。  長浜城の目と鼻の先だった」 「罠です! 誰かが私にぬれぎぬを着せようと!」 「そう思わせるように、お前が指示した」 信長の言葉に、「…死にたくないぃー…」と秀吉が嘆いて泣くと、「…おまえ、本当に武士じゃあねえな…」と信長は大いに呆れていた。 「備中遠征の後、お前は追放だ。  だが、それなりの功績を上げればその限りではない。  追放した場合、命はないと思っておけぇー…  お前は武士ではないからな、切腹も打ち首もないから、  獣に食わせるかもなぁー…」 信長の畏れに、「ははぁー!」と秀吉は言って額を頭にこすりつけた。 「この件を話せば士気が下がる。  よって公言はせぬようにしてやろう」 「はっ! ありがたき幸せ!  必ずや、早急に落としてみせましょうぞ!」 秀吉は大いに高揚感を上げて叫んだ。 「もうよい、下がれ」と信長は吐き捨てるように言うと、秀吉は逃げるようにして部屋を出て行った。 「…感情をころりとかえて今は怒り狂っています…」と幻影は瞳を閉じたまま言った。 「ヤツとは、もう会うこともないだろうなぁー…」と信長は昔を懐かしむようにつぶやいた。 「しかし、野望だけであの行動は考えられません。  少々狂っているとしか思えません」 「子供に多くのおもちゃを与え過ぎたワシへの罰じゃ」と信長は言って鼻で笑った。 「…忠誠心の欠片もない、か…  あの狂った輩がどうなっていくのか、  高みの見物としゃれこみましょうぞ」 幻影の言葉に、「ことごとく邪魔をしてやろう」と信長は言ってにやりと笑った。 「さて… この先がさらに大変だ…  我らの兵の処遇だ…」 信長がため息交じりに言うと、「全く問題ありません」と幻影は胸を張って答えた。 「む? …あ、そうか… その手があった!」と信長は素早く察して叫んでから、何度もうなづいて幻影をほめちぎった。 「明智様にもお勧めしておきます。  ネタはまだまだあると思いますので。  必要ないかもしれませんが」 「…高みの見物をするのも、それなりに大変じゃな…」と信長は言ってから大声で笑った。 「ですがそれはまだ先のことでございます」と幻影が言って頭を下げると、「…その教育も必要か…」と信長は大いに嘆いた。 「家康に付けと言って簡単につくような者が御屋形様のおそばにいるわけがありません」と幻影は言って蘭丸を見た。 「御屋形様とともに!」と蘭丸が幻影を大いに睨んで言い放つと、「…よくわかったつもりだ…」と信長は大いに苦笑いを浮かべて言った。 「もちろん、御屋形様の冷酷な面をお出しして、  無条件で追放してもいいのです」 幻影の言葉に、信長も蘭丸も大いに幻影をにらみつけたが何も言わない。 もちろん、幻影が言ったことを、今までにさんざんやってきたからだ。 「ですので今回は人情に訴え、  いつもともにいるという  証明を見せつけるような説明をしていかなくてはならないと思っているのです。  具体的には…」 幻影は言って、懐から短刀を出して柄を外して、三方に厚みのある布を乗せてから、刀身を置いて信長に差し出した。 「む?!」と信長はすぐさまうなり、「…幻影様、くださいぃー…」と蘭丸は瞬時に落城した。 信長は大いに蘭丸を見て苦笑いを向けて、「…じゃが、五万と必要だぞ…」とうなった。 「もう、半分ほどできております」と幻影は言って短刀を元に戻して、また三方に乗せて信長に献上した。 「む」と信長は機嫌よくうなって自分の懐に入れたが、「御屋形様」と幻影が大いに眉を下げて言うと、「わかっておる!」とここは威厳をもって叫んでから、「やる!」と蘭丸に乱暴に言って短刀を差し出した。 「…ああ、ありがとうございますぅー…」と蘭丸は言って震える両手を延ばしてしっかりと短刀を握りしめたが、信長が離さない。 「…御屋形様のものは別にございますから…」と幻影が大いに眉を下げて言うと、「それを先に申せ!」と叫んでから手を放した。 蘭丸は、『武神信長』の銘を持った短刀を抱きしめて涙を流していた。 「銘は第六天魔王です」と極が言うと、信長は機嫌よく何度もうなづいた。 「…ちなみにこの先、戦場に出ないわけではないのです…  表舞台に立たないだけですから…」 幻影の言葉に、「それでよい」と信長はさらに機嫌よく言った。 「ワシがなしえなかったことをするというわけか」と信長が機嫌よく言うと、「私と蘭丸だけで十分ですので」と幻影がすぐさま答えると、「わしも出るに決まっておるわぁ―――っ!!!」と信長は最高潮の機嫌よさで大いに笑った。 「果たせばまた旅にでも出ます。  この日の国にも行っていない土地も大いにございますから。  特に蝦夷の地と琉球」 「うむ! 任せた!」と信長が機嫌よくいうと、「…たくさん旅ができるぅー…」と今度は竹千代が感動を始めた。 「…おまえも来るのか?」と信長が眉を下げて聞くと、「…いいふらしちゃうぅー…」と竹千代は信長を脅した。 「ふん!」と信長は鼻を鳴らしてから機嫌よく乱暴に竹千代の頭をなでた。 「…だが、ほかの人材だが…」と蘭丸は言って、幻影の三人の兄弟に目を向けた。 「ここにいる者だけでもいいんですけどね」という幻影の軽い言葉に、「よきに計らえ!」と信長は機嫌よく言ってひとつ膝を打った。 「では、現実的なお話を」と幻影は言って、この先は少々地下に籠る時間が増えることを信長に明言した。 幻影が姿を見せないことで、いなくなったか病にかかったと思わせる算段でもある。 もちろん内通者探しという意味もあり、その噂の出どころを確かめ、その時々により、口をふさぐか逆に利用するような策を練る。 「…さすが策士じゃ…」と信長は言ってにやりと笑った。 「ですので、しばらくは…  半年ほどは、遊びに出られませんので」 幻影が竹千代に向けて言うと、「…よーく、わかったのぉー…」と竹千代は大いに眉を下げて答えると、「…こうやって、穏やかに説得することも覚えなくてはな…」と信長は言って幻影と竹千代を見た。 「私の配下の者たちは任を解きません。  御屋形様がお好きに扱って下さいますよう」 「…もったいない…  使える者が最低でも十人はおる…」 「出世ということでもよろしいかと」と幻影は言って頭を下げた。 「…ますます噂に拍車をかけさせるか…」と信長は言って何度もうなづいた。 するとお菊が幻影を見上げていた。 「お菊、申せ」と信長が急かすように言うと、「松山楓様と大崎悟道様は必要になると思っています」とお菊が穏やかに推薦した。 「…悟道はいいが、楓はなぁー…」と幻影は嘆いて蘭丸を見た。 「ふん、男女の美形合戦など興味はない」 「んなわけないだろ…」と幻影は大いに眉を下げて答えた。 「ふたりを重点的に見る」という信長の鶴の一声に、誰もが一斉に頭を下げた。 「忍びは別動隊としてで構わないのですが、  特別部隊として構築いたしますか?」 「任せろ」と信長は機嫌よく答えた。 「逃げに使う様々な道具も渡しておきたいのです。  私たちの日常を守る強靭な盾でもありますので」 「うむ!」と信長は機嫌よくうなって返事を返してから、「やる気が沸いてきた」と言ってから固まってすぐに幻影をにらみつけた。 もちろん、幻影に操られたとでも思っているようだ。 「話の流れの結果でしかありません」と幻影が大いに眉を下げて言うと、「気が合うというやつだな!」と信長は機嫌よく言って、蘭丸と竹千代を連れて部屋を出て行ってすぐに、「お菊もこい!」と信長はさらに機嫌よく叫んだ。 お菊は、「…地下のお仕事の方がよかったぁー…」と大いに嘆きながらも廊下に出て行った。 幻影はこの時から有言実行で、そして昼夜逆のような生活に替わった。 原材料や軍資金、さらには諜報作業など、暗闇の中でできることはすべてをこなし、百五十日を過ぎた時に、徐々に元の生活に戻し始めた。 もうこの時には、幻影は病床の身にあるといううわさが、城の外と中で大いに流れていた。 武将などが大いに興味を示して来城しては、信長にお見舞いを言いつつも鼻で笑っている。 ―― 今までのツケが回ってきた ―― といった感情だ。 しかし信長はいつもの信長でしかなく、愉快なことは大いに笑い、詰まらなければ鼻で笑う。 すると障子が開いて赤い鎧を身にまとった男が頭を下げている。 「おう幻影! ようやく来たか!」と信長が機嫌よく言うと、男は顔を上げ、「弥助でございます」と笑みを浮かべて言って、部屋の一番奥の隅に素早く移動して、背筋を伸ばして座った。 「…弥助、なのか…」と信長はまだ戸惑っていたが、少々毒を抜いた幻影でしかないと思い、じっと弥助を見入っている。 「お師様も直に参上いたします」 「…お、おう…」と信長は答えたが、まだ弥助を見入っている。 もちろん幻影を疑ってはいないが、からかわれているのではないのかと思っていた。 するとまた障子が開き、まるで山のような男が現れた。 「いやぁー! 身長まで伸びてしまいましたぁ!」と幻影は明るく言ってから、すぐさま座って客人と信長に頭を下げた。 「…わずか五カ月で… 逞しくなったものだぁー…」と信長は目を見開いたまま言った。 「…だ… だが、鈍重になっておらんだろうな…」と信長が大いに戸惑いながら聞くと、「その点はご安心くださいますよう」と幻影は明るく言って笑みを浮かべた。 「ようやく任を離れられましたので、  舟遊びでもいかがでしょうか?  ご都合がよろしければ松平様もご一緒に」 幻影の言葉に、家康は大いに戸惑って、尻込みをしながらも興味を持っていた。 わずかな情報だが、このにおの湖を疾走する船を見たという証言が数件上がっていたのだ。 もしもそれが真実であれば、織田軍は戦力的に怖いものがなくなってしまう。 よってどう考えても、信長の天下統一は動かないのだ。 「…ぜ… 是非とも、ご一緒いたしたく…」と家康は答えて信長に頭を下げた。 「漕ぎ手は弥助か?」と信長がようやく平静を取り戻して聞くと、「交代で任に就きます」と幻影が答えた。 「いや、まだまだ弥助の観察もしたいものだ」と信長は機嫌よく言って弥助を見入った。 すると廊下には頭を下げているお菊と小山のような子供がいた。 「源次! 面を上げろ!」と信長が機嫌よく叫ぶと、まだあどけないが、大人に近い顔になっている源次が、愛想のいい笑みを浮かべて顔を上げた。 「おぬしも相当に鍛えてもらったようだ」 「私などまだまだでございますが、おほめ頂いてありがとうございます!」とまさに今までの源次の声で答えた。 「…おまえだけは安心できたように思う…」と信長は言って大いに眉を下げていた。 「お菊はどうじゃ?  竹千代がそれほど変わっておらんから、  お前も同じようなものだろ?」 信長はまさに好々爺然としてお菊に声をかけると、「うふふ…」と竹千代が笑ったので、信長は背筋を震わせた。 お菊はすぐさま顔を上げ、「お兄様方には至りませぬが」というと、信長も家康も、お菊の魅力に体が硬直していた。 「…幼少のころのお濃がかすんだ…」と信長がつぶやくと、「ありがとうございます」とお菊は言ってゆっくりと頭を下げた。 「お菊ちゃんは私を守ってくれるって!」と竹千代が元気に信長に報告すると、「…お、おう… それで構わぬ…」とすぐさま承諾した。 「ありがたく拝命いたしました」とお菊は朗らかに言って、場所を移動して竹千代の横の廊下に座って頭を下げた。 「…うふふ… 私だって強くなったのよ?」と竹千代が自慢げに言うと、「…こっそりと覗いておけばよかったかぁー…」と信長は言って大いに後悔した。 信長の訓練は、日に日に剣術の腕が上がっていた蘭丸が剣術指南と武器享受の師匠となっていた。 信長も相当の自信があったのだが、お付き役の六人には全くかなわないと感じていた。 「松平様、ご気分が優れないようですが」と幻影が心配そうに聞くと、「…き… 今日のところはお暇いたす…」と幻影に答えて信長に頭を下げてから、そそくさと廊下に出て、家康のお付きの者たちを見てため息をついてから歩いて行った。 「お付きに本多忠高がいてもまだ足りぬわ」と信長は機嫌よく言った。 「では、戦車と船の準備をして、表門でお待ちしております」 幻影の言葉に、「あいわかった」と信長は機嫌よく答えて、すぐに立ち上がって廊下に出た。 もちろん、濃姫を呼んでおかないと後で大変なので、早々に部屋を出たのだ。 幻影たちは廊下から外に飛び降りて、瞬く間に準備を終えて、表門までやってきた。 そして家康一行が玄関から出て来て大いに驚いて幻影たちを見入っていたが、戦車と船を大いに観察してから、顔を伏せるようにして表門から出て行った。 「農夫?」とお菊が言って小首をかしげると、「だと思うよ…」と幻影はため息交じりに言った。 「ですが、素晴らしい手のひらをされておりました」と源次が言うと、「目ざといね」と幻影が言って、源次の頭をなでた。 「…空とべたぁー…」と竹千代は大いに感動しながら言うと、幻影たちは大いに笑った。 もちろん竹千代はお菊が抱いて天守から飛び降りたのだ。 「…今は充実しているように感じているだけ…」と弥助がつぶやくと、「…戦が終われば虚しくなるさ…」と幻影が答えると、四人は一斉に頭を下げた。 「だったら、平坦な道を歩いていた方がまだいい。  だが時には山あり谷ありだから、  ずっと楽しくいられるはずだから」 「はい、お師様」と弥助が言って頭を下げた。 「弥助は免許皆伝だ。  これからはお前の好きなように生きればいい」 幻影の言葉に、「わかったよ、兄ちゃん」と弥助が気さくに答えると、幻影は笑みを浮かべてうなづいた。 「うおっ!」と信長が奇妙な声を上げて幻影たちを見回してから、天守を見上げた。 「…危険なことでも危険ではないのだな…」と信長は呆れるように言って天守を見上げてから、お菊の案内で戦車に乗り込んだ。 そして機嫌がいい濃姫も戦車に乗り込んで、「また逞しい方たちを雇ったものです」と明るく弥助に声をかけたので、信長は大いに笑った。 舟遊びでは猛然たる速度でにおの湖を一周してから、二周目は遊覧するようにゆっくりと湖面を走った。 「…いい経験ができました…  馬の早駆けよりも早ようございます…」 濃姫は少し放心しながら言った。 もちろん、松平家康はこの一部始終を確認していて、湖岸にうっそうと茂っている葦の林で側近たちとの会議が始まった。 「あの船もとんでもないが、戦車と呼んでいた車も一筋縄ではいかぬ…  まさに動く要塞で、本陣を落とすことは不可能となったはずだ…」 側近筆頭の山手拓春が言うと、「すぐさまご家老に持ち帰らねば…」と家康が言うと、「…外では言葉使いに気をつけろと言ったはずだ…」と山手が戒めた。 「勘でしかないが、見破られていると思う…」 家康の言葉に、「…そんなわけが…」と側近たちが大いに戸惑った。 「…動物にも監視されていたような気になった…  特に時折姿を見せる、目つきの鋭いカラス…  それが時には、妙に陽気な雀になったりしている…  ワシは常に監視されているようで、  全く安心できぬ…」 「…そのようなこと…」と山手は言ったが、山手にも心当たりがある。 山手の場合、動物ではなく、人の気配だ。 まさに探りを入れられていたといっていい。 この家康は、近々戦場で命を落とすことになり、元康のころから通算で五代目があとを継ぐことになる。 これはすべて、家康を生かし続けるという、筆頭家老の井伊正孝の謀略だった。 すると一羽の水鳥が遊覧している船に向かって飛んで行った。 「…おお、おお…」と家康は言って両手のひらで口をふさいだ。 「…急がず、撤退だ…」と山手は言って、中腰のままこの場からゆっくりと立ち去った。 「…自らばらしよった…」と信長がにやりと笑って言うと、「いやー、聞こえて何よりでした!」と話の内容よりも、幻影が作った仕掛けがまともに機能したことに喜んでいた。 「聞こえた理由は分かった。  だが、水鳥はどうやってあやつらの場所を知りえたんだ?」 信長の素朴な質問に、「松平様のお召し物に薬を噴霧しておきました」と幻影が答えると、信長は何度もうなづいて、「…水鳥はその匂いを追ったわけか…」とつぶやいた。 「…天下取りなどちょろいもの…」と濃姫がつぶやくと、「考え、まとまったか?」と信長が聞くと、「こうやって旅を続けた方が楽しそうでよろしいですわ…」と濃姫は眉を下げて言った。 「資金は十分にある。  使い切れぬ程にな」 「…ええ、そうでしょうとも…」と濃姫は言って、髪飾りを手に取って笑みを浮かべた。 「その髪飾りは一銭もかかっておらぬ、幻影の手作りだ。  だがそれを売れば、数年は遊んで暮らせるほどの資金が手に入るからな」 「売りませぬ!」と濃姫は猛然と拒否して、髪飾りを頭に戻した。 「お濃にも戦ってもらうことになるやもしれぬ」 「遊んでばかりでは申し訳ないわ…」と濃姫は言ってうなづいた。 「…これからは、若いころのように、自発的に生きていきましょうぞ…」 濃姫は数十年ぶりに本気の目をして信長を喜ばせた。 「ところで、こちらの逞しいお方のお名前は?」と濃姫が幻影に顔を向けて言うと、「…まだ気づいておらなんだか…」と信長は大いに呆れて言った。 舟遊びを終えて、最後に幻影が船を降りると、大崎悟道と松山楓が血相を変えて走り寄ってきた。 「小狸は放っておいて構わん」と幻影が言うと、楓が大いに反応して笑い転げた。 「新たに建立する本能寺ですが、あとふた月ほどかかるようですが、  期日までには住まうことは可能です」 悟道がマジメ腐った顔をして言うと、「気持ち悪いほど想いのままだね」と幻影は機嫌よく言った。 「ことが終わったあと、木下様がどんな話をでっちあげるのか楽しみだよ」 幻影は言ってにやりと笑った。 その木下秀吉はすでに備中高松城を包囲していたが、まんじりとして動かない。 まさに籠城戦で、手の出しようがないのだ。 「…真田幻影をこの手にしていれば…」 秀吉は毎日のように歯ぎしりに余念がなかった。 幻影たちは日々を穏やかに過ごしていたが、修行やものづくりに余念がなかった。 そして幻影は半年間使い込んだこの地下室を見まわした。 「…今日で見納めか…」とつぶやいて苦笑いを浮かべた。 この先、このようにして整えられた施設での製造は、しばらくの間はできないからだ。 そしてこの地下室がなくなってしまうことを寂しく思った。 幻影は入念に仕掛けをしてから、部屋を出る前に頭を下げた。 「…火の神よ、我にさらなる力を…」とつぶやいてから、大荷物を大八車に乗せて外に出た。 「旅行旅行!」と竹千代は大いに喜んでいる。 「…今日からずっと旅の空、なんだがな…」と信長は言って苦笑いを浮かべた。 「だったら毎日うれしい!」という竹千代の言葉に、信長も濃姫も大いに眉を下げていた。 宿泊所である本能寺に出向く前に、船を引いている豪華な戦車は京の御所に滑り込んだ。 門番たちはもう何度も見ていたのだが、信長の権力を大いに思い知っていた。 そしてその後ろに繋がれている、祇園祭の山車にしか見えない船を見て呆れていた。 さらには引手がわずか三人しかいないのに、猛然たる速度で入城してきたので、その力にも恐れ入っていた。 しかしそれはかじ取りだけで、中心の動力源は、車内にいる蘭丸が踏んでいる装置だ。 よって外にいた三人はほぼ警備員のようなものだ。 信長と濃姫の後を幻影と蘭丸が守るように立ち、案内のままゆっくりと奥の座を目指す。 帝である大君後陽成は、信長の所持する装備品をすべて知っていて、大いにうらやまし気に見入っている。 特に芸術品ような幻影に目が釘付けになっている。 そして隣にいる蘭丸の長太刀にも目が行って、この警護人ふたりを大いに畏れた。 「京に来たついでに来てやった」 上洛が目的で来たのだが。信長のぞんざいな言葉にも、「…来てくれてありがと…」と帝は言って小さくなっていた。 「しかし力のない其方が、このようないい暮らしをしておる。  この国にはお前のようなものはもういらぬのだがな」 信長の言葉に、誰もが大いに反応したのだが、さすがに警護人が怖かったようで誰も動けなかった。 「だがもうよい。  ワシは新世界に行くことに決めた。  お前のそのしみったれた面を見るのも今日限りだ」 信長は言いたいことを言ってから踵を返して、大いに笑いながら謁見を終えた。 「…悪態をつきに来ただけだったのね…」と濃姫が嘆くように言うと、幻影と蘭丸は愉快そうに笑った。 一行は本能寺に到着して、夜になるのを待った。 その間に、この寺の僧侶などは全員新しい本能寺に移動してもらっている。 「出立します」と幻影が言うと、「さあ、新世界へと旅立とう!」と信長は機嫌よく言って、ほんの十名ほどのお付きとともに、地下道を歩き始めた。 「あー… 燃えてるなぁー…」と信長は双眼鏡を目に当てて言った。 旅の第一日目の仮住まいは、店名を石川屋から法源院屋に改めた屋敷の中庭だ。 ここに戦車を入れ込んでいて、この戦車か船が寝台となる。 「あとは斥侯たちがきちんと噂話を広げればいいだけだ」と信長が言うと、「…わし、悪者なんだがな…」と光秀が眉を下げて言った。 「次は秀吉が禿て、うつけ禿猿となるだけだ!」と信長は愉快そうに言ったが、光秀は薄くなった頭をなでて苦笑いを浮かべていた。 今日から数日間はここで暮らして、情報収集を終えた後に出立することは決まっていた。 信長暗殺によって起こりうる小競り合い見物に出かけるのだ。 よって忍びたちはかなりの重労働になるが、もちろん休日を与えて、その代わりを幻影と名前を弥助から源弁慶に改めたふたりで諜報作業に従事する。 しかし幻影たちはもうすでに法源院屋を中心にして諜報活動を開始していた。 そして戦車と戦艦の見た目を変えることも忘れていない。 都合上、法源寺屋の持ち物ということになる。 数日ののち、秀吉が姫路に帰着したといううわさが流れた。 「小さな城を落とすのにひと月もかかりおって、のろまが」と信長が悪態をついた。 しかしここから秀吉は愕然とした。 織田軍も明智軍も忽然と消えてしまったのだ。 信長も光秀も本能寺にいたことは確認できたいたし、宿泊所の本能寺も焼け落ちていたのだが、だれひとりとして遺体がなかったのだ。 織田軍五十、光秀軍三千という大人数がいなくなっていた。 さらには安土城も坂本城ももぬけの殻となっていた。 秀吉はわけがわからず、大いに苦悩して本当に禿てしまった。 しかしいないのならと思い、大ぶろしきを敷いて、様々な話をでっちあげた。 もちろん、起ってもいない山崎の戦いまでもだ。 さらには光秀は農民に殺されたとしたことには、さすがの光秀も怒っていたが、信長は大いに笑った。 この事実を知ったあと、安土城から火が出て落ちたという知らせが入った。 このようにして、信長も光秀も表舞台から消えたのだった。 だがその中でひとつの事件が起こっていた。 後始末は幻影が手を下したので、大事には至らなかった。 「家康が打たれた?!」と信長が素っ頓狂な顔をして叫んでから、大いに笑った。 「堺で遊んだ帰り道だったそうで。  先日城で面会した農民の家康でした」 幻影の報告に、「…のろまめ…」と信長は言って鼻で笑った。 秀吉の手のものが少人数の家康一行と鉢合わせして、何を勘違いしたのか明智の残党だと思い、斬って捨てたようだ。 その斬って捨てた方を幻影が始末したのだ。 「数日後には駿府からの報告があることでしょう。  何なら明日にでも様子を聞きますか?」 幻影の言葉に、「ここの暮らしも飽きたから、そろそろ出る」と信長が言うと、「御意」と幻影は答えて、鳩の足につけた小さな筒に書を入れ込んで飛ばした。 「今回も影を立てるでしょう。  これは決まっていることですから」 幻影の言葉に、信長はつまらなさそうな顔をしてうなづいただけだ。 「竹千代様の方が大人しく遊ばれておられます」 幻影の言葉に、「うー…」と信長はうなってから、「…あいわかった…」と言って寝返りを打って、幻影に背中を向けた。 翌朝、二羽の鳩が飛んできて、一通は変動なしだったのだが、もう一通は家康は健在という内容だった。 「さあさあ、ついに旅立ちの時だ!」と信長は大いに元気になって、幻影の手作りの朝餉をもりもりと食べた。 そして移動中の戦車の中でも、大きな子供と小さな子供が大いにはしゃいでいた。 現在は京から北東方面に一直線に越前に向かっている。 「どうやら越前は後回しのようですね。  木下はまずは伊勢に向かうようですが、まだまだ先でしょう」 幻影の言葉に、「よきにはからえ!」と信長は上機嫌で言った。 「ま、お市の顔でも拝みに行くか」と信長は言って笑みを浮かべた。 今回の件で、信長は様々な手を打って、越前の柴田勝家に後家であるお市の方を嫁げるように準備をしていたのだ。 しかし大問題は、浅井長政との三人の子にある。 この子たちがこの先どういう運命をたどるのかが、信長にとって大問題に発展するのだ。 その他の親族たちも半数ほどは表舞台から姿を消した。 そして消えたと確信できた者を殺害されていたり謀反人として倒したことにしてふれまわった。 「おや?」と幻影が言って右手を上げると、鳩が飛んできて止まった。 「やあ、お疲れ」と幻影は言って、足の筒から書簡を出して、名を北条政江に戻したお菊に鳩を渡すと、長春とふたりしてかわいがり始め、水を飲ませ餌を与え始めた。 「十日後に清洲城で織田家の後継と領地配分を決めるそうです」 幻影の言葉に、「結果はあとで知ればよい。その場にいると飛び出したくなるからな!」と信長が言って大いに笑うと、幻影も愉快そうに笑った。 現在戦車は、琵琶湖北西部の高島と敦賀の中間点の丹波の国にいて、街道の上り下りももろともせず進んでいる。 「そろそろ私の別荘に到着します。  管理人はおりますし、用心の必要はございません」 幻影の言葉に、「あら、うれしいわぁー…」と真っ先に濃姫が喜んだ。 「ちなみに偽のお名前を決めていただきたく」 幻影の言葉に、織田家の三人が相談を始めた。 武家にとって、生涯に名乗る名前は星の数ほどある場合があるので、この程度は当然のことなのだ。 ちなみに、名乗る名の候補としては、印象に残った土地や歴史上の人物の名を使うことが多い。 よって、信長はそれほど考えずに、姓を琵琶と決めた。 そして信長は信影、濃姫は菖蒲、長春はそのまま名乗ることにした。 「信影様、そろそろ到着いたします」と幻影は言って、細い山道に入ったが、ゆっくりと戦車は停止した。 「…隠れ里のようじゃ…」と信長は言って、後ろを振り返ったが、道がなくなっているように見えた。 「本来の入り口はさらに北にあって、ここまで至るのに四苦八苦でしょう」と幻影は言って、階段を組み立てて信長たちを外に誘った。 「幻影様!!」と若い男性が走ってやってきた。 「思いのほか時間がかかった!」と幻影は機嫌よく叫んだ。 「…む! 忍びか?!」と信長が叫ぶと、男性は大いに戸惑ったが、「甲斐藤十郎と申します」と自己紹介をして頭を下げた。 「…ああ、素晴らしい大自然…  …あら、温泉かしら…」 濃姫はもう自由人になっていた。 「はい。  唯一の自慢は温泉でございます。  ご用意した甲斐があったというものです」 織田家の三人はつつがなく挨拶を交わしたが、「真田蘭子ですぅー…」と蘭丸が自己紹介をしたので、幻影は大いに笑った。 「お蘭は名を変える必要あるの?」と幻影が眉を下げて言うと、蘭丸は大いにホホを膨らませて少女っぽい仕草をして、幻影を大いに笑わせた。 「それ、それほどかわいくないぞ」と幻影が言って長太刀に指をさすと、蘭丸はすぐに背中に隠したが、長い柄が頭の上に見えているので、とんでもない長太刀だということは一目瞭然だ。 「…ああ、途轍もない逸品だ…」と藤十郎は大いに感動して言った。 「…もちろん飾りじゃなく、きちんと振れるから…」と幻影が小声で伝えると、「…ああ、素晴らしい…」と藤十郎は長太刀の柄を見入って恍惚とした表情をしていた。 「お蘭に授けた時、子供返りしたからね」と幻影が少し笑いながら言うと、「幻影様が打たれたのですか?!」と藤十郎が叫ぶと、「土産話はあとあと」と幻影が言うと、藤十郎はすぐさま信長に頭を下げて、「お部屋にご案内いたします!」と叫んで、信長たちを先導した。 部屋は見事な造りで、城の部屋と何のそん色もなく豪華だった。 「我が城に戻ってきたようだわ…」と濃姫は感慨深げに笑みを浮かべて言って、室内を見渡した。 「謝礼はいかほど」と信長が言うと、幻影が懐から金塊を出しかけたが、「信影様がお支払いください」と幻影が言った。 「そうしよう」と信長は言って、懐から金塊を出して藤十郎に手渡した。 「…なんと…」と藤十郎は目を見開いて、金塊を見入った。 「あ、当座の資金」と言って幻影が金塊を渡すと、「…お、重い…」と藤十郎がうなると、誰もが大いに陽気に笑った。 「色々と協力してもらうこともあるから」 「粗相のないようにいたします」と藤十郎は言って頭を下げた。 「まさか、ひとりで管理されておるのか?」と信長が興味を持って聞くと、「妹とふたりで従事させていただいております」と藤十郎は答えて頭を下げた。 「…む! 妹!」と蘭丸とお静が同時に言って、幻影をにらんだ。 「俺の師匠は側室も多いし、子だくさんだからなぁー…」と幻影が言うと、信長は大いに笑い、女性たちのホホは大いに膨らんでいた。 「主人の手下もこの里を使わせてもらうかもしれないから」と幻影は言って、忍び用の割符を藤十郎に手渡した。 「忍びであれば常識ですね」と藤十郎は機嫌よく言って、割符の表裏を確認してから懐に忍ばせた。 「この先、忍びの出番は多いから。  藤十郎さんにも本当に手伝ってもらうことになるかもしれないから」 「お声掛け、お待ちしております」と藤十郎は笑みを浮かべて言って、茶の準備をしてから部屋を出た。 「…見事だ…  いや、幻影の目も含めてだ」 信長の誉め言葉に、「ありがたき幸せ」と幻影は答えて頭を下げた。 「…入れ替えるか…」と信長が言い始めたので、幻影は大いに眉を下げていた。 幻影たちは茶をすすりながら、「清州の会議の結果次第で、様々なことが起ると推定されますので、これは決まってから考えることにします」という幻影の言葉に、「それでよい」と信長はすぐに答えた。 「さらに、ここからだと、朝鮮国には目と鼻の先」 幻影のこの言葉にはさすがの信長も目を見開いた。 「今回は少し戦って、予言だけをして帰る手もあります。  船中泊で、一泊二日で問題ないでしょう」 「…さすがに、少々時間をくれ…」と信長は半笑い気味に言ってから、大いに考え込み始めた。 「…つ… ついに…  幻武丸の出番が来たぁー…」 蘭丸はつぶやいてから、幻武丸の鞘を握りしめて、大いに気合を入れた。 「ああ、化け物扱いさ」と幻影が言うと、「決して化け物ではない!」と蘭丸は大いに声を荒げてから腕組みをしてそっぽを向いた。 「石柱の門でも切り落としておけば十分に化け物さ」と幻影が言うと、信長がすぐさま幻影を見入って、「…行ったのか…」とつぶやいた。 「いえ、長崎、長門などで書簡を閲覧したのです。  あの地はどのようなことでもよくわかりますので」 幻影の言葉に、信長は納得して何度もうなづいた。 「あちらの言葉も少々勉強して、  預言書だけは作りました」 幻影は言って、腰の鞄から書箱を出して、書を広げた。 信長はそれを読んで、「二国語で書いてあるのでわかりやすい」と信長は言って少し笑った。 「朝鮮国ではなく、さらに大国の明でも構いません」 幻影の言葉に、誰もが目を見開いた。 そして幻影はこの近隣の国の地図を広げると、「…日の国、ちっさぁーいぃー…」と長春が嘆いた。 「うん、小さいね」と幻影はすぐに肯定した。 「まずは足掛かりでよい…」と信長は大いに眉を下げて言った。 「もっとも大昔は友好関係や諍いなど、行き来がありましたからね。  ですがあちらさんの国の状態がよろしくないようです。  大国になればなるほど、争いも絶えないのでしょう。  それを統一するにはかなり苦労しそうです」 「ワシが死ぬるまでに、その大業を完成させる!」 信長が言い切ると、幻影はすぐさま頭を下げた。 「あら、勇ましい」と濃姫は笑みを浮かべて言った。 「支配しないのであれば、比較的楽です」 幻影の言葉に、「その通り!」と信長は機嫌よく言った。 「縛ろうとするから反抗する。  よって、猿のようなヤツが大勢生まれるのだ。  ただの雇われ侍が、相手の都合がいいように戦って勝てばいいだけだ。  それが終われば、また旅をすればよい」 「その小手調べが、俺たちがこれからしようとしていることだ」 幻影の言葉に、蘭丸たちはすぐさま頭を下げた。 「まずは秀吉が天下を取るだろう。  だがあわよくば、生き返りの家康が覆すかもしれん。  一番いいのは、家康が天下を取ること。  長い時間をかけて、松平家康に功績を上げさせて、  全ての大名を脅すことなく和平に導く。  その仕上げが秀吉討伐。  年齢的に言えば、秀吉亡き後に簡単に天下を取るだけだろう。  その大前提が、家康の生き返りのはずだから」 「時間がかかることだが、それをやってのけそうだ。  そして松平も武士にあらず。  ワシたちは横から出て、楽しんでおくだけでよさそうじゃ」 信長の言葉に、幻影はすぐさま頭を下げた。 未来の話はこれくらいにして、今はここを温泉宿としてすべてを楽しもうと、特に濃姫が率先して女子たちを連れ出した。 「…お濃も変わったもんじゃ…  いや…  幼少の頃の胡蝶のようじゃ…」 信長は感慨深げに言って笑みを浮かべた。 ここは男同士の裸の付き合いとして、全員で温泉向かった。 この当時の温泉の場合、男女の仕切りなどを構えていないことが普通だが、大いに金をかけて整備されていて、一部を除いて男女の仕切りはある。 特に初心な男子たちにとってはありがたいことだった。 「…ふむ… 男湯はこうなっておったか…」と蘭丸が素っ裸で堂々と男湯に乱入してきた。 「…おまえ、襲われても文句は言えんぞ…」と幻影があきれ返って言うと、「…望むところだぁー…」と蘭丸は大いに自己主張をして、幻影を抱きしめられる位置にまで堂々とやって来た。 すると縄が飛んできて、蘭丸を縛り付けて引きずられていった。 「お静はなかなかのものだ」と幻影は大いに感心して言うと、「なにをするかっ!!」と蘭丸は大いに荒れていた。 幻影と信長以外は大いに恥ずかしかったようで、蘭丸を見ないようにしていたようだ。 「野生児となったか!」と信長は大いに喜んで大いに笑った。 だが、落ち着かなくなった男子たちはそれほど堪能することなく早々に温泉を出てから、ここも整備された広大な庭の腰掛に座ったり寝転んで景色を楽しんだ。 「冷たいものでもいかがでしょう」と仲居のような女子が恥ずかしそうにして言って、ちゃぶ台などに幻影特製の急須を並べた。 金属製の急須には、中に入っている飲料の名前が書かれてある。 「…あ… 私、信楽お京でございますぅー…」と自己紹介すると、「あれ? 藤十郎さんの妹さんじゃないの?」と幻影が間髪入れずに聞いた。 「…あー…」とお京は言って幻影から視線を外してから、「…兄のような… 下僕のような…」とお京が答えると、「…随分と極端な関係だね…」と幻影は眉を下げて言った。 お京は弁慶を見て、「…まだ、こちらの御仁のようなお姿の幻影様の時にお見掛けいたしましたぁー…」と言って、視線を幻影に戻した。 「…ああ、ひと月ほど前までは頻繁に信楽の里に行ったからね。  見かけて当然だよ」 「…焼き物の窯元は仮の姿…」とお京が言うと、誰もが大いにうなづいた。 「だけど、主はいるんじゃないの?  …あ、いなくなったから隠れていたか…」 「…はい…  ですので、ここぞとばかりに出張ってまいりました…」 お京は言って頭を下げると、幻影は割符を手渡した。 お京は大いに感動して、割符の裏表を確認してから袂に仕舞い込んだ。 「…うかつものではない…  藤十郎もお京も合格じゃ…」 信長が大いに褒めたが、「いえ、うかつものですよ…」と幻影が眉を下げて言うと、お京は大いに目を見開いた。 「湯呑」と幻影が言った途端、お京は消えた。 「…うぬ、よい試験じゃ…」と信長は満足そうに言って何度もうなづいた。 「…となると、真田十眷属の誰か…」と幻影がつぶやくと、「さもありなん」と信長は機嫌よく言った。 「じゃが、斥候からは未知との者の接触は聞いておらん。  相手が一枚上手か…」 「藤十郎さんは噛ませ犬のようなものですね。  もっとも、疑う余地は何もないのでここを任せたのです。  彼とは信楽ではなく、坂本城管轄の今津で出会ったのです。  私と同じように、もの拾いをしていて、意気投合したので、  ここを任せることにしたのです」 「…それがエサか…」と信長は言って何度もうなづいた。 「正体はそのうちわかるでしょう。  藤十郎さんは真実を述べているようですが、  お京は偽名でしょう。  下手をすると、真田と名乗るかもしれませんね。  お師様に子は多いので」 「…確か、女子は多かったはず…  …どこも同じようなものじゃが…」 信長は思い出しながらつぶやいた。 「至る所に嫁に出しています。  昔ながらの方法ですが、  あれほどとなると、お師様自身が忘れているかも…」 幻影の言葉に、信長は膝を打って大いに笑った。 「信玄のヤツの娘も多い。  幻影と同じようにして育てられたやつかもしれん」 信長の言葉に、「御意」と幻影は答えて頭を下げた。 すると大いに油断している女子たちがやって来て、「砕け過ぎじゃ」と信長に一括喰らうと、お静以外は大いに慌てていた。 「どうか、何なりとお申し付けくださいませ…」と大いに赤面しているお京が言って、湯飲みが入っている籠を持ってきた。 「いや、構わぬ。  手酌でやるから下がってもよい」 信長の無碍な言葉に、「…そんなぁー…」とお京は大いに嘆いて幻影を見たが、頭を下げてから後ろ髪惹かれる思いで、今度は静々と母屋に消えた。 お京はもういないのだが、幻影はお京の足跡をたどるように母屋を見入っていて、「…ふむ… 今の細かい足技は、なにか意味があるのか…」と幻影は言って、紙と筆を出して、思い出しながら右足の動きと左足の動きを点で表現した。 そして幻影は少し目を見開いてから笑みに変え、「暗号です、さるとび」と言うと、「試してきおったか」と信長は鼻で笑った。 すると母屋から、「ギヤァ―――ッ!!!」と断末魔のような声が聞こえてすぐに、幻影の手に小さな鼠が現れた。 「おっ! 役に立つ鼠だ!」と信長が愉快そうに言うと、光秀は禿げ上がった頭を撫でまわしていた。 「お京は不合格ですね」と幻影が言うと、「かわいいのにぃー…」と長春が眉を下げて言って、幻影からネズミを奪った。 「長春様の手下のひとりです」と幻影が言うと、「よくぞここまで育ててくれた」と信長は言って頭を下げた。 「はっ ありがたき幸せ」と幻影は答えて頭を下げ返した。 すると藤十郎が母屋から出て来て、「お騒がせいたしました!」と大声で叫んですぐにやって来て、「いるはずのない鼠が」と言ってすぐに長春を見た。 「飼ってるの」と長春が笑みを浮かべて言うと、「…さ… 左様でございましたか…」と藤十郎は大いに焦っていた。 「…主より説明させますので…」と藤十郎は言って頭を下げて母屋に消えた。 するとまだ動悸が止まらないのか、胸を押さえつけたお京と一歩下がって藤十郎がやってきた。 間髪入れずに幻影が紙を見せると、「…悔しいですわ…」とお京は言って、いきなり覚めたような顔をして幻影をにらみつけた。 「お京さんはどう考えても迂闊です。  お師様に指導されませんでしたか?」 幻影の少し厳しい言葉に、「…みんな騙されるのにぃー…」とお京はそっぽを向いて答えた。 「あんたはいらないから消えていいよ」 「それだけはっ!!」とお京は大いに慌てて言って頭を下げまくった。 「だったら全ての真実を述べよ。  ひとつでも嘘があれば、お前をつぶす!!」 幻影の本気の言葉に、お京は腰砕けになって地面に座り込んだ。 藤十郎は大いに戸惑ったが、ここは言葉を発せられなかった。 「お師様が汚れる必要はございません」と幻影よりも厳しい顔をした弁慶がしゃがんでお京をにらみつけた。 「我がお師様がそなた程度の者にたぶらかされるわけがなかろう」 言うが早いか、お京の右腕がなくなっていた。 お京はゆっくりと右腕を見て、「腕! 腕がぁ―――っ!!」と叫んでなくなってしまった右腕を左腕で押さえつけて泣きわめいた。 「迂闊者です」と弁慶が苦笑いを浮かべて言うと、「…いや、見事じゃ…」と信長は大いに感心して言った。 藤十郎はさらに動揺して頭を抱え込むようにしていたが、ふと冷静になった。 まるきり出血がないことに目を見開いていた。 「腕を外して縛り付けただけです」と弁慶が種明かしすると、「…何と平和な… だか、誰もが大いに騙される…」と藤十郎はつぶやいてから、弁慶に頭を下げた。 「ほら、顔色が変わった。  聞く耳はまだ復活していないようだ」 幻影の言葉に、誰もが震えて泣いているお京を見入った。 「幻術の場合は中毒になって、正確に聞きだせないこともあるからね。  手足四本とも同じようにして達磨にすれば、  うわごとのように真実を語るだろう」 藤十郎は言いたいことが山ほどあるのだが、忠誠を誓った身としては何も言えなかった。 まさか我が主が、このような無様な目に合うとは思ってもいなかったのだ。 「とんだ粗相をしてしまいました」と母屋の勝手口に初老の者がいて頭を下げた。 「佐田与助さんですね?」と幻影が初見の男を名指しで言うと、「はっ! お見それいたしました!」と叫んでから、瞬時にお京に寄り添った。 「猿飛佐助、佐田与助」と幻影が言うと、「なるほどのぉー…」と信長は大いに感心して言った。 「お師様に暇を仰せつかったそうで。  ですが私に話したということは会って来いとおっしゃったはずですから。  その技の全てを手に入れたいと思います」 幻影が与助から視線を外さずに頭を下げると、「…私は何も勝っておりませぬ…」と与助は正座をして、深々と頭を下げた。 幻影がお京を見て、「私が教育すると精神崩壊すると思いますので、再教育するか消してください」というと、「…消した方が楽ですなぁー…」と与助は頭を上げて言ってお京の縛りを解いて、外れている腕を入れた。 その衝撃とともにお京は目を覚まして、「…腕、生えた…」とつぶやくと、幻影たちは大いに笑った。 「お察しの通り、信玄公の忘れ形見ですが、  お姫様気質が抜けませぬ」 与助が大いに呆れて言うと、「こちらにも約一名おりますので」と幻影が言うと、「…誰のことかしらぁー…」と自覚している濃姫が言って、素晴らしい景色に笑みを向けた。 「我が諜報部隊の割符は藤十郎さんとお姫さんに渡してあります」と幻影が与助に言うと、間髪入れずにお京のたもとを探って割符を出してから、表裏を確認して懐に仕舞い込んだ。 「そこまではまともだったのですけどね」と幻影が言うと、「…この程度で満足しおったか…」と与助はうなだれて嘆いた。 「本来ならば与助さんにも同行していただきたかったのですが、  無理は言いません。  ですが、藤十郎さんと同じほど使える方を紹介してくださいませんか?  さらに鍛え上げながら旅を続けますので」 幻影の言葉に、「…うらやましく思ってしまいます…」と与助は大いに嘆いて、幻影を見てから弁慶を見て、そして源次を見た。 「…志の違いでこれほどまでにも違うものなのか…」と与助は大いに嘆いた。 「我ら兄弟は長い間地獄を見ていたからです。  お姫さんはそうではないと思いますが?」 「…生い立ちの違いか…」と与助はまた嘆いて首を横に振った。 「…それほどの地獄はございませんでした…」と政江は言って、弁慶と源次を見た。 「…俺はそこそこ辛かったと思う…」と弁慶は大いに眉を下げて言った。 「楽になったのはお師様に出会ったこの一年と半年だよ…」と源次も眉を下げて政江に言った。 「…私もお姫さんだったわ…」と政江は言ってから、くすくすと愉快そうに笑った。 「…性格の違いもおありになるようだ…」と与助は言って、政江を脅威に思っていた。 「…うふふ… 大人たちは猿飛佐助討伐の命も言い渡していたわ…」と政江が言うと、与助は大いに背筋を震わせた。 「…どこぞの姫でございますかぁー…」と与助が大いに嘆いて幻影を見ると、「…一条の上の方角…」と幻影がつぶやくと、与助はすぐに察して、「…恐ろしいことじゃ…」とつぶやいた。 「ひどいことしないもん!」と政江が大いに憤慨して叫ぶと、「怒るでない」と信長は機嫌よく言って、政江の頭をなでると、政江はすぐに笑みを浮かべて、「褒めてもらったよ?」と機嫌よく長春に報告した。 「…ご挨拶が遅れましたが…」と与助は言って信長を怪訝そうな顔をして見入った。 「ワシから話しても真実味がないわぁ!」と信長が機嫌よく叫ぶと、「私は主を代えてはおりません」と幻影が謎かけのように言うと、「…やはり、生きておられたか…」と与助は言って信長に頭を下げた。 「探索されているわけでも、追われているわけでもない。  自由の身となって、旅を楽しんでおるだけじゃ」 信長の言葉に、「…本当におうらやましい…」と与助は言って眉を下げた。 そして与助は楓を見入って、「なぜ、この子がここに…」と与助は大いに嘆いた。 「まだそこまで仲良くないから事情は聴いてないよ。  だけど、その太刀筋は父親と同じだから」 幻影が気さくに答えると、「…もう、父を超えているものと…」と与助は正しく楓を見破っていた。 もちろん目立つ印はあって、腰に長さが同等の太刀を二本差しているからだ。 「父よりも力は強いから」と幻影が言うと、「…もう、手合わせされておったか…」と与助は大いに嘆いていた。 「父ちゃんの方は発展途上だけど、この先はどうかなぁー…  芽が出るのはまだまだ先かなぁー…」 幻影の言葉に、「その通りだと…」と与助はすぐに同意した。 藤十郎の代わりの件はすぐに決められないので、試しとして藤十郎を幻影に託すことに決めて、与助はこの里に残ることになった。 その一部始終を書に認めて、幻影は鳩を飛ばした。 「…多彩でございますなぁー…」と与助が感心して言うと、「日の国をほぼ巡って来ましたから」幻影の言葉に、「…修行としては必要なことだ…」と与助は自分に言い聞かせるように言った。 「問題ないと思いまずが、もう一名監視につけます」と幻影が言うと、長春が慌てて鼠を懐に入れた。 「ん?」と与助が言った途端、『ギャア!』と一声鳴いて、鷹が高い木の上に止まった。 「…おー… 見事じゃぁー…」と信長は空を見上げて上機嫌に言った。 「長春様、もう食べないから…」と幻影が眉を下げて言うと、「ほんとにぃー?」と長春は大いにいぶかし気に聞いた。 幻影は、半生の肉を空高く投げ飛ばすと、鷹は場所を移動することなくくちばしで受け取って、翼を何度も広げて食べ始めた。 「狩り遊びはするけどね」と幻影が言うと、長春は泣き出しそうな顔をして、しっかりと懐を抱きしめた。 「まあ… あいつを呼んだ場合、ほかの鳥は使い物にならないけどな…」 幻影の言葉に、誰もが大いに眉を下げていた。 「…空の猛獣…」と与助は鷹を見上げながらつぶやいた。 そして鷹が下りて来て井戸端に止まると、「おつかれ」と弁慶が言って、桶に井戸水を汲んで手桶に汲んだ。 『ギャアギャア』と鷹は声を上げてから、のどを潤し始めた。 「…来ちゃったぁー…」と長春が大いに嘆くと、「出てきたぞ」と幻影は言って手のひらの上に鼠を乗せていた。 「…私じゃ不安なのぉー?」と長春が大いに嘆くと、「主が怯えていては手下だって戸惑うさ」という幻影の言葉に、「…そうだぁー…」と長春は言って、鼠を手に取ってから笑みを浮かべて頬ずりをした。 「猿についてる手下が解せんな…」と信長が鼻で笑って言うと、「御屋形様以上に甘く残酷なのでしょうね」と幻影はなんでもないことのように言った。 「そういった者たちの中に、優秀な自由の剣士がいると察します」 「…よきにはからえ…」と信長は小声で言ってにやりと笑った。 「ところで、与助さんは最近お師様にお会いになられましたか?」 幻影が聞くと、「三月ほど前に面会いたしました」と与助はすぐに答えた。 「…穏やかでしたが…  家康を斬るつもりでしかないように感じました…」 「…そうですか… 本当に残念です…  都合がつけば、お師様に面会をしようと思っています。  もちろん、顔を見せに行くだけで、  説得などはしません。  お師様は、本物の武人だと思っていますので」 幻影の言葉に、与助は涙を流して頭を下げた。 「無理やり赤を脱がせろ」という信長の言葉に、「効果があるように思いました」と幻影は言って笑みを浮かべた。 「ですが、風林火山の精神で、隙あらば、家康に突っ込むでしょう。  ですので、何も語らない方が、お師様にとって幸せだと思っています。  復讐心をもって、めらめらと武人の魂を燃やしているはずですので。  その領域にいない私が余計なことを言っては、  お師様の邪魔になるだけですので」 幻影の穏やかな言葉に、信長も与助も何度もうなづいた。 翌々日に幻影たちは癒えた体を奮い立たせて、桃源郷のようだった隠れ里を後にした。 ここからはほんの数刻で越前に入る。 だがこの先は、山賊の出没地帯でもある。 豪華な車が走っていれば、山賊が勢い勇んでやってくることは目に見えているので、幻影たちは広範囲の警備をしながら戦車を進めた。 しかしその速度は馬以上なので、追いつかれることはない。 戦車の中で、蘭丸、政江、長春は分担して辺りを警戒している。 幻影はすでにさらに前方に向かって移動して、安全確認を行っている。 「あっ!」と東方を監視していた長春が声を上げると、誰もがその位置を確認した。 「土煙か…  遠いが、ここを目指しているようだな」 信長が落ち着き払って言うと、「…どのような武勇伝が…」と濃姫は言って大いに期待していた。 「…今度こそ、出番、来たぁー…」と蘭丸は大いにうなって、幻武丸を固く握りしめた。 「あっ! あっ!」と長春が何かを見つけたようだが、その土煙を迎え撃つような土煙が上がっていた。 「お蘭、残念だったな」と信長が言うと、「弁慶! 止めやがれぇ―――っ!」とお蘭が大いに騒ぎ始めた。 戦車は速度を弱めて、漕ぎ手が源次に代わって弁慶が戦車を飛び出していった。 「…むっ! 弱まったとはいえ、この速度で飛び出すとはあっぱれ!」と信長は大いに褒めた。 みっつになった土煙はひとつになってすぐに、少し大きめの砂煙になって、戦車に向かってきている。 その砂煙はついに止まって、幻影と弁慶の顔が見え、二十人ほどの浪人のような者たちを、連結した木に結わえ付けていて街道に昇ってきた。 幻影は船の台車の後部に木を縛り付け、「源次! 行け!」と叫ぶと、戦車はゆっくりと速度を上げて行った。 「…盗賊を捕まえただけで終わりなのね…」と濃姫がかなり残念そうに言ってうなだれた。 「相手は武士のようだが格違いだ」と信長は自慢げに言った。 ほどなく戦車は敦賀に入り、幻影は番屋に盗賊一味を連れて行くと、手配書が出ていたようでたいそう喜ばれた。 そして幻影が出没した位置を子細に伝えると、早速討伐部隊が出張って行った。 捕まえたのはほんの一部だったようで、全てを捕らえるいい機会となったようだ。 「…だけどあんたらの装備、すげえなぁー…  どれもこれも見たことがない…」 番屋の役人は極たちの服装や戦車や船を大いに観察している。 「物騒な場所も多いからね。  家族の旅も楽じゃないさ」 幻影の言葉はまさにその通りなので、役人は礼を言って幻影たちを開放した。 戦車をここまで持ってきたことには理由があり、迎え入れてもらえる屋敷があるからだ。 今回も商人で、芦原屋という、この辺り一帯を牛耳ている大店だ。 幻影たちは店主に速やかに招き入れられて、店主は再会に感動していた。 「娘が茶の準備をしていますから!」と店主の芦原徳善が勢い勇んで言うと、「…また女かぁー…」と蘭丸が大いにうなった。 「…あー…」と長春が何かを察して声を上げると、「何か知っているのか?」と信長が聞いた。 「…大きな、熊の歯形?」と長春が答えると、「…さもありなん…」と信長は言って少し笑った。 幻影が野外用の机や椅子を準備していると、「幻影様!」と満面の笑みを浮かべた女性を先頭にして、店の女中たちがわんさかとやってきた。 中心にいる女性は芦原雅代で、まるで城の姫のように着飾っている。 「やあ、お雅ちゃん!  元気そうでよかった!」 幻影の言葉に、「…本当に、死ぬ思いでしたわ…」と雅代は当時のことを思い出して身震いをした。 「家出なんかするからだ」と幻影は言って、雅代の頭を平手で軽く叩いた。 「…幻影、何者だぁー… 俺は幻影に裸を見られたんだがなぁー…」 蘭丸の言葉に、「おまえが見せに来たんだろ… しかも男湯に乱入してきやがって…」と幻影がうなると、「お前しか見えていなかった!」と蘭丸が吼えると、「俺の悪友」と幻影は雅代に簡単に蘭丸の紹介をした。 「…ああ…」と雅代は様々な想いをもって少し嘆いた。 中でも一番の想いは、やはり幻影は現実世界に住んでいる者ではないという想いだ。 それは蘭丸が持っている、長太刀だけにあった。 大店になると、侍のこともよくわかっている。 一般的な刀の五本分ほどある長さのものは、誰も持っていない。 幻影の戦った後の笑みは、熊に噛まれることくらい平気だったということが今よくわかっていた。 しかしここは気丈になって、率先して幻影の家族の接待をした。 「…私って、雅代さんとだぶっちゃうわ…」とお静が眉を下げて言うと、「…彼女では武器は扱えない…」と光秀がさも当然のように言った。 「…なんでこいつを助けたんだぁー…」と蘭丸は大いにうなって雅代を見た。 「助けたつもりなんてないさ。  襲い掛かられたから防衛しただけ」 幻影がすぐさま答えると、「…うう…」と蘭丸と雅代がすぐさまうなった。 「あいつ、なかなか面白かったぜ。  よっし! 熊鍋!  と思った瞬間に、急に大人しくなりやがった。  どうやら食われることを理解したようなんだ。  自分自身も動物を襲って食うからな。  その気持ちがわかったんじゃあねえの?  雅代さんは通りすがりの木こりに託して、  俺と熊はそこからひと山超えて新天地に行ったら、  大いにはしゃいで木の実を食ってた」 幻影の話に、「…動物を食えなくなったのかもな…」と信長が言うと、「はい、そう感じました」と幻影は笑みを浮かべて言った。 「…結果的には助けたことになるが、火の粉を払っただけ…」と蘭丸が言うと、雅代は大いにうなだれた。 「木こりはどんな顔してた?」と信長が聞くと、「慣れたものなのか、眉を下げていただけでした」と幻影は答えてから、雅代を見た。 もちろん、幻影が体験していないことを話してもらおうと思っただけだ。 「…木こりの源兵衛さん、そちらの鎧が欲しいって…  熊のことはそれほど怖がってはいませんでした。  でも、二回ほど襲われたらしいんだけど、  どちらも熊鍋にしたそうですぅー…」 雅代の話に、それほど笑える話ではないが、誰もがかなりの勢いで笑った。 「野生の中で生きて行ける人間と、  食事になってしまう人間がいる。  お嬢さんは食われる側の人間だ」 信長の言葉は重かった。 まさに、住む世界が違うといったからだ。 雅代はようやく幻影への思いを吹っ切れたと感じたが、幻影の家族には女子供も多い。 よって雅代は、長春と政江を見た。 「政江は実力で猛獣を拘束できる。  長春は動物に助けてもらえる」 幻影の言葉に、「えっ?」と雅代はつぶやいて幻影を見入った。 「この中で抗えないのは、今のところ奥様だけだ」 幻影が種明かしすると、「…抗えるように頑張りますぅー…」と濃姫は大いに眉を下げて言った。 「じゃが、それなりに逞しいからな。  抵抗程度はできるだろう」 信長が弁護すると、「…猛獣除け作ってぇー…」と濃姫が幻影に懇願の目を向けた。 「そうですね、人間にでも使えますし、  効果的な何かを考え」 幻影はここまで言って、鼻を動かした。 「この辺りに花火工房があるようですね?」と雅代に聞くと、「…あ、はい… ここから少し離れた山の方です」と雅代は言ってその方向に指をさした。 「爆薬系の修行をします」と幻影が言って信長に頭を下げると、「見物がてら行くぞ」と少し陽気に答えると、誰もが、―― …物見遊山… ―― と考えて笑みになった。 「本来ならこの時期だともう店じまいらしいんですけど、  急に三カ所ほど追加で花火大会をすることになって、  いつも以上に忙しくなったそうです…  この辺りは夏でも雨が少なくて比較的乾燥しているので、  助かったって言っていました」 雅代が語ると、「今の話だけでも大いに勉強になったな」と幻影が長春を見て言うと、「うん!」と長春は機嫌よく答えた。 「…あ… 婚礼の式で花火でも上げるのか…」と信長がつぶやくと、「この地のお殿様が婚姻されるって聞いたんだけど?」と幻影が雅代に聞くと、「あ、はい」と雅代は驚くことなく答えた。 「その件で、こちらの店も少々大忙しで…  それに、手に入らない」 雅代が言ってすぐに、女性たちの髪飾りを見入った。 雅代は立ち上がって、ふらふらと濃姫に近づくと、濃姫は気を利かせて髪止めを手に取った。 「素晴らしいでしょ?」と濃姫が自慢するように言うと、「…ああ、この作品であれば…」と雅代は言って、すぐに父親の徳善を大声で呼んだ。 「なんだなんだ、騒がしい…」と徳善は言ってやって来てから信長に頭を下げて、濃姫に頭を下げかけて固まった。 「…そちら、くださいぃー…」と徳善がつぶやくと、「あげないわよ!」と叫んですぐに髪に刺した。 「…幻影…」と信長がつぶやくと、「はい、こちらです」と幻影は言って長い木箱を差し出した。 「お市様の涼やかなイメージを鑑みて、  竜胆と月を模して作らせていただきました」 信長は、「…ワシに似て冷酷だといえ…」とつぶやいてから何度もうなづいて箱を開けた。 「うむ、これでよい」と信長は言ってすぐさまふたを閉めて、「確認せよ」と言って、木箱を徳善に手渡した。 「…月竜胆髪留…」と徳善は箱書きを呼んですぐに裏返し、「…作 琵琶高願…」とつぶやくと、幻影は恥ずかしそうにして頭をかいた。 「こちらの桐箱も、かなり立派ですし、  書がまさに素晴らしい…  お聞きしたことがない銘ですが、  琵琶様とご関係が…」 徳善が信長に聞くと、「この幻影の作品じゃ!」と胸を張って答えた。 徳善は言葉を失って幻影を見たが、思い出したように木箱をあけて、すぐに閉めた。 「…ああ、娘に託したいと思ってしまいました…」と徳善は言ってうなだれた。 「こちらに逗留するお礼として、  賃金ではなく品として収めても構いません」 幻影は言って、様々な絵を徳善に見せた。 「…作品もそうですが、絵も素晴らしい…」と徳善は言って目を見開いたまま、髪留めなどの絵を見入った。 「…ああ、こちら、かわいい…」と雅代は言って、桜を模した絵に指をさした。 「…こちらの髪留めと交換で、いつでもいらしていただいて構いません。  未来永劫代わることなく…」 徳善の言葉に、「あいわかった」と信長は答えて幻影を見ると、「こちらに作業場を作ってもよろしいでしょうか?」と幻影が徳善に聞いた。 ここからは幻影と徳善が細かい話をして、南側の壁に近い場所に小屋を建てることにした。 「納屋にしていただいて構いませんから」と幻影が言うと、「いえ、また何かをお願いするかもしれませんので」と徳善は言って、幻影を召し抱えるつもり満々で言った。 小屋を建てる材料はすぐさま徳善が手配して、幻影と弁慶たちだけで簡単に小屋が出来上がった。 「…なんと、手慣れておる…」と徳善は言って、戦車と船を見上げて笑みを浮かべた。 「…あ、そうですね。  このままでもいいのですが…」 幻影は言って、小屋に色付けを始めると、「…ああ、この小屋が宝物だ…」と徳善は言って地面に座って拝んでから小屋を見つめた。 そして、『高願庵』の看板を掲げると、「…命が宿りました…」と徳善はつぶやいて笑みを浮かべた。 ここからは徳善の接待を受けて、この庭で食事をしてから、雅代の案内で花火工房に案内してもらった。 「…ああ、物見遊山…」と濃姫が感慨深く言って、辺りをつぶさに見まわしている。 もちろん、腹ごしらえを終えた鷹も空から監視の目を光らせていた。 何事もなく工房に到着して、工房の親方と気さくに挨拶を交わして、その作業工程の一部始終を見学した。 全てを見終えてから、幻影はかなりの勢いで書を認め、親方に確認してもらうと、「…相違ございません…」と驚きの目を冊子と幻影に向けた。 「…家宝にしたいぃー…」と親方が言うと、「もう一冊描きますので収めてください」と幻影が言うと、親方は小躍りして協力は惜しまないと言った。 幻影、弁慶、源次は工員に早変わりして、全ての作業をひと通り行い、改良点などを話し合って、新しい冊子を書き上げた。 「…種類が倍増した…  …早速今夜、試し打ちをいたします…」 親方の言葉に、「…花火見物まで…」と濃姫は大いに高揚感を上げていた。 その前に、仕打ち場に移動して、火を使わない爆薬のための仕打ちを行うと、「…うう、なぜ爆発したんだ…」と親方は大いに嘆いたが、「これが欲しかったのですよ」と幻影が機嫌よく言って、重厚な箱に大きめの癇癪玉を丁寧に収めた。 「…敵陣に思いっきり投げ込んで爆発させる…  砲台は幻影たち…  素早く動ける砲台以上に、怖いものはないな…」 信長が苦笑いを浮かべて言うと、「花火の方がいいよ?」と長春が小首をかしげてかわいらしい仕草で言った。 徳善の屋敷に戻って少々早いが幻影の手作りの食事を堪能し始めると、ご相伴に預かっていた徳善は大いに喜び、雅代は大いにうなだれた。 「…刻み物は俺が担当したんだぁー…」と蘭丸が大いに自慢すると、「そうだ、刻み物もその大きさが重要だ」と幻影は笑みを浮かべて蘭丸に言った。 「よっし!」と蘭丸は言って体を奮い立たせてから拳を握った。 「そういえば…  ただただ細かく刻んでいるわけではないな…  この指示も幻影か?」 信長が聞くと、「うふふ… これは私…」と政江が自慢げに言うと、「はは、そうかそうか」と信長は笑みを浮かべて言って、政江の頭をなでた。 「普段のお料理もこのように豪華なのですよ」と濃姫が大いに自慢すると、「そろそろお前もやれ」と信長に窘められた。 「うまい食事は、心を穏やかにする。  それがどこであってもだ」 信長の言葉に、誰もが笑みを浮かべて信長を見入った。 近場にある温泉に入ってから、信長一行は花火工房に足を延ばした。 仕打ちとはいえ本格的で、一般的な花火大会と何の遜色もない。 安全のためなのか筒は小さいものなのだが、空に咲いた花はその美しさにそん色はない。 ちなみに打ち上げ花火は幻影の知識にはあったが、実際に興行として扱っている場所はここしかないはずだ。 よって驚いたのは町人たちで、思わぬ花火大会に誰も足を止めて見入っていた。 真夏なので、夕涼みに丁度良かった。 もちろん、番屋にも願い出て許可はとっていたし、仕打ち場で花火を上げるのはいつものことだった。 しかし大量に上げると迷惑をかける場合もあるので申請しておいただけだ。 「…今までで、一番すごかったぁー…」と長春は大いに感動してつぶやいた。 もちろん、誰もがその想いで一杯だった。 この翌日、全てを察していたのか北ノ庄城主の柴田勝家が徳善を城に呼びつけた。 徳善はすべてを正確に話して、「市が喜ぶものまでもうできたのか…」と勝家は目を見開いて言った。 「こちらとはまた別でございますが」と徳善は言って、大きな袱紗を出して、幻影の作品を並べた。 「…む…」と勝家はうなって、素晴らしい作品を堪能した。 「こちらはお見せするだけのものでお売りできません。  商いには重要なことですので。  ご用命いただいてお造りすることにしております」 「…おう… 心得た…」と勝家はすぐに答えた。 そして箱書きを見て、「この琵琶高願に興味がある」と勝家が言うと、「さすがお目が高くあらせられる」と徳善は機嫌よく言った。 「召し抱えればひと財産生んでしまうわぁー!!」と勝家が上機嫌で叫ぶと、「私などよりも裕福に暮らし、ご家族とともに旅をされておられるのです」という徳善の言葉に、「…そなたよりも…」と勝家は声を落として言ってからうなだれた。 どれほどの殿様よりも威厳があると感じて、召し抱えるのは無理と察したようだ。 しかし、興味が消えることはなく、勝家が高願に会いに行くと言い始めたが、ここは家老たち高官が止めた。 まずは穏やかに話し合って、登城してもらうようにと使者を送った。 その使者は、鎧をまとって人相がわからない幻影を怪訝に思ったが、その手先は確かで、徳善から依頼を受けた品を次々に作り上げた。 「このままの私でよろしのであれば、  殿にお会いいたそう」 幻影は何と信長の声色を使って言うと、使者たちは歓迎して、ひとまずは城に戻った。 そしてすぐさまその使者がやって来て、幻影と源次のふたりが使者について登城した。 早速勝家と面会すると、「…何と勇ましい…」と勝家は大いにうなって、鎧姿の幻影を見入った。 「少々ご気分を悪くされるものと思いまして。  旅をしていると、災いにも見舞われます」 幻影の信長に似た言葉に、勝家が大いに目を見開いた。 「…い、いや… 興味がある…  決して好奇の目で見ることはない…  兜を取ってはくれぬか…」 勝家は震えていた。 今、目の前に信長がいるのではないかと思ってしまったのだ。 しかし兜を取ると、ほとんど顔の形を保っていない者がいて、「もうよろしいか?」と信長の声で聞いた。 「…あ、ああ… 痛ましい…」と勝家は大いに嘆いてから、兜をつけるように言った。 その存在感と察する年齢、しかも大男なので信長ではないと思ったが、かなりの威厳は感じていた。 「まだ幼少の身なれど逞しいな」と勝家は少し下がって座っている源次に顔を向け、「…ん? どこぞで会ったか…」と言って考え始めた。 「はい!  お武家様方にはよく聞かれてしまいますが、  私にはよくわからないのです!」 源次が子供らしく言うと、「…おお、そうか… 迷惑をかけたな…」と勝家は言って頭を下げてから、市への謙譲の品について話を始め、その絵を見せると、「…これほどの結納品はない…」と大いに感動して、今回の謁見は無事に終わった。 「婚礼の義には、ご家族ともども招待いたしたいのだ。  どうだ、受けてはくれぬか?」 勝家の申し出に、「はっ ありがたくお受けいたします」と幻影はすぐさま答えると、勝家は上機嫌になった。 早速創作活動に戻ると言うと、「邪魔をしてしまった」と勝家は言って頭を下げて幻影を開放した。 幻影は屋敷に戻ってから、信長に一部始終を話すと、「…その変装、怖いからとって…」と長春に言われてしまったので、幻影は仮面をはいだ。 「…ああ、幻影様、男前ぇー…」と長春が言うと、女性が大集合して幻影の顔だけを見入り始めた。 「なるほどな、ワシもこれをかぶるか」と信長が陽気に言うと、「別人になれるものをご用意いたします」と幻影は言って頭を下げた。 「あとは、お濃とお蘭と長春…  光秀親子も、だな…  まさに仮面家族…」 信長の言葉には誰も笑えなかった。 「俺を、さらに美人にしてくれ!」と蘭丸が勢い勇んで言うと、「これこれ」と言って政江がその仮面をかぶると、「男ではないかっ!!」と大いに憤慨して叫んだ。 「…いや… 口調と顔が一致しておるな…」と信長は大いに感心して言った。 「規格外の女傑ですから。  この程度でちょうどいいと思います」 幻影が答えると、「…よくねえぇー…」と蘭丸は大いにうなった。 「ふん、赤子を後継に選んだか」と信長は大いに憤慨した。 清洲城会議での結果を鳩が運んできたのだ。 「まるきり驚くことがなく順当でした」という幻影の言葉に、信長は顔をしかめてうなづいた。 織田家の行く末を考えていない秀吉らの思惑はもう見えていたのだ。 しかし、さすがに領地のこととなると厳密で、これもほぼ予想通りだった。 「婚儀からしばらく置いて信長様の葬儀を市様が執り行うそうですが、  参列されますか?」 幻影が大いにふざけて言うと、「その場にいれば、生き返ったとでも言って驚かせてやる!」と信長は答えて大声で笑った。 幻影はもう一通の書を手に取って、「木下が伊勢進軍の準備を始めました」と報告すると、「なんだか楽しいな…」と信長は機嫌よく言った。 「市様のご婚儀の後に出立しても、こちらの方が先に到着できるでしょう。  歴史の動きの確認に参りましょう。  そのついでにやることもございます」 幻影の言葉に、信長はこの素晴らしい庭を見渡して、「庶民を助け、こういった場所を手に入れる」と言うと、「御意」と幻影はすぐさま答えた。 「この戦乱の世のうちに、  信長様が全ての覇者となられることはもう決まっているのです」 幻影の力強い言葉に、「いい家族をもった」と信長が穏やかに言うと、その家族たちは笑みを浮かべて、信長と幻影を見つめていた。 勝家とお市の祝言は滞りなく終了したのだが、感受性の強いお市が終始幻影たちを意識していた。 さらには具合が悪くなったということで、羽柴と姓を代えた秀吉が中座したまま京に帰った。 幻影たちは何の行動も起こしていなかったのだが、まさに琵琶一家を大いに畏れていたのだ。 信長たちは、「よい休養となった」とだけ徳善に告げて、越前を後にして一直線に岐阜を目指した。 もちろん忍者の隠れ里が多いこの地を訪れる目的があってのことだ。 「…柳生宗玄…」と幻影が書を読みながら言うと、「松平… いや、徳川家の指南役じゃ」と信長が鼻で笑って言った。 「まだ子供のようですが、その孫の男子の柳生金光がかなりの実力者だと。  書には、私を彷彿とさせるとあります」 「あやつらは今の幻影を見ておらん」と信長が機嫌よく言うと、幻影は頭をかきながら頭を下げた。 「さあ! 飯だ飯!」と信長が陽気に叫ぶと、源次と政江が手早く配膳した。 「むむ… 今日の料理長は弁慶か…」と信長はうなったが、幻影が作ったものと寸分変わらなかったことに、豪華な料理を瞬時で平らげた。 「この近隣の山菜はまさに宝です」という弁慶の朗らかな言葉に、「全ての代わりをもて!」と信長は上機嫌で言いつけた。 「この辺りに隠れ里を…」と幻影はこの近隣を調べ上げた地図を見入りながらつぶやいている。 「…なんか、きたぁー…」と長春が怯えているのか喜んでいるのかわからない感情で暗い森を見入っている。 「…まさか、俺たちについてくるとは…」と幻影は言って大いに苦笑いを浮かべて立ち上がると、その姿が見えたのだが、幻影は腹を抱えて笑った。 「…困ってるぅー…」と長春が言うと、「ああ、ついてきたのはいいが困ってるな…」と幻影は言って、目の前にいる熊を見入った。 しかもこれ以上ないと言われる巨体の羆より一回り小さい、超獰猛な月の輪熊だ。 「とんでもないものに惚れられたもんじゃ!」と信長が腹から声を出すと、熊は背筋を震わせていた。 「…里の守りとして雇うか…」と幻影はため息交じりに言った。 そして信長が小さな書を幻影に渡すと、幻影はすぐさま書を鳩の足に仕込んで飛ばした。 「いってらっしゃーい!」と長春と政江が朗らかに言って鳩を見上げて手を振った。 幻影は熊に近づいてから軽く頭を叩くと、『クー…』と熊が小さな鳴き声を上げた。 「食うものも飲むものも困らんからな」と幻影は言って、その隆起した背中の肉に触れると、熊は大いに嫌がった。 「…食わねえから…」と幻影が眉を下げて言うと、「…肉の状態を確認されたとでも思ったか…」と信長は言って大いに眉を下げていた。 さっそく長春と政江が幻影が指示した餌と水を与えて熊と遊び始めたが、ふたりとも熊を寝台にして眠ってしまった。 「…手慣れたもんだな…」と信長は眉を下げて嘆いた。 猛獣ではないが、中型犬と野良猫などを配下にしていたので、そういった意味では手慣れたものだった。 犬はさすがに熊は怖いようだが吠えることはなかった。 やはり主が落ち着いていることで、その手下も落ち着いていた。 その点猫は自由で、お気に入りの政江の胸の上で眠っている。 「はっ!」と長春が叫んで目を覚まして、辺りを見回してから、両腕で熊を抱きしめて、「寝ちゃってた!」と明るく言った。 すると熊は大きな舌で長春を嘗め回った。 「…味見…」と幻影が言うと、「違うよ?」と長春は小首をかしげて穏やかに答えた。 「…食べられないことがわかって、安心したのです…」と政江が目をこすりながら起きて言って、大あくびをひとつした。 「…亭主になる者には見せられないな…」と幻影が眉を下げて言うと、「気にしないお方を婿にとりますから」と政江は機嫌よく言った。 幻影が弁慶と源次を見ると、ふたりは同時に手のひらを素早く横に振った。 「優秀な弟子ふたりが拒否した」という幻影の言葉に、「兄弟ですもの… そうですよね、お兄様、源次…」と政江が畏れを垂れ流しながら言うと、ふたりは大いに苦笑いを浮かべてうなづいた。 しかし、「…魅力ねえぇー…」と弁慶が小声で言うと、それをかき消すように幻影が大声で笑った。 人間としては魅力があるが、女としては魅力がないと言っただけだ。 「お兄様!」と政江が大いに怒ったが、まずは熊が怯えていたので、「あんたに言ったんじゃないのよ?」と政江は優しく言って熊を抱きしめた。 「おまえは今日から猛獣姫と名乗れ…」と幻影が眉を下げて言うと、「…ふたつ名はそれでよろしいですわ…」と政江は機嫌よく答えた。 「…熊吉、ふわふわぁー…」と長春が熊を抱きしめて言うと、「熊に熊という名をつけてやるなよ…」と源次は言って大いに眉を下げた。 「…えー… だったら、幻影様がつけてぇー…」と長春が大いに甘えて言った。 「俺がつけるとお堅い名になるぞ?」 「それでもいいぃー…」 長春の言葉を聞いて、「巖剛」と幻影は言って素早く書を認めた。 「…強い名じゃ…」と信長は言って、書を手に取って、「伜は今日から巖剛じゃ!」と書を掲げて言うと、熊は大いに背筋を伸ばして誇らしげな顔をした。 「名は大事じゃ」と信長が長春に言うと、「…幼名熊吉ぃー…」と言うと、誰もが大いに笑った。 「おっ! ここがよくわかったもんじゃ」と信長は機嫌よく言うと、忍びがふたり地に足をつけたのはいいが、すぐさま木陰に隠れた。 「仲間に怯えるでない」と信長が言うと、忍びたちはすぐさま信長の足元に座って頭を下げた。 「人選は任せる。  この近隣に里を設ける。  その番人がこの巖剛じゃ」 信長が熊を指指さして言うと、「はっ 心得た」と忍びは返事をしてすぐさま消えた。 「…一番性根が座った人が来そうですね…」と幻影が眉を下げて言うと、「里長候補じゃからな」と信長は機嫌よく言った。 この日は様々な仕掛けを施して、幻影が納得できる里の外観を作り上げた。 翌日は早速一番近い柳生の里を訪れることにした。 戦車と船は里に置いてきたので、今日は徒歩での移動だ。 もちろん、盗難防止の仕掛けも施したので、全く心配はなかった。 こういった日常的な移動も、大いに鍛錬となる。 ほどなく柳生の里にたどり着き、幻影が門番に見学を申し出たが、もちろん簡単に断られた。 幻影は目ざとくここにいる者の中で一番強い者を見つけた。 その者は右目に眼帯をしていた。 「柳生金光! 目を治してやろう!」と幻影が叫ぶと、眼帯をした者がすぐさま幻影を見た。 「…怪我ではなく、病か…」と少し変装した信長がつぶやくと、「今なら間に合うかもしれません」と幻影は自信を持って行った。 「…敵をあえて強くするか…」 「…味方になれば心強いです…」 信長も幻影も同時ににやりと笑った。 金光は大いに憤慨した様子で幻影たちの前に立ち、「治らぬと聞いた!」と苦情があるように叫んだ。 「騙されたと思って施術を受けた方がお得だぞ」と幻影が気さくに言うと、金光は幻影たち家族を見まわした。 そして、我が力が及ばないと察したようで肩を落とした。 「特に変わったことはしない。  血行の流れを良くして、  老廃物を早急に外に出して、  治癒を高めるだけだが、  すぐに目をあけられるようになるから、  結果はすぐに判断できる」 幻影の今度は力強い言葉に、金光は眼帯を外した。 「あ、軽症軽症」と幻影は言って、右手のひらをその目に近づけた。 「…あ、熱い…」と金光が言うと、「手のひらでしかないぞ」と幻影が言うと、金光は少年らしい笑みを浮かべた。 「政江、清潔な布と酒」と幻影が指示を与えると、政江はすぐに鞄をあさって出した。 「触れないが、今度はちと痛いから、覚悟を決めろ」 幻影の言葉に、金光は大いに戸惑って、「…立ったままで…」とつぶやくと、「寝るとな、さらに痛いぞ」と幻影は言った。 「…なぜ俺の時は寝かせたんだ…」と信長が大いに苦言を言うと、「父ちゃんの場合、部位が違ったからだよ」と幻影はすぐさま答えた。 「問題は血流にある。  立ったままだとな、  それほど血液が幹部に流れ込まない。  ていのいい止血にもなるんだ。  もっとも、出血はしないけど、  膿などが涙腺から出てくるから痛いんだよ。  源次、軽く体を支えておいてくれ」 幻影の言葉に、源次はすぐさま従った。 「…うう、こやつ…」と金光は言って空いている目だけで源次を見た。 「あんたよりも年下だが逞しいだろ?」と幻影が自慢げに言うと、「…うう…」と金光はうなったが、幻影の言葉を認めていた。 「君とほぼ同い年が弁慶だ」と源次が言うと、大人の肉体の弁慶が一歩前に出た。 「…ああ…」と金光が嘆いた瞬間に、「はぁ―――あっ!!」と幻影が大いなる力を発揮したとたんに、涙腺から体液が噴出してきた。 「気を抜いて瞬時にか… 恐ろしいヤツ…」と信長はつぶやいてにやりと笑った。 もっとも信長もこの手に引っかかったが、ほとんど痛みを伴わずに済んでいた。 確かに痛みはあったが、頭や目の重さが消えていて、金光は笑みを浮かべた。 幻影は金光の顔を拭いて消毒をしてから、「目を開けてみろ」と言うと、「…視力が戻っている…」と金光が笑みを浮かべて言って目を開いた。 「あとは、しばらく大人しくしていろ。  そしてうまいものを食うことを修行にしろ。  十日後から、大いに鍛えればいい」 幻影は言って、清潔な当て布をして、眼帯を消毒してから金光を開放した。 「隻眼だとな、いいことはほとんどない。  だが、大いに修行を積んだ後の隻眼は、  眼で相手を追わなくなるから、それも大いなる修行になるはずだ。  相手の殺気をよく知ることができるものだからな。  よって究極は…」 極は両眼を閉じでゆっくりと歩きだした。 「両眼を閉じてふらつかなければまずは合格だろう」と言ってから、素早く振り返った。 幻影に背後から数名が足音を忍ばせてやってきていたからだ。 「やってもいいが、命の保証はしない」と幻影が言うと、数名はすぐさま引いた。 「はぁあっ!!」と幻影が叫ぶと、近くにいる者たちは一斉にしりもちをついた。 「…なんて、気合いだ…」と金光は言って、喜びに体を震わせた。 幻影は目を開いて、「戦わずして勝った」という陽気な言葉に、金光はすぐさま頭を下げた。 「ここは大したことがないからほかに行くよ」と幻影は言って金光の頭をなでて歩き始めた。 「待って! 待ってください!」と金光が慌てて言うと、「悪いが弟子はもうとらない」という幻影の無碍な言葉に、金光はすぐさまうなだれた。 「いまだ戦乱の世だ。  次は戦場で会うことになるかもな。  その日を楽しみにしている」 幻影の重厚な言葉に、金光は金縛りにあったように動けなかった。 「坊主、いい修行になったな」と信長が言ったが、金光は何も言えなかった。 幻影たちの姿が見えなくなってようやく、体の拘束を解かれてその場に座り込んだ。 ―― 大人たちなんて子供でしかない… ―― と金光は思って、あれほどの猛者が少人数で旅をすることがおかしいと思ったが、もう考えないことに決めた。 ―― 戦乱の覇者に興味がない… ―― と金光なりの答えを導きだした。 「駿府に子細な書を出せ!  今すぐにだ!」 大人たちは大いに慌てていたが、金光は心穏やかだった。 そして、―― お師様に再び会うために! ―― と心に刻んで、厨房に飛び飛んで、食べられるものを夢中になって食べた。 幻影たちはこの日は隠れ里で過ごして、住居などの建築作業に勤しんだ。 「まあ… 小さいけど御殿…」と濃姫は大いに喜んだ。 「お濃、お前も手伝え」と信長が言うと、「…手を出しかねます…」と濃姫は眉を下げて言った。 「この辺りの掃除でもいいんだよ」とさらに言うと、濃姫は箒と塵取りを手に取って、掃除を始めた。 この日のうちに様々な情報が舞い込んできて、幻影は御殿の一室で腕組みをして考え込んだ。 ―― 柳生以外に収穫なし… ―― まずはこの報告に苦笑いを浮かべていた。 よって、仲間の補填はこれ以上は不可能として、腹をくくった。 しかし幻影のように、武士であり忍びでもある者を育てることは可能だ。 だが荷物が大きく重いので、あと二名ほどの補充が欲しいところだ。 ―― どこかに荷を託す必要がある… ―― しかしこの近隣だとその伝がない。 しかし最新の情報で、尾張に法源院屋が店を出すという。 よってすぐさま幻影は京の法源院屋に書を出した。 その翌日に快い返事を受け取って、幻影は胸の支えが降りていた。 もちろんその見返りがあって、信右衛門は芦原屋の情報をもうつかんでいたのだ。 よって名古屋にも工房を建てて、商売に役立つように協力することに決まった。 「…天下を取るのは、やはり商人だ…」と信長は言って苦笑いを浮かべた。 幻影は未だ少女の長春と政江相手に、装飾品の会議を始めた。 濃姫とお静は喜んで仲間に加わったが、蘭丸は面白くないらしい。 「ほら、これなんてお前に似合うぞ」と幻影が新種の紙留めを蘭丸に手渡すと、「額当てじゃねえか!」と叫んで大いに怒ったのだが、幸せそうに鏡を見始めた。 「額ではなく少し上か…」と蘭丸は機嫌よく言って、鏡に笑みを向けた。 「ああ、よく似合っている」という幻影の言葉に、「…結納の品…」と勝手に言って喜んだ。 「髪を結わないのは、お前と巫女さんくらいだからな」という幻影の言葉に、「…今度は巫女に手を出すかぁー…」と蘭丸は大いにうなってから、自分自身の姿を見て、「…俺が巫女…」と言って大いに照れていた。 「どんどん面白くなっていくやつだ」と信長は機嫌よく言った。 幻影たちは一気に南下して、伊勢の国に入り、戦の準備が整っている滝川一益の軍を見入っていた。 「…ここに躍り出るか…」と信長は穏やかに言ったが、武者震いで体を震わせた。 「出ますが端の方ばかりです」と幻影は言って、大雑把に今後の予定を説明した。 「…一騎打ちになるように仕向ける、か…」 「本来の実力がよくわかりますから。  討っても倒れても納得できるはずです。  もっとも戦の場合、ほとんどが運ですけど」 幻影の少し投げやりな言葉に、信長は鼻で笑った。 「…戦場に出られるのに、斬れねえとは…」と蘭丸は大いに嘆いた。 「人は斬らずに太刀を切れ」 幻影の厳しい言葉に、「…はい、あなたぁー…」と蘭丸は大いに照れて答えた。 「ま、恨まれることはなかろう、こっちが幽霊なんだし」と信長は機嫌よく言った。 「…戦場に出るとは思いませんでしたぁー…」と濃姫は大いに尻込みを始めていた。 「秀吉軍側には、巖剛でも出すか…」と予想される陣形地図を見ながら幻影が言った。 「伏兵を配備できなくなる… いい手だ」と信長は上機嫌で言った。 「もしこの森に攻め込んできても、私たちが追い出しますので」 幻影の言葉に、信長は納得して何度もうなづいて、「真っ向勝負をしてもらおうか!」と機嫌よく叫んだ。 この五日後、ついに滝川軍と羽柴軍の戦いが始まった。
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