赤い幻影

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   赤い幻影 akaigenei ~立志編~      赤化物 akakemono 幻影が蘭丸と打ち合わせを始めた時、偶然にも信長の目の前に、弁慶たち三兄弟だけがいた。 信長はほとんど考えることなく、「幻影は怖いか?」と口に出していた。 この言葉に一番に反応したのが政江だったが、信長はまずは弁慶に顔を向けた。 「出会ってから今日まで、怖いと思ったことは一度もございません」と弁慶はいつもの調子でごく普通に言ってから眉を下げた。 信長は、―― わしが試されていた! ―― と思い少し笑った。 「源次はどうじゃ?」 「いえ、まったく…  優しいお兄ちゃんです」 源次もいつもの調子で明るく言ったのだが、「あ」とつぶやいてから口をふさいだ。 信長はその声は聞こえなかったことにして、「政江は違う意見があるようじゃ」と信長が言うと、政江は一旦は落ち着いていたのだが、一瞬背筋を震わせた。 「弁慶お兄ちゃんと源次がおかしいのです」と政江は今度はホホを膨らませて言った。 「ああそうじゃ。  質問した後に気付いた。  幻影が政江につらく当たることはないだろうが、  きっと何度も肩を落とした姿を見たはずなんじゃ」 政江は目を見開いて、漠然とした不安がこれだったと思い、「…やっと、解決したように思います…」と言ってから頭を下げた。 そして、「お兄ちゃんを怖いと思ったことはありません」と政江は胸を張って言い切った。 「ワシは、質問をしておいて幻影を怖いと思い知った。  ワシが今のワシではなくなると、  確実にあいつに斬り捨てられるだろう」 信長の言葉に、弁慶と源次は目を伏せて頭を垂れただけだが、政江は笑みを浮かべて頭を下げた。 「…政江は嬉しそうだな…」と信長が苦笑いを浮かべて言うと、「お兄ちゃんたちが我慢してるだけですぅー」と言いつけた。 信長は何度もうなづいて弁慶に顔を向けた。 「幻影も、ワシが言った質問をしたよな?」 信長が確信して聞くと、「お城に上がるようになってすぐことでした」と弁慶は堂々と言った。 「その時もお菊ちゃん、すっごく怖がったんだよ?」と源次が気さくに言いつけると、信長は大いに笑った。 「…怖かったもぉーん…」と政江は言って信長を上目づかいで見た。 「その恐怖心は様々な事情もあるのだろうが、  一番の理由は野望だと思う」 信長の言葉に、「…お勉強の時間に散々教え込まれましたぁー…」と政江はつぶやいてげんなりとした感情が大いに沸いた。 「その勉強の時間は、  私たちと政江の感情はまるで逆でした。  政江はまさに水を得た魚の様でした」 弁慶の言葉に、「武力と知識… なるほどなぁー…」と信長は言って何度もうなづいた。 「幻影が唯一残念に思っていることはな、  政江がそれほど体力面に優れていないことじゃ。  まあ今は、普通ではないほどに鍛えられているようだがな。  しかしどうしても、真っ先に源次と比べてしまうのだろう。  できれば、姉として体力面も源次よりも勝って欲しいという、  幻影の願いだ」 「お蘭姉ちゃんをいつも褒めてるよ?」と源次が言うと、「そうじゃろうそうじゃろう」と信長は穏やかに言って何度もうなづいた。 「…怪物にはなれないと思いますぅー…」と政江が眉を下げて言うと、信長は愉快そうに笑った。 「だが政江は身体的に一気に成長をする時期じゃ。  政江は瞬く間に、お蘭に近づくかもしれんな」 信長は言って政江の頭をなでた。 「…それほどうれしくありませんけど、  お兄ちゃんが喜んでくれるのなら頑張りますぅー…」 政江は嫌々だが、何とか妥協するように答えた。 「…向上心のある兄弟で、結構結構…」と信長は言ってご満悦の笑みを浮かべた。 「幻影に斬り捨てられんように、  ここでしっかりと働かなくてはな。  今は武人として」 信長の重厚な言葉に、三人は笑みを浮かべて頭を垂れた。 幻影と蘭丸の打ち合わせが終わったようで、幻影はこの先の計画を全員に話した。 「…責任重大ぃー…」と政江が大いに眉を下げて言ってお静を見ると、「一緒にがんばろ?」と言ったお静も政江と同じ顔をしていた。 「…少し前の幻影と同じ組かぁー…」と蘭丸は言って、弁慶をにらみつけた。 蘭丸にとっては弁慶は幻影にしか見えないが、弁慶にとっては大いに迷惑だった。 幻影は特に気にすることなく、「相手を倒すわけではないので、思わぬ事態になりかける前に引いてください」と信長に言うと、「理解した」とすぐさま答えた。 「だが、安全策を取って、馬返しでも敷いておかないか?」と信長が地図の中央にある長い森に指をさすと、「時間はあるので、その方法を考えます」と幻影は言って頭を下げた。 「…ほう… 馬返しを敷くが、何かからくりを仕掛けるのだな…  精神的に動揺するような画期的な策…  そうすればここに来た奴らは大いに慌てて、  この森には拘らんはずだ…  となれば、ワシたちは見張り番か?」 信長が眉を下げて言うと、「提案されたのは御屋形様でございます」と幻影が眉を下げて言うと、「…安全な方がよい…」と言って瞳を閉じて何度もうなづいた。 「そうそう! 安全第一だわ!」と濃姫が明るく言うと、誰もが少し笑った。 「…馬返し、知ってたの?」と信長が大いに眉を下げて幻影に聞くと、「武人で知らない者の方がおかしいですから」と幻影が答えると、信長は腕に力を入れて拳を握って、「よっし!」とひとつ気合を入れた。 材料となる竹は、戦場から少し離れた森にあり、管理者を確認したがいないようなので、大量の竹を伐採して、多数の馬返しを作り上げた。 この時のために縄などは大量に作ってあったので大いに役に立った。 そして幻影がそのからくりの説明をすると、「慌てないでか!」と信長は上機嫌で叫んで大いに笑った。 「そして両軍の背後から、私とお蘭で煽りますから、  横よりも前に集中するはずです。  この森は序盤に伏兵が潜むことだけでしか使えませんので」 「…まあ… この煽り方も恐怖だがな…」と信長が作戦書を見て眉を下げて言った。 「戦場が一気にきれいになります。  あとで農地にでもしてもらいますよ」 「…平和でよい…」と信長は言って瞳を閉じて何度もうなづいた。 よって簡素だが重厚で横長の戦車を二台造り上げて、戦場からかなり離れた安全な森で野宿をすることにした。 濃姫は苦情を述べることなく機嫌がいい。 戦が終われば、幻影の知り合いの大店に出向くことになっているし、野宿でもうまいものは大いに食べられた。 「…今までの戦は何だったのか…」と光秀は言って何度もかぶりを振った。 「一歩引けば、幻影のように考えられるわけだ。  この世の中でまさに天下人は幻影でしかなかろう」 信長は機嫌よく言って、猪口の酒を一気にあおった。 ついに秀吉軍が伊勢に現れ、幻影たちは息を殺して移動を開始した。 案の定、戦場となるほぼ中央の森を目指して偵察隊がやって来た時、『バサバサ!』と大きな音がした途端に馬返しが空を飛んで地面に転がった。 偵察隊は大いに驚き一斉に本陣に戻り、罠があると報告すると、秀吉は大いに頭をかきむしった。 「…ふん、馬鹿な奴め…」と信長は双眼鏡を覗き込んでつぶやいた。 「…ここ、もう終わりのようね…」と濃姫は呆れるように言った。 「何を言うか。  これからが面白いのではないか。  幻影とお蘭の雄姿を見られるんだぞ」 信長の言葉に、濃姫は双眼鏡を出して、「褒めるとお食事がさらにおいしくなりそうだから、しっかりと見とかなきゃ…」と言うと、信長は大いに呆れていた。 「後方から正体不明の大軍です!!」と双方の後続部隊が叫び始めると、どちらの本陣も早急に前進して、その正体を見て愕然とした。 まさに正体不明の鬼人の強さで、一方はこん棒、一方は長太刀を振り回して本陣に迫ってくるのだ。 その姿は戦場では見たことのない、光り輝く鎧を身にまとっていた。 さらにはその背後にもうもうと砂煙が上がり、とんでもない大軍が迫っていると、両陣営ともに大いに慌てた。 だが、深く追ってこないので、大事を取って本陣を前進させる。 「…何だこの戦場は!  どうなっておるのだぁ―――!!」 秀吉も滝川一益も大いに嘆きながらも前進して、団子状態となって本陣同士の戦が始まった。 鬼人が追ってこないことを幸いにして、両軍とも前方だけに集中して力の限り戦い、日が暮れる前に滝川軍が撤退を始めた。 この時にはもう鬼人の姿はなかった。 秀吉は勝ったのだが勝った気はせず、全軍をすぐさま反転させて逃げるようにして大坂に向かわせた。 そして移動しやすいことにすぐに気づいた。 特に土が見える場所は真っ平になっていたのだ。 「…やはり、鬼の仕業なのか…」と秀吉は大いに怯えてつぶやいた。 「伊勢の戦場に鬼が出たと、京で噂になっているそうです」 幻影が書簡を読むと、「見ておったから知っておる」と信長は機嫌よく言って、目の前の海鮮料理を目で食って笑みを浮かべた。 「…ああ、天国…」と濃姫は言って、うまそうな鯛の刺身に舌鼓を打った。 伊勢では大店の二見屋で世話になることになった。 ここは元武家の者と忍びの者がいて、ある意味秘密基地のようなものだ。 もちろん、幻影は何度も顔を出していて、主とは大いに懇意になっていた。 だが戦車と船を見て、「金持ちになったんだなぁー…」とすっかり商人になってしまった元武将の家老だった刀川作馬が嘆くように言った。 「せっかく伊勢にまで来たので、  水遊びでも楽しもうと思って」 幻影が気さくに言うと、「…なんだかこれが海を進むと、誰もが寄ってきそうだ…」と言って、船底に手のひらで振れた。 「海賊でもいるのなら、退治しますよ」 幻影の言葉は冗談に聞こえなかったのか、「…実は、幽霊船の話があるんだよ…」と作馬が神妙な声で言った。 「だが、実害はない」 幻影の言葉に、作馬は静かにうなづいた。 「それがな、一番いい漁場」と作馬は言ってすぐにハタと気づいた。 「…その漁場に近づかせないためか…」と作馬は悔しそうに言った。 「機会があればその正体を暴いておきますよ」 「今日用意したものよりもうまいものを出せたかもしれないのに…」と作馬は言って大いにうなだれた。 「いや主よ!  十分にうまいぞ!」 信長の陽気な言葉に、「それはようございました」と作馬は言って、ほっと胸をなでおろして笑みを浮かべた。 「出入りの商人たちに聞いたのだが、  先の戦いで鬼が出たそうだ。  両軍とも煽られるように戦わされたそうでな…  最近では大きな戦が起こらないと思っていたが、  ついにどこぞの神が怒り出したのではないかと、  噂になっているんだ」 作馬が語ると、「それでも、戦はまだまだなくならないだろうね」という幻影の言葉に、「日ノ本の覇者が誰かに決まるまで、終わらないんだろうなぁー…」と作馬は大いに嘆いた。 商人にとって、扱っている品によって売り上げに大いに差が出てしまう。 それを逃さないように、仕入れをする必要があるのだ。 ひとつの戦いが終わって、物の価値が大いに変わっていることがあったりもするのだ。 「そうそう。  ここに来る途中まで、  広大な空き地が整備されているように平らになっていたんだ。  それも、鬼の仕業なのかなぁー…」 幻影がつぶやくように言うと、作馬の目がきらりと光った。 そしてその場所を子細に聞いてから、丁稚に確認に向かわせた。 「…腕利きの商人のようだ…」と信長はつぶやいてから、海鮮料理を大いに堪能した。 食事を終えて一家団欒で今後の予定を陽気に語り合っていると、戦車と戦艦が気になるのか、この店の後継ぎたちが腰を低くして申し訳なさそうにしてやってきた。 しばらくは大人しく鑑賞していたのだが、長春と同じ年頃の男子の春吉が、「…あー…」と言って戦車を見上げている。 その視線は、台車本体ではなく、透明の囲いにあった。 一目見た程度ではこの存在に誰も気づかない。 すると一番の年長者の又兵衛が、「…ギヤマンだろうなぁー… だけど、すごい技術だと思うし、こんな大きなもの見たことない…」と嘆くように言った。 「でも、遠見はギヤマンなんだよね?  お月様に、兎っているのかなぁー…」 春吉はつぶやくように言って笑みを浮かべた。 「遠見なんてどこにも売ってないよ…  それを知っている人の方が珍しいほどだから…」 又兵衛が常識的見解を述べると、「うふふ…」と笑って長春と政江が子供たちのそばにいて、ふたりが大小二種類の遠見を見せると、とくに春吉が目を見開いていて、双眼鏡を見入っている。 「お月様がすっごくよく見えるよ!  だけどね、お天道様は見ちゃダメなの…」 長春の言葉に、子供たちが不思議そうな顔をしたので、長春が今度は虫眼鏡を出して黒い紙を出した。 そして虫眼鏡で太陽光の焦点を合わせると、煙が出たとたん、めらめらと燃え始めたのだ。 「ええ?! え―――っ?!」と子供たちは大いに叫んだ。 政江が目に指をさして、「目がね、つぶれちゃうのぉー…」と言うと、子供たちは一斉に何度もうなづいた。 「…すっごくね、お勉強したのぉー…」と長春が眉を下げて言うと、「先生!」と子供たちは叫んで、ふたりを先生にして崇めた。 寺子屋の先生でも知らないことをたくさん知っていると判断して、戦車や戦艦の透明の囲いの質問をした。 「実はねギヤマンじゃないのぉー…  だけどね、秘密なのぉー…」 長春の言葉に、「…すごいことなんですね…」と又兵衛が残念そうに言った。 「みんながこれを作り始めるとね、  大変なことになっちゃうから…」 ここからは自然破壊の講義を政江がすると、「…先生、よーく理解できました…」と子供たちは言って頭を下げた。 そしてさすが商人の子で、ふたりの髪飾りを見入ると、「これは秘密じゃないの」と言って、戦車の引き出しの奥の金庫から小さな髪飾りなどを出して丁寧に並べた。 「…引き出しがあることに気付かなかったぁー…」と又兵衛が目を見開いて言った。 「すべて、高願お兄様が作ってくださったの。  だからね、お兄様はどなたにもモテモテなの…」 政江の言葉に、「…モテモテになりますよぉー…」と又兵衛が言って笑みを浮かべて雄々しくたくましい幻影を見た。 「ここに工房があれば、お兄様が作ってくださるんだけど…  お宿のお礼にって、作って差し上げた大店もあるの」 「…ああ… 著名な絵描きの方も宿賃の代わりに置いて行かれました…  今ではこの店の家宝のようになっています…」 又兵衛の言葉に、「うふふ…」と長春と政江が意味ありげに笑って、幻影が描いたふたりの顔の厚紙を出すと、「えっ?!」と子供たちは一斉に叫んで、絵とふたりを見入り始めた。 「…すごい… そっくりだぁー… すごい技術だぁー…」と又兵衛は言って、もっと多くのことを知りたくなっていた。 「こらこら、ふたりとも。  俺の仕事を増やさないでくれ」 幻影の言葉に、ふたりはすぐに首をすくめて、絵を懐にしまって、髪飾りを金庫に収めて引き出しを締めて鍵をかけた。 「だけどな、このような技術は俺ひとりで考えたわけじゃないんだ。  この日の国中を旅して、二つ以上の技術を掛け合わせて作り上げたんだよ。  だからね、俺たちのように旅をすると、  様々な新しいものを造り上げることができるんだよ」 又兵衛は、幻影たちについて行きたかったのだが、さすがに言い出す勇気がなかった。 すると又兵衛のたもとを春吉が引っ張って、「兄ちゃんの得意なもの」とつぶやいた。 「…いや、僕は恥ずかしい…」と言って、装飾が素晴らしい戦車と戦艦を見上げた。 「ん? 彫刻が得意なの?」と幻影が興味を持って聞くと、「すっごいお寺の仏像を奉納したんだよ!」と春吉が自慢げに言うと、「それは興味がある」と幻影は言って、見せてもらうように催促をした。 机の上に木像がずらりと並ぶと、「こりゃ誰だって彫ってもらいたくもなるさ」と幻影は言って何度もうなづいているが、細かい部分の指導も欠かさなかった。 そして道具を見せてもらってから幻影は何度もうなづいて、幻影が使い込んでいる木彫用のたくさんの彫刻刀などを又兵衛に贈った。 又兵衛は大いに感動して、何度も頭を下げてから、今すぐに創作活動をしたくなったようで、庭の隅に作業台を持って来て像を彫り始めた。 幻影は戦車から冊子を出して、「参考資料だから兄ちゃんに渡してきな」と気さくに春吉に言って手渡した。 春吉は勢い勇んで又兵衛に向かって飛んで行って冊子を渡すと、事情を聞いてから幻影に頭を下げて、早速描かれている絵の鑑賞を始めた。 「このお店は安泰じゃないのかなぁー…  これは知らなかった…」 幻影は言ってまた仏像などを見入り始めた。 「指導次第では大成するが、  もう指導したし、高級な道具も与えたから大成したも同然だな」 興味を持ってやってきた信長が幻影に言った。 幻影たちは戦艦だけを引っ張って海にやって来て、台車から降ろして戦艦を浅瀬に浮かべていると、漁師たちが大いに興味を持ってやってきた。 幻影はその漁師たちに台車の見張りを頼んで金を差し出すと、漁師たちは大いに遠慮して受け取らずに、まじまじと船と台車の観察を始めた。 話のついでに、「幽霊船について話を聞きたいんだ」と幻影が言うと、この港では長老のような権兵衛が一歩前に出て子細に語った。 「羽振りがよくなった漁師のうわさを聞いてないかい?」 「いえ、それがないのです…  ですので、東の尾張の形原にいる漁師かもしれねえです」 「細かい取り決めはどうなってるの?  それって許されるの?  もしそれが事実なら、正す必要があると思うけど?  だからこその、幽霊船の出没なのかもしれないけどね」 幻影の言葉に、権兵衛はすぐさま賛同した。 幻影は少し遠くを見て、「今の仕事は海女さんだけなんだね」というと、「へえ、船は夜中か早朝に出しますので」と権兵衛は答えた。 「ですが、海女のことをご存じだったようで。  この近隣の者しか知りやしませんから」 「この港には始めてきたけど、別の地にも海女さんはいるからね」 幻影の言葉に、権兵衛は大いに興味を持ち始めた。 しかし幻影が濃姫に急かされたので、幻影は権兵衛に礼を言ってから船はゆっくりと出航した。 まさにお大名の水遊びで、船は悠々と伊勢湾巡りをした。 「おい! 海面に何か罠のようなものがあるぞ!」と監視をしていた蘭丸が叫ぶと、「定置網漁だ」と幻影がなんでもないことのように言うと、「…海には、そういった取り決めもあるんだな…」と蘭丸は言って、今更ながらに大きな浮きを見入った。 「だからこそ、お勉強は大切だ。  だけどな、定置網を禁止している漁師の集まりもあったりするんだ。  もちろんその理由は、こういう遊覧船や商用船にとって危険だから。  楽をして魚などを根こそぎ取ってしまうという理由もある。  だがこの湾にはその取り決めは大いにあると思うから、  この定置網は少々怪しいな…」 「幻影、確認してこい」と信長がにやりと笑うと、「はい、すぐに」と幻影は言って、今回は走るのではなく、ほぼひとり乗りの小船を下ろして、まるで波を切るようにして飛んで行った。 「…あれには乗りたくないわぁー…  まるで拷問のよう…」 濃姫が大いに嘆くと、特に女性たちは賛同してた。 するといけにえを乗せた小舟が戻って来て、「…死ぬると思った…」と権兵衛は言って流れ出ている冷や汗を手ぬぐいで拭った。 「この浮きは、俺らのもんじゃあねえ」と権兵衛は大いに憤慨して言った。 「じゃ、出るところに出てきてもらおうか」と幻影は言って、その管轄部署の港に小舟で飛んで行って、そして役所の船を引っ張って戻ってきた。 役人たちはすぐに帳簿を確認してから、定置網を慎重にほどいて魚などを逃がして、網を回収した。 「…この伊勢の宝を盗もうとしやがってぇー…」と漁師出身の役人たちが大いに悔しがっている。 「夜も警備するべきですよ。  幽霊船の話を知らないのですか?」 役人たちは初耳のようで、権兵衛は大いに眉を下げていた。 「役人を嫌っちゃいけない。  役人は利用しなきゃ」 幻影が権兵衛に言うと、「…へえ… すまんこってす…」と言ってうなだれた。 「…あ、あはは…」と役人たちは大いに空笑いをしていた。 そして誰もが戦艦と小舟に興味が沸いたが、この場は解散することになった。 幻影は権兵衛を港に送ってから戦艦を追いかけていると、長春が幻影に向かって飛んできたので、笑みを浮かべて抱きしめて、ふたりで海面すれすれの絶景を堪能し始めた。 「…ああ、逢引…」と蘭丸がうらやましそうにつぶやくと、「長春様だから大丈夫なのです… あとは政江だけでしょうね」と弁慶が言うと、「…重くて沈んじゃうのね…」と濃姫は眉をひそめて言った。 そして交代のようで、幻影が長春を乱暴に弁慶に投げつけると、今度は政江が幻影に飛びついて行った。 信長たちは陽気な長春の話を聞きながら、この舟遊びを大いに堪能して港に戻った。 港には幻影一行を待ち受けるようにして、顔見知りやそうではない者たちが大勢いた。 まずは幻影たちは船を丘に上げてから、作馬に事情を聞いた。 ひとつは密漁についてで、管轄部署の管理長の役人が頭を下げた。 権兵衛はそれなりに威厳がある漁師のようだが、まさに役人を嫌っていたので面目が立たなかったようだ。 そしてきらびやかな僧侶がいたので、この場はさらに異様な雰囲気だったのだ。 「又兵衛の師匠に挨拶をしたいと言われてね」と作馬が眉を下げて幻影に言うと、「今は何と名乗っておられるのです?」と厳撫僧正が聞いてきた。 「はい、琵琶高願でございます」と幻影は答えて頭を下げた。 「…たまには顔を見せに来いとおっしゃられておった…」と厳撫が小声で言うと、「半年ほど前に行ったんですけどね…」と幻影は大いに眉を下げて答えた。 「…まあ… こうなったのも、高願殿がおってのことだろうけどな…」と厳撫は言って、信長たちに頭を下げた。 「…さすがに、このお話は出来かねますから…」と幻影が言うと、「心、動くやもしれんが、賭けはできぬ…」と厳撫は正しく理解して言った。 「師匠としては尊敬できますが、  人としては好きではありませんので」 幻影の厳しい言葉に、厳撫は何も言わずにうなづいた。 「まさに鬼道に入っておる。  閉じ込められている今だからこそ、  穏やかであるだけだ。  だが武将たちの常識を大いに覆したと感じる」 厳撫が信長を示唆して言うと、「気が合う父です」と幻影は答えて、少し笑った。 「おっと、忘れるところじゃった。  武蔵という若い浪人がやってきた。  信繁に会いに来たようじゃが、  そなたの話も出た」 厳撫の言葉に、「敗者から得ることは多いですから」と幻影がさも当然のように言うと、「そなたがあやつを敗者にしたか…」と言ってから、厳撫は大声で笑った。 「おまえの父に許可を得る」と厳撫は言って信長に向かって歩いて行くと、「久しいの! 厳撫!」と信長が叫んだ。 今は変装中なので、誰もが旧知の仲と思っているだけだ。 するといきなり、「…許すわけなかろうがぁー…」と信長は大いに威厳をもってうなった。 厳撫が怒りに触れてしまったと大いに動揺すると、「全員で行く」と言ってにやりと笑うと、厳撫は全身の力が抜けていた。 「急げば今日中に着くぞ」という信長の言葉に、厳撫は目を見開いたが幻影を見て、「できるのでしょうな…」とため息交じりに言った。 「南の街道は狭いから、船で紀の国の半島を回って紀ノ川を登ればいいから、夜までにはつくだろう」 「…いえ、十分に短縮できますので明日で構いませぬ…」と厳撫は言って頭を下げて、戦艦を見上げた。 「…この、なまぐさ坊主…」と信長は大いに眉をひそめて言うと、「よいではないか、よいではないか」と厳撫は上機嫌で言って、大いに酒を浴びている。 そして出されたものはすべて食す。 まさに卓越したなまぐさ坊主の高僧だ。 「厳撫僧正」と又兵衛が言って、少し離れた場所に木像を置いた。 厳撫は目の色を変えて、「…いい女がおる…」と言って、なまぐさぶりをさらに披露した。 「非の打ち所がない」と幻影が言うと、又兵衛は飛び上がるようにして喜んだ。 「じゃ、免許皆伝だから。  旅に出るのなら一人で行くように」 幻影の厳しい言葉に、又兵衛は大いに眉を下げてから頭を下げた。 「こら! 坊主! 無体なことを言ってやるな!」と酔っ払い僧が言うと、「お前は黙ってろ…」と信長がこめかみをひく付かせて言った。 「それよりも、今この場を離れたくないのです。  少々諍いがあるやもしれません」 幻影の慎重な言葉は信長に簡単に伝わって、「大いにある」と言ってうなづいた。 「その時は阿修羅となって、船を切ってしまいましょう」 幻影の言葉に、「…出番、また来たぁー…」と蘭丸は大いに喜んで、力強く拳を握りしめた。 「はっはっは! それはおもしろい!」と信長は陽気に笑った。 翌日の早朝に早速反応があり、不法な漁をしているとして、役人が幽霊船を捕らえた。 案の定、尾張の形原城主から直接の命を受けて、密漁に明け暮れていたと自白した。 この話は信長の忍びからすぐに伝わって、形原城と清洲城に文が投げ入れられた。 『密漁をやめなければ城を切り刻む 阿修羅』 城主はたわごとと思っただけだが、家臣たちが大いに怯えた。 伊勢の戦場で鬼が出たことを聞いていたので、これは当然のことだった。 実力行使には出なかったが、書簡によって田丸城に苦情文が送られてきたことを知って、信長の命により、形原城の正門だけが細切れにされた。 人の仕業ではないと誰もが言って、事情を知った漁師や町人たちは城主を責めたてた。 その城主は、熱を出して倒れて、大いに怯える日々を過ごすことになった。 「あっぱれじゃ!」と信長はまた蘭丸と幻影を大いに褒めた。 現在の技術ではできないことをふたりでやってのけたのだ。 今は厳撫僧正を戦車に乗せて、高野山を登っている。 出立が二日ほど遅れたのだが、予定よりも随分と早い僧正の帰着となった。 「褒美は何なりと授けよう!」と信長が調子よく言うと、「はっ! 幻影を婿に!」と蘭丸が言い切ると、「やだよ…」と幻影はすぐさま断った。 「…少しは考えやがれぇー…」と断られることがわかっていた蘭丸は大いにうなり声を上げて言った。 「旅をしていれば、お蘭よりも素晴らしい女性がいるかもしれないじゃないか…」という幻影の希望ある言葉に、「…ここですべてを斬るなどと言えば嫌われる…」と蘭丸は常識的に言った。 「それこそ阿修羅になるだけだ」という幻影の言葉に、蘭丸は穏やかに両手のひらを合わせて、「…素晴らしい女子が現れませんように…」と仏に祈ると、幻影だけが大いに笑った。 「お蘭さんほどに力があり、知力に優れた者は、ワシは知らんなぁー…」と厳撫が大いに考えながら言うと、「…おお… 希望が湧いてきたぁー…」と蘭丸は大いに気合を入れて、戦車の速度が上がった。 「こらこら、早すぎる」と幻影が窘めると、「…うう、わかった…」と蘭丸は言って少し速度を落とした。 しかもこの山道を整備しながら走っているので、相当な負荷があるはずなのだが、蘭丸と弁慶のふたりだけで簡単にやってのけている。 厳撫は背後を振り返って、「…手作業ではこうはいかん…」とうなってから両手のひらを合わせた。 「源次交代だ!  お蘭、代われ」 幻影が言うと、「…まだ全然大丈夫なのにー…」と蘭丸は苦情を言いながらも幻影に席を譲った。 本殿を通り過ぎて、奥の院の参拝口までやってきて、戦車は停止した。 厳撫は素早く降りて、整えられた道を踏みしめて、「これはいい…」と機嫌よく言うと、「金百貫」と信長は言ってにやりと笑った。 「比叡とは違って、この寺は貧乏じゃ」と厳撫は胸を張って言って愉快そうに笑った。 「…はは、すごい人のにおいがするなぁー…」と幻影は静かに陽気に言った。 「武士の何人かは仏門に入ったが…  それほど者はおらんはずじゃがな…」 厳撫は怪訝そうな顔をして言った。 「いえ、人ではなく獣です」と幻影が答えると、「…ヤツが近くにいるのか…」と厳撫は真剣な目をして言った 「熊か?」と信長がなんでもないことのように言うと、「…月の輪熊の恐ろしさを知らんからじゃ…」と厳撫がうなって身を震わせると、「お友達だよ?」と長春が厳撫を見上げて言った。 厳撫は長春を見入ったまま固まった。 「そう簡単には慣れませんでしたが、  隠れ里を守るように言いつけて置いてきました。  昨日の知らせでは、元気がないそうなので、  そろそろ戻ろうかと思っています」 幻影の言葉に、「うん、一度、戻りたぁーい」と長春が言うと、「…奈良から近江までの新しい道でも作ってやるか…」と信長が言うと、「随分と早く着けそうです」と幻影は笑みを浮かべて答えた。 「…お、おう… ありがたい…」と厳撫は言って大いに眉を下げて、目の前にいる化け物たちを見入った。 幻影たちは本殿に誘われて、食事と休息を終えると、「では、飛んで行ってまいります」と幻影は言って、大きな凧のような翼のようなものを組み立て始めた。 「ここから滑空して村に降りるのか…  行きは楽だな…」 信長が眉を下げて言うと、「帰りは試練にするので丁度いいです」と幻影は明るく言った。 「…しかも、一度きりの使い捨てではないんだな…」と信長は言って幻影の組み立て作業を見入っている。 「…一緒に行きたぁーいぃー…」と長春が言ったが、すぐさま信長に止められた。 しかし、「ここまでひとりで登ってこられる自信があるのなら連れて行ってやる」という幻影の無体な言葉に、「…我慢しますぅー…」と長春は言ってうなだれた。 「もしも、必要な人がいれば迎えに来るよ。  その候補は長春、政江、源次」 幻影の言葉に、三人は希望をもって笑みを浮かべていた。 「なるほどな…」と信長は言って、三人の子供の頭をなでた。 「だが最初は俺だけの方がいいと思う。  妙な病気を写されても困るからな」 幻影の言葉に、三人は大いに怯えた。 「心の病も伝染するもんじゃからな…  特に経験を積んだ大人は、  簡単に発症するやもしれぬ…」 信長の重厚な言葉に、「…ヤツの闇は、その猛威がある…」と厳撫は信長の言葉を認めた。 幻影は大きな翼を担いで、「喧嘩覚悟で行ってまいります」と言って、力強く羽ばたいて、ふわりと宙に浮かんだ。 「…飛べるとは思わなんだぁー…」と信長は大いに嘆いて、誰もが雄々しい幻影の後ろ姿を見入っていた。 「…戻ってきたら、乗せてもらうぅー…」と長春は満面の笑みを浮かべてつぶやいた。 目的の村の上空で旋回を始めると、真っ先に役人が気づいて巨大な鳥の幻影を見上げている。 しかし幻影はいなくなったと聞いていたので、別人かと思っていると、まさにその巨大な肉体は別人だった。 幻影は村の外に降り立つと、腰が引けた役人たちが責任を押し付けながらやってきた。 「真田信繁様にお会いしたい!」と幻影が言って仮面を取ると、誰もが大いに怯えた。 「…鬼…」とひとりの役人がつぶやいた。 「…な、名を…」と何とか役人が聞くと、「琵琶ものづくり工房の主、琵琶高願と申す」と幻影は言って、上腕から髪留めなどの小さな作品を出して見せびらかした。 「…母ちゃんが喜びそうだ…」と役人は言って物欲しそうにした。 しかし幻影はすべてを元に戻した。 もちろんこの場合、袖の下を渡すということが定石だが、幻影の考えにそのようなことはない。 「離れて話をするだけでも良いのだ」と幻影が言ったとたんに、門の下に信繁がいた。 信繁は幻影が来たと思ったが、別人だと感じた。 しかしその雰囲気はまさに幻影だ。 さらには空を飛んできたことも見ていて知っている。 「どこから飛んできた!」と信繁が叫ぶと、「高野山の山頂から」と幻影はぶっきら棒に答えた。 「厳撫僧正には我が弟子を連れてくるように伝えたのだがな!」 「いや、もう結構」と幻影は言って、翼を広げてふわりと宙に浮かび、鋭いつむじ風を残して高野山目指して飛んだ。 幻影は落ち込むよりも悲しく思っていた。 これが師匠を超えた寂しさだと知って、免許皆伝が出たと思って更に悲しくなった。 「…幻影ではないか…」と信繁の父の真田昌幸が言うと、「…はい、知っていました…」と信繁は寂しそうな顔をして答えて頭を下げた。 「自由で明るい道を…  これで、私は思い残すことがなくなった」 信繁が力強く言うと、「…やせ我慢も程々じゃ…」と昌幸は大いに呆れてつぶやいて頭を振った。 幻影は山頂に着くまでに考えを変えていた。 師匠は師匠でしかないのではないかと考えた。 もちろん、真田幻影が表舞台に出るわけには行かないのだ。 よって、―― 顔つなぎは終わった、また来よう… ―― と思って一気に陽気な気分になって、子飼いの鷹とともに高野山に降り立った。 「…随分と早かったな…」と信長は言って大いに苦笑いを浮かべていた。 「今回は顔つなぎです。  本番は次回ということで。  それまでに、琵琶高願の名を上げようと思っています。  やはり役人の目が厳しいので。  相手は腰が引けていましたけどね」 幻影の言葉に、信長は大いに笑った。 「お兄ちゃん、飛ぶのぉー…」と長春が大いに懇願したが、「休憩させてほしいな」と幻影が答えると、「…ああ、至らぬ女子だわ…」と長春が大いに嘆くと、誰もが大いに笑った。 「袖の下は渡さなんだか…  さすが幻影だ」 信長は言って一の家臣を誇らしく思って胸を張った。 「子供が飴を見るようでした」 「さもありなん!」と信長は機嫌よく叫んだ。 すると鳩が飛んできて、幻影は書簡を抜き取って鳩を長春に渡した。 素早く書を読んで、「久度村に高野の大天狗が現れた」と幻影が文面を読むと、信長はさらに愉快そうに笑った。 「…家康も秀吉も動くかもな…」といきなり雰囲気を変えた信長が言った。 「大天狗は琵琶高願ということは伝わったはずですからね。  それも一興でしょう」 「となると、刑部のヤツが来るぞ」 「はい、常に警戒しておきましょう。  ですがわれらの動きは読めないはずなので、  それほどの警戒は過ぎたるものかもしれません」 「…それでよかろう…」と信長は覇気のない返事を返した。 信長の今の感情には、言い知れぬ寂しさと虚しさがあった。 「本物の家康の首を落としたのはお師様です」という幻影の核心に満ちた言葉に、「…そばにおってわからんかった…」と信長は今度は悔しがっていた。 本能寺炎上事件が起こる一年と三カ月前、信長と幻影は同じ戦場である長篠にいた。 幻影はまだ子供で、この当時も伝令などの簡単な仕事だけをしていた。 幻影がふと気づくと、信繁とその側近たちがいない。 幻影は今までの伝令などを精査して、かなり大回りで家康の陣に突っ込んだはずだと感じた。 まさしくそうなったのだが、松平の陣は家康の首を死守して、多勢に無勢として信繁は引いた。 そしてすぐさま家康の身代わりを置いて、何食わぬ顔をして戦を続けたのだ。 よって家康の陣は、背後に多くの陣を敷いた。 信繁は大いに悔しがって叫んだが、家康は生きていた。 まさに信繁たちだけが夢を見ていたような出来事だった。 この時、武田家が滅亡したことにより、信長は信繁を獲得するためにひざを突き合わせた時、当然のように家康の首を落としたと主張した。 あまりにも鬼気迫る信繁の精神状態に、信長は召し抱えることを断念した。 そしてすぐさま、家康は信繁を切腹させようと企てたのだが、本多忠高になだめられて、紀州久度村に幽閉の身になった。 家康陣営でも、家康が影武者を立てていることはわずかしか知らないのだ。 これが陣営内に流れることだけが恐怖なのだ。 まさに卑怯者扱いを受け、世紀の猛将本多忠勝は生まれなかったかもしれない。 長篠の戦の後、幻影は信繁の命ですぐさま戦場を離れて、諸国漫遊の旅に出ていたのだ。 「おまえもなかなか冷淡だな」と信長が鼻で笑って言うと、「根本的な性格の違いです」と幻影は冷静に答えた。 「誰も殺さず、戦わないことを望んでいましたが、  それがないものねだりの異常な世界。  よって、通常の生活とは別物として考えるようにさらに変わりました。  ですが今もまだ、戦いは終わりませんので、  涙をのんで人を斬りましょう。  まずは、私自身が死にたくありませんから」 幻影が語ると、信長は何も言わずに笑みを浮かべていただけだった。 戦車は大和の国を斜めに横断して、近江の国の信楽に入った。 もう書簡で知らせてあったので、窯元桃源は門扉を大きく開いていた。 戦車と戦艦は静々と滑り込んで、丸一日の長旅を終えた。 しかし馬であっても、最低でも二日はかかるほどに上り下りが激しい道のりでもあった。 だがこれも幻影たちの修行のひとつでもあった。 「…戻ってきちゃったわね…」と濃姫が眉を下げて言うと、「何を言う、ワシたちは宿無しの身じゃ」と信長は愉快そうに言った。 「阿修羅高願様」と出迎えた与助が頭を下げて言った。 「地上のうわさはどんな感じです?」と幻影が聞くと、「夕刻に耳に入ってまいりましたので、それなりの広がりかと」と与助は笑みを浮かべて答えた。 「鬼と別の阿修羅も高願様でしょうか?」と与助が聞くと、「…やっぱ、そのうわさも流れてきたわけだ…」と幻影は大いに眉を下げて言った。 「鬼とは別の阿修羅はお蘭もだから」と幻影が答えると、「城を切り刻んだとか…」と与助は大いに眉を下げて言った。 「いやいや、門だけだよ。  だけど、人の技じゃないね」 「…怯えない武将はおりますまい…」と与助は言ってから、「ささ、とりあえずはお部屋にどうぞ」と言って、信長たちを先導した。 幻影たちは落ち着いてから、「高願の捕縛令などは出ていませんか?」と聞くと、与助は目を見開いて、「…そうでしたか… それが第一の目的…」とつぶやいてから、「いえ、その件はまだ耳にも書簡にもございません」と答えた。 「探すと斬られるだけ。  腰が引けておるだけじゃ」 信長が堂々と言うと、「その通りでございましょうな」と与助は笑みを浮かべて同意した。 「ですので、それなりの忍びが探っておるはずですが、  その情報もございません。  ですので、単独で息を殺しているものと」 与助の言葉に、「服部刑部を知っておるか?」と信長が聞くと、「会ったことはございませんが、そやつが第一候補だと」と与助は答えて頭を下げた。 「となれば、今頃は久度村か…」と信長が言うと、「お師様はどう答えるでしょう?」と幻影は聞いた。 「おまえの方が知っておろうが!」と信長は叫んで大いに笑った。 「いえ、服部刑部の精神状態によって変わると思いますので。  もしも必死感でもあろうものなら、  嘘八百を並べそうです。  それ以外だと…  とぼける可能性大でしょう」 信長は何度もうなづいて、「その次は越前だな」と確信して言った。 「はい、まさか信楽と岐阜に逗留しているとは思わないでしょうね。  ですが服部刑部が初めて察知される日も遠くないでしょう。  現在は藤十郎さんが目を光らせてくれているはずですから。  あ、丹波の山奥はどうなったのですか?」 幻影が与助に聞くと、「数日交代で養生するように言いつけています」と笑みを浮かべて答えた。 「役に立ってよかった」と幻影が笑みを浮かべて言うと、与助は深々と頭を下げた。 「…ワシの手の者と喧嘩をせねばよいが…」と信長は言って鼻で笑った。 すると鳩が飛んできて、縁側で羽を休めてうろうろと始めたので、長春が、「お疲れ様」と言ってから、書簡を出して幻影に渡した。 幻影は素早く書を読み、「武家行列がありませんでしたか?」と与助に聞くと、「いえ、この近隣も琵琶湖近郊も平和なものですが…」と与助が答えた。 すると、完全に足音を忍ばせた与助の手下が耳打ちをした。 「柴田勝家軍が、丹波の隠れ里近辺にいて南下しているそうです」 「もうケンカを売りおったか」と信長は言って鼻で笑った。 「滝川とは合流しないようですね。  滝川は援軍の足止め役…  戦い足りないようで、伊勢長嶋を荒らしているようです」 「となると、猿のヤツがこの辺りを通るわけか。  長浜近隣を大いに固めれば、負けはない」 近江近辺の地図を見ながら信長が言うと、「巻き込まれるのもたまったものじゃありません」と幻影が言うと、「…多少なりとも、罪悪感が…」と信長が言うと、幻影は笑いながらも頭を下げた。 「お子様方ですが…」と幻影が言うと、「あやつらは武士だ、もう親の手を離れておる」と信長は堂々と言った。 幻影が濃姫を見ると、「男子はね、それほどかわいがりませんでしたから」と言って、笑みを浮かべて、長春と政江を抱きしめた。 「じゃが、お市は今度こそ亭主とともにこの世を去るぞ?」と信長が言うと、「私の子ではございません」と濃姫は言ってそっぽを向いた。 信長が幻影をにらむと、「無碍に助けても生ける屍になるだけだと」と幻影ならではの厳しい言葉が返ってきた。 「…それは言える…」と信長は渋々答えた。 「勝家様をご説得いただきますよう」と幻影が言うと、「心得た!」と信長は言って胸を叩いた。 「失敗した場合、私が斬りますから」 幻影の冷酷な言葉に、「…ここにいる家族の安全第一…」と信長は言って大いにうなだれた。 「働く場所は三カ所ほどございます。  宿屋の主人で我慢してもらえるのであれば」 「うむ、心得た」と信長は機嫌よく答えた。 「…しかし滝川のヤツは、ずっと戦っておるのぉー…」と信長は呆れるように言った。 「昔ながらの武将です。  ですが時代はもう変わりかけているのですから、  考え方を変えるべきでしょうが、  変えない、というか変えられないのでしょう。  ですので、勝ったり負けたり。  配下はついてこないどころか、生き残れていません。  無理やり拘束してもいいのですが、  野盗ではありませんので放っておきます」 「…いいえて妙だな…」と信長は答えてにやりと笑った。 「それに、近くで鬼が出たという噂は入っているはずなのに、  全く生活を変えていない。  筋金入りの武将ですね」 幻影は滝川をある意味認めていた。 長篠でも顔を合わせていたが、まさに猛々しいという印象だったが、できれば馬に乗り駆けだしたかったのではと考える。 滝川が与えられていた任は鉄砲隊の統括だったので、戦場に出られるわけがなかった。 よって戦場が全く動かない戦いなので、伝令も非常に楽だったことをよく覚えていた。 幻影たちは翌日も信楽で休養して、その翌朝、日が上がらないうちに、近江と尾張の国境を駆け抜けて岐阜に出て、第二の隠れ家に戻ってきた。 よって熊の巖剛が大いに元気になって、藤十郎も明るい笑みを幻影たちに向けた。 そして藤十郎は開口一番に、「鬼やら阿修羅やらが出たそうですが」と言って蘭丸を見た。 「お蘭を肩車して、城の門を切り捨てた。  目撃者がいたら、四本腕のでっかい巫女さんが、  城門を斬ったと思っただろうね」 幻影の言葉に藤十郎はふたりをまじまじと見て、「…まさに阿修羅…」と言って大いに眉を下げた。 すると、『…カラン…』と涼やかな小さな音が聞こえた途端、藤十郎の顔に緊張が走って、机の下の装置を引き出して釦を何個も押した。 「…ふーん、この近くに誰か来たようだね…  普通だと何発かは矢を食らったと思うけど…  今の頃合いだと、立ち木を盾にしたかもね…」 幻影は言って犬の俊栄丸を見た。 「…血の匂いか…」と落ち着かない俊栄丸を見て言った。 「幻影、行け」と信長が指示を出すと、「はっ」と幻影は答えて消えた。 「守りは万全のようじゃ」と信長は笑みを浮かべて何度もうなづいた。 「弁慶と源次は、里の南北で監視じゃ。  他には来ぬと思うが、念のためだ」 ふたりが配置についてすぐに、幻影が黒い物体を担いで戻ってきた。 「服部の手の者だ」と信長は冷静に言った。 「変装はしていません。  これがこいつ本人の顔です」 幻影が頭巾を取ると、与助と同じほどの老体に近い年齢だと感じた。 「存在感は刑部だ」と信長が言うと、「やはり変装は得意のようですね」と幻影は言って、慎重にその装備を地面に並べ始めた。 「偽情報もあると思うので、精査しましょう」と幻影は言って、無数にある小さな書を、丁寧に手に取って、机の上に置いた。 信長も慎重に扱って、「一部以外は通信の書だ。その一部の方が笑える」と信長は言って本当に笑っていた。 幻影が覗き込むと、「精神的に厳しい仕事ですからね」と眉を下げて言った。 その文面は、雇い主の悪口だった。 もちろん、信長が雇った時のものもあって、『ちょび髭親父』と書かれていた。 『うー! ううー!』と目を覚ました刑部がうなり始めたが、全く身動きが取れないことに目を見開いている。 「よう刑部、ちょび髭親父だ」と信長が言うと、刑部は首を振りたかったのだがそれができないので視線だけを外した。 「うろうろされると面倒だから、  自決してもらうか、斬ってしまうか。  あまり気は進まないんですけどね…  一応、同業者なので…  だけどあんたを斬った場合、あんたの血族は全員斬るから。  俺は戦国武将なんかよりもやさしくないよ。  あんたの目の前で、里を焼き尽くしてもいいんだ。  もう伊賀の里の位置はわかっている。  俺の最大級の手下を向かわせてもいんだ」 すると、『グルルル…』と巖剛がうなると、刑部はさらに目を見開いた。 「忍びはな、動物程度はきちんと育てないとな。  あんたは矢に射られた。  その血のにおいをきちんとかぎ分けて教えてくれた。  動物の存在が最大の武器で防御にもなるんだよ。  あんたの里はそれを怠っていた。  だから簡単に忍び込めたぜ。  なんなら、あんたの手で里を消してもいいんだ。  どうせ、あんた以上の者はいないはずだからな。  本来なら、あんたの年だと、手下の指導が順当だからな」 幻影は言って、刑部の拘束をすべて解いた。 刑部は丸裸のまま素早く後ろに下がって森に消えた。 「…服部も、表舞台から消えたな…」と信長が言うと、「油断はしませんが、十中八九そうなるでしょう」と幻影は答えて頭を下げた。 「そろそろいいか…  源次、弁慶、追って監視だ」 幻影の言葉に、ふたりはすぐさま消えた。 「…源次が隊長?」と信長が眉を下げて言うと、「源次の方が素早いので」と幻影は笑みを浮かべて言った。 しかしふたりはすぐに戻って来て、「引いていく後ろ姿だけ確認しました」と源次が報告した。 「こうなる覚悟はできていたようですね。  ですがまだ鷹の目は追っています」 「抜かりないことは、あっぱれだ」と信長は背筋を震わせて言った。 穏やかに食事を摂っていると、第一の鳩が飛んできた。 長春から書を受け取って、「もう長篠にいるそうです」と幻影が言うと、信長は感慨深く何度もうなづいた。 「休めば書を投げ入れることにしていますので、すぐに移動を始めるでしょう」 幻影の言葉に、信長は大いに眉を下げて、「まさか、鍛えてる?」というと、「さあ、どうでしょうか」と幻影は言って少し笑った。 「ですが、見ているぞという警告ではありますね」 「…忍びにとっては屈辱だ…」と信長はため息交じりに言った。 そして就寝前に第二の鳩がやって来て、「甲斐の韮崎の森で野宿のようです。予想としては、さらに北上するでしょうが、半数ほどは消えたそうです」と幻影が報告した。 「…追跡する方も大変だ…」 「仕事ですので」と幻影がなんでもないことのように言うと、信長は右の口角だけを上げて横になった。 翌朝の第三の報告で、刑部が動かなくなったと報告があった。 これは身代わりではなく確実に刑部なのだ。 そして第四の報告で、刑部は死を迎えたとあった。 ほかの者は途方に暮れているようで、その場にとどまっているようだ。 幻影は監視を続けるように書を送った。 まさに幻影と信長の忍びは大回転で、丹波の隠れ里が大盛況になっていた。 肝心の秀吉だが、全く動くことなく大坂城に留まっている。 長浜城にも変動はなく、柴田軍は北ノ庄城に戻っていたが、戦の準備を万端に整えているようだ。 「服部の方は最終報告がもうじきあるでしょう。  まず慌てるのは家康かと」 幻影の言葉に、「そっちの方が先に反応がありそうだ」と信長は合意した。 「越前も大坂も動きがないようで、少々つまらないので、遠出でもしますか?  少々暑くなってきましたので、北の方にでも」 「よきに計らえ」と信長はこう答えたのだが、「…ちょっと落ち着きたいなぁー…」と濃姫がつぶやくと、長春も賛成のようで巖剛に抱きついた。 「…では、心の休養ということで…」と幻影は笑みを浮かべて言った。 「なんだ、いいことでもあるのか?」という信長の言葉に、「商売でもしようかと思いまして」と言うと、「ん? 軍資金はそれほど使っとらんし、逆に増えとるはずだが…」と信長は大いに戸惑った。 「自己満足のものづくりです」という陽気な言葉に、「趣味があってよい」と信長は言って何度もうなづいた。 もちろん、肉体の鍛錬も忘れないので、蘭丸や弁慶の相手をすることになる。 「琵琶高願の名を上げることにもなるでしょうから」 幻影は陽気に言って、弁慶と源次を連れて材料集めに走った。 この隠れ里の近隣は、北に行けばまさに山奥で、今にも茂みから熊でも飛び出してきそうな、人がほとんどいない場所もある。 「おっ 美味そうな匂い」と幻影は言ったが決して食い物ではない。 岩の割れ目を源次が覗き込むと、「すっごくきれいな鍾乳洞です!」と笑みを浮かべて言った。 「お宝ザックザクだ」と幻影は陽気に言って、大きな体を小さくして割れ目の中に入って行った。 弁慶もくぐろうとしたのだが、何かが突っかかる。 「…お師匠様の体ってどうなってんだろ…」とつぶやきながらも、何とか中に入れた。 幻影はもうすでに源次と辺りを探っていて、弁慶もろうそくに火をともした。 幻影が少しかがまないと通れない程に天井は低いが、歴史を感じさせる鍾乳洞が美しい。 人が入ってきた形跡はなく、全く荒らされていない。 きっと幻影はこの洞窟の絵を描くだろうと、弁慶は確信していた。 すると、そっけないほどに何もない場所で幻影は足を止めた。 「…ここに岩盤があるんだ…」と言って、重さがある鍬を出して、軽く叩くと、妙に金属質の音が響いた。 「当たりだ」と言って、それほど力を入れることなく、三人はせっせと岩盤を砕き始めた。 小さめの大八車は持ってきたのだが、収穫を入れる箱が足りなくなったので、三人は箱に鉱物を詰めて外に出て、箱を大八車に乗せてしっかりと固定して山を下りた。 やはり人に遭遇することはなかった。 さらには動物も息をひそめていたのか、気配を感じない。 「静か過ぎるな…  天変地異でもあるのか…」 「この辺りではありませんが、  人が入ってきたことで警戒しているのでは」 弁慶の言葉には一理あるので、記憶にとどめるだけにして、三人は少し急いで里に戻った。 すると弁慶の予感通り、鉱物の仕分けは弁慶と源次に任せて、幻影が絵を描き始めると、すぐさま女性たちが寄ってきた。 「…うわぁー… きれー…」と真っ先に長春が声を上げて絵を見入った。 「あ、山の名前があるな… 剣岳。  剣岳鍾乳洞だな」 幻影はこの近辺の地図を見ながら言った。 すると案の定、「いきたぁーい」「みたぁーい」と長春と政江が言ってきた。 「道なんてないから、  自分の足で行く必要があるぞ。  行きはいいが、帰りは少々辛いと思うけど?」 「ここに持って来ておじゃれ」と濃姫が案の定こう言うと、幻影たちは大いに笑った。 幻影はひと通り描き終わって、「いやぁー、ごめんごめん!」と弁慶と源次に謝った。 ふたりはこの気遣いの鬼の幻影を大いに見習わなくてはならないと思い、少し気合を入れた。 「…ほら、これ…」と幻影はこっそりとふたりに変わったものを渡した。 「…食ってもいいし、お目当ての女性にやってもいい…」と小声で言ってふたりの背中を手のひらで軽く触れた。 ―― うわぁ―――! 大復活っ!! ―― と、弁慶も源次も同じように思いながら、今度は三人でせっせと仕分け作業を楽しみながら熟した。 そして貴重な金属だけを延べ板にしてから休憩をとることにした。 すると幻影は寛いでいる家族を見て、「家を持った方がいいと思ったのです」という幻影の言葉に、数名が一旦喜んだのだが、さすがにその顔をひっこめた。 信長は何も言わずにうなづいているだけだ。 「性格上、あうあわないがあると考えました。  人間は野宿だけで生きていくことは至難の業だと思っていますから。  様々な文明文化を経て、人間は家で暮らす習慣ができてしまったのです。  その習慣に抗えないことは、弱いとか、恥だとか、  そういったことはないと私は思っています。  進化の過程での人間の本能なので、  固定した家で暮らしたい方は、遠慮なく言っていただきたいのです」 濃姫が手を上げて、「…頑張ったけど私には厳しいわ…」と本音で語った。 だが濃姫だけだったことに、「私だけ?!」と叫んで頭を抱え込んだ。 「いえ、長春様も同じ意見だと思っています。  意地を張って手を上げないのです。  ですがその理由もあって、  毎日家で寝泊まりして、毎日旅をしたいと大いに欲張っているのです。  もちろん、誰だってそうしたいのはやまやまなんですけどね」 「…意地っ張りでごめんなさぁーい…」と長春は謝ってうなだれた。 信長は何度もうなづいて、長春の頭をなでた。 「だが、具体的にどうするんだ?  おいそれと家を持つことはそう簡単にはいかないぞ」 「まずは、顔見知りがそれほどいない場所に家を構えて、  長年暮しているようにしておけば問題はないはずです。  その候補は江戸です」 「うおっ!」と信長は叫んで、そして大声で笑い始めた。 「ワシの作戦ではないかっ!!」と信長は叫んでから大いに胸を張った。 「はい、その通りでございます。  少々面倒な者はへき地に飛ばします。  きっと家康は秀吉にその洗礼を受けるのではないかと。  もしも家康が逆転した時、  そこで暮らしている濃姫様が、経済的な領主となれるはずなのです。  大いに家康に恩を売ることも可能でしょう。  もちろん本職の法源院屋さんに協力を要請しますけどね」 さらに幻影は様々な提案をして、戦が少ないうちに、今は田舎でしかない江戸近辺の整備をすることにした。 田舎とはいえきちんと領主はいるし城もあるが、さすが田舎侍で、武力的にも経済的にもそれほど優秀ではない。 ここは法源院屋が大いに舌を滑らかに滑らせて、うまい話を持ち掛けるのだが、誰が考えても怪訝に思うことを幻影たちが実現してしまうので、ほぼ数日で懐柔してしまい、大きな屋敷を建てられるほどの土地を得ることに成功した。 田舎であれば田舎らしい商売も有効で、あまり高度なことはやらない。 目立つと秀吉が気づくかもしれないからだ。 そして商売だけではなく、農業と漁業まで手を出して、必要最小限の人足だけを雇い、比較的細々と商いをしていると見せかけた。 この件も大いに修行になったのだが、江戸に移住して半年後に、ついに秀吉と柴田勝家が激突することに決まった。 幻影たちは戦力になる者だけを連れて一路近江を目指した。 戦場は長浜城の西にある賤ヶ岳だ。 近くに丹波の隠れ里もあるので、ここで十分に休養もできた。 しかし信長の顔色は暗い。 「…勝家に勝ち目がない…」とこの先の展望を読んでつぶやいた。 「問題はお市様です。  そしてそのお子様の処遇です。  自然に任せるか先に手を打つかで、  この先の運命が大いに変わります」 信長は腹を立てることなくうなづいて、「手は出さぬ」と後ろ髪惹かれる思いを断ち切って決断した。 「茶々様は美人です」と幻影が言うと、「…いうでない…」と信長は言って大いに苦笑いを浮かべた。 よって一切手を出さないことに決めて、幻影たちは静々と戦場になる場所を遠回りして去り、江戸に戻った。 江戸に引っ越したのはいいのだが、長雨が続き、水害が相次いで起こり、城主は大いに頭をかかえていたのだが、ここは出番と幻影たちは自然災害と戦い、城は無視してそれ以外の土地の復興に勤しみ、そして炊き出しなども各所で行った。 目立つわけにはいかないので、『善意の一般庶民』として名乗ることはなかった。 その地盤が緩んでいる時でも、戦は行われる。 秀吉は大いに調子に乗って、ついに全国制覇のため重い腰を上げた。 そして家康を傀儡にしようとするのだが、快い返事を聞けないことに腹を立てている。 この件には幻影たちは一切触れずに、情報だけを仕入れて、来たる日を見据えて大いに資産を増やし、江戸近隣からの信頼を得ることだけに尽力した。 「…旅行、行きたぁーい…」と人助けに飽きてきた長春と濃姫がそろって駄々をこね始めた。 「いつ言い出すのかと待っていました」と幻影がにやりと笑うと、「…早く言えばよかったぁー…」とわずかに成長した長春は言って、幻影に抱きついた。 もちろん恋愛感情はなく、幻影を兄として慕っていた。 そして大いに成長した政江は、この江戸で大店の令嬢として一目置かれるようになっていた。 この政江はもちろん幻影にほの字だ。 幻影に恋をしているからこそきれいになったともいえる。 もちろん、森蘭丸も明智静香も負けてはいない。 しかし政江の場合はまだ結婚適齢期ではないなのだが、魅力的な女性には変わりない。 法源院屋は安定した稼ぎを今のところは維持している。 しかし幻影からの鶴一声で、その資産を数倍にする準備はもう終えている。 今はまだ来る日を待っているのだ。 信長の国の外の大陸制覇への挑戦については触れることはない。 信長は大いに機嫌よく日々を過ごし始めた。 今は大店の経営者側のひとりとして大いに尽力している。 よって、幻影たちがひと月ほど抜けても問題ないほどに大きな資産を得ていて、戦車も戦艦もさらに立派になっていた。 今は信長の旗印ではなく、『法源院屋』の旗印を上げている。 「では、長期で長距離の商いに出るということで」と幻影が信右衛門に挨拶がてら言うと、「どうかお気をつけて」と落ち着き払って言った。 忍びたちも法源院の屋敷で休息を取れるようになり、今までよりも英気を養って諜報活動に励んでいる。 問題は熊の巖剛だったのだが、今は江戸に連れてきていてこっそりと飼っていた。 もちろん時には近場の大自然一杯の土地に行って、開放することは忘れていなかった。 よって今は、巖剛も家族の一員だった。 「…人間だったら求愛したのに…」と政江は言って、巖剛と腕を組むと、巖剛は大いに迷惑そうな目を政江に向けた。 政江にとって、巖剛は猫よりもかわいがる存在になっていた。 「おや?」と戦車の乗り心地を堪能していた信長が怪訝そうな声を出した。 「揺れが緩やかだが…」というと、「はい、改良しましたので」と幻影が言うと、出発してそれほど時間は経っていないのに、濃姫と長春はすやすやと眠っていた。 「景色を見られなかったなどとわがままを言って怒るので起こしてください」と幻影が信長に言うと、「任せろ」と快く答えてふたりを乱暴に起こした。 今回は初めて江戸から北上するので、今までに見たことのない景色ばかりなのだ。 しかし、北に行けば行くほど田舎になるのだが、街道は比較的整備されているので、ほとんど問題はない。 道がなければ、戦車を使って切り開くことも可能だ。 陸奥まで行けば隠れ里があるので、ほとんど問題はないが、そこに至るまでは二日ほどはかかるので、何とかして都合のいい伝を探すようにして戦車を走らせた。 さらには忍びが数名ついてきているので、ほとんど問題はなかった。 『ピーヒョロロロ…』と雲雀の鳴き声が聞こえたので、戦車はゆっくりと速度を落とした。 忍びが姿を現し、「この先、農民どもが一揆を起しております」と信長に報告した。 「…ふん、突っ込めば収まる…」と乱暴なことを言ってにやりと笑った。 「商売商売」と幻影は言って、機嫌よく戦車を走らせた。 やはり江戸より北側も長雨続きで農作物の成長が見込めない。 しかし税は今まで通り徴収されるので、このままでは生きて行けないとして、命をかけて抗うのも当然だ。 信長の言葉通りに、街道を封鎖するように一揆が行われていたが、戦車の存在感に大いに怯えて道をあけ、「…法源院屋だぁー…」と農民たちは大いに目を見開いてつぶやいた。 信長は戦車から身を投げ出して、「役人! こい!」と言って手招きをした。 もちろん役人も法源院屋は知っているので、まるで胡麻をするようにして中腰で信長に向かって走ってきた。 「どれほどいるのだ?  金一貫程度でいいのなら、ここにある」 信長が懐から延べ板を出すと、役人は目を見開いたまま動けなくなっていた。 「みな、安心せよ!  うまいものをたらふく食わせてやる!」 信長の言葉に、農民たちは一斉に地面にひれ伏して頭を下げた。 「ワシは武士ではない!  ただの商人だ!  そんな相手に、土下座など不要だ!」 信長の言葉に、農民たちはさらに安心して立ち上がってから頭を下げた。 「うまいものをたんまりと持って来てやるから、  ワシたちの宿の準備をしてくれ。  それが食料との交換条件だ。  何なら海に出て、海産物ならすぐに仕入れられるぞ」 幻影はすでに鳩を飛ばしていた。 運搬は店にいる人足で十分なので、戦車を戻す必要はない。 この近隣の漁場のしきたりを聞いてから、浜から船に乗り換えて、案内の漁師をふたり乗せて船は一瞬にして沖に出た。 漁師たちは言葉が出ないようで、早速一本釣りが始まって、ほんの一刻で食べ切れないほどの魚を釣り上げて陸に戻った。 まさかの大漁に、村人たちは大いに喜んで、早速合同の食事会が始まった。 そうこうしているうちに農作物の荷が届いたので、幻影たちが調理を担当して大量に料理を作り始めた。 しかし今はいいのだが、この先のこともある。 食事を早々に終えた幻影は、田畑の検地を行って、「色々と見直さないとね」と言うと、農民たちはもうわかっているようで、すぐさま頭を下げた。 そして幻影は、農作物が育たなかったのは役人のせいとして、城に掛け合った。 全てをきちんと順序立てて説明したので、役人はぐうの音も出なかった。 よって、今期の税は徴収しないことにしたが、川の改善が必要だ。 まさに膨大な資金が必要になるので、おいそれと手を出せなかったのだ。 「金は無利子で貸してやるから、俺たちを雇え。  数十年は手を入れなくても済むように変えてやる」 幻影の乱暴な言葉に、かなり怖くなったようだが、簡単なところからその作業の確認することになった。 「ふん! なめるな!」と幻影は大いに憤慨して、指定された場所以外に数カ所を、幻影ひとりで整地してしまった。 まさに水はけがよくなり、水をためることも簡単になった。 農民たちは大いに喜んで、生き残っている作物たちの植え替えを始めた。 この領内の半分ほどの整地を終えて、幻影たちは殿様扱いで、大きな庄屋の家に案内された。 庄屋なのだが室内にほとんど物がない。 この庄屋は、身銭を切ってまで村人たちを守り続けたのだ。 「庄屋さん、必要なものがあったら遠慮なく言ってください、作るので」 幻影のなんでもなさそうな言葉に言葉に、庄屋は大いに驚いてすぐさま尻込みして丁重に断った。 「では、私たちが必要なものを作ります。  置いていきますので、使ってもらってもいいですし、  売ってもらっても構いません」 さすがにこの言葉には庄屋は何も言えなかった。 そして幻影たちは家族会議を始めて様々な意見が出て、食事を始める前に、速やかに食事ができるものだけを作り上げて、幻影が腕によりをかけて食事を作った。 調理場には見たことのない道具がたくさんあるのだが、それは知恵を絞って作ったもので、材料などは変哲のない鉄や木だけだ。 庄屋は大いに感動して、食事をするのを忘れて道具類を見入った。 やはりどの家にもある包丁には度肝を抜かれた。 これほどに美しい包丁はどこにもないと思い、ついつい握ってじっと見つめていた。 「それほどに感動していただいてうれしいですよ」と幻影が茶の間から顔を出して言うと、庄屋は大いに慌てて、包丁をすぐさま台の上に戻した。 そしてかなり安全な包丁立てがあると知って、鞘に収めるように慎重に包丁を収めた。 そこには様々な種類の刃物がずらりと並んでいる。 「私の一番得意なものが、鍛冶仕事です。  小刀から太刀まで打ちますよ。  商売としては、包丁の売り上げが異様にいいです」 「…実は、この村に唯一あった鍛冶屋が高齢で店を閉めてしまったんじゃ…」と言ってうなだれた。 「いいでしょう。  この村に家は何軒ありますか?」 幻影の言葉に、「…百五十ほどですがぁー…」と庄屋が答えると、幻影は笑みを浮かべてうなづいて、外に出て行った。 幻影はもういないのだが、庄屋は幻影のいた場所に頭を下げてから、包丁を抜いて銘を見て、「…琵琶高願…」とつぶやいて笑みを浮かべてから、包丁に頭を下げた。 しばらくすると、庄屋の家は見違えるほどに豪華になった。 少々ものが多すぎると思うほどに増えていたが、使えないものは何ひとつない。 特に絵画は一日中見ていたいほど素晴らしいものだ。 「…この家に、神様がおわした…」と庄屋は笑みを浮かべて神棚を見るとこれも新しく立派になっていた。 しかし古いものもしっかりと隣に鎮座していて、庄屋はふたつの神棚に向かって柏手を打って、願いではなく礼を言った。 そしてほとんどのものに、『琵琶高願』の銘がある。 銘がないのは神棚だけだった。 店の名が法源院屋なので、雇われの身だろうかと漠然と思い、そして店主が村に出向いて商いに回らないだろうと思い、さらには商いになっていないと思って苦笑いを浮かべた。 そして庄屋が外に出ると、庭先は工房となっていて、まさに活気があり、村人たちも珍しそうにして見入っていた。 そして子供たちですら、できることは手伝いしをして、水やお茶なども配っている。 ―― はあ… 働き者じゃぁー… ―― と庄屋は思い、自分自身を恥ずかしく思い始めた。 そして働いている者たちは女性であってもみんな逞しい。 そして何よりさらに感心したのは、みんな笑顔だったのだ。 ―― 神様に違いない… ―― と庄屋は確信して、静かに両手を合わせて感謝した。 そしていつの間にか納屋ができていて、『カンカン!』と子気味いい音が聞こえる。 ―― 包丁… ―― と庄屋が思っていると、子供たちがせっせと出来上がった包丁刺しに包丁を収めていく。 今は十台ほどだが、この早さは異様だと思っていると、槌の音に導かれたのか元鍛冶屋がやって来て、子供たちに話を聞いてから、包丁を見て固まっていた。 庄屋は大いに笑い、「ワシも同じように固まったわい!」と愉快そうに言うと、元鍛冶屋は我に返って、「…この包丁は、俺では研げん…」と言ってうなだれてから、包丁刺しに慎重に戻した。 「城下の刀剣屋に持っていっても、尻込みするかもしれん…」と元鍛冶屋が言うと、蘭丸がやって来て、すらりと長太刀を抜いて、刃を上に向けた。 元鍛冶屋はさらに言葉が出ず、その美しさに見入ってしまって固まった。 「色々と斬ったが、一度も研ぎに出しとらん」と言ってから鞘に収めて作業に戻った。 「…研がなくていいそうだぞ…」と庄屋が言うと、元鍛冶屋は大いに苦笑いを浮かべていた。 「…色々と斬った?」と元鍛冶屋がつぶやくと、「…まあ、聞かぬが花じゃな… ここに坐す方々は神じゃから…」と庄屋は笑みを浮かべて言った。 「まあ見ておけ!」と蘭丸が叫ぶと、庄屋と元鍛冶屋は蘭丸を見て目を見開いた。 蘭丸の目の前には大きな丸太が立ててあって、長太刀を上段から一気に振り下ろすと、音もなく切れて、丸太が真っ二つになっていて、左右に分かれて地面に倒れ落ちた。 「…ありえん… 太刀は届いておらなんだはずじゃ…」と元鍛冶屋がうなりながらつぶやくと、「だから神じゃと言った」と庄屋はさも当然のように言った。 「…ふっふっふ…」と蘭丸は機嫌よく笑って、生木の処理を始めると、子供たちは大いに拍手をしていた。 「…ありえんことをするでない…」と信長は大いに眉を下げて言った。 「俺は阿修羅と呼ばれた武士じゃ!」と蘭丸が叫ぶと、「こら! 言いふらすんじゃない!」と幻影が小屋から出て来て叫んでから愉快そうに笑った。 「…だって、お城の城門斬ったもぉーん…」と蘭丸が女性らしく少し拗ねながら言うと、「…まあ、いいけど…」と幻影が言うと、庄屋は手を合わせていて、元鍛冶屋は苦笑いを浮かべてから手を合わせた。 「おやつにしようぜ!」と幻影が叫ぶと、「おー…」と誰もがうなって、作業を中断して幻影を追いかけて家に入って行った。 「さあ、おふたりも」と信長が言って家に入って行った。 庄屋と元鍛冶屋が家に入ると幻影がいない。 そして調理場を見ると、甘い香りがする。 「…芋の黄金煮かぁー…」と元鍛冶屋は言って笑みを浮かべた。 「…お前が笑うとはな…」と庄屋が言うと、「子供のころ以来じゃ」と自慢げに言った。 芋の甘露煮だけではなく、子供が喜ぶような棒飴などもあって、庄屋の家は、どこかの高貴なお屋敷のようになっていた。 「いつ仕込んでたのよぉー…」と炉端でせんべいを焼きながら濃姫が言うと、「暇があれば、保存食と一緒に。干すだけでいので」と幻影は陽気に答えて、器に入れた調合した溜まり醤油を置いた。 「…別世界…」と元鍛冶屋は言って苦笑いを浮かべた。 「…お兄ちゃん大好きぃー…」と長春と政江が調子よく言った。 「お前らだけ食ってんじゃない。  おすそ分けに行ってこい」 幻影の言葉に、ふたりは口に飴をくわえて、大きな包みをもって外に出て行った。 「…あっ あっ…」と元鍛冶屋が大いに戸惑ってふたりを見送ると、「子供か!」と庄屋は言って大いに笑った。 「ひと通りありますから、どうぞ!」と幻影が察して、大きな籠を出すと、庄屋も元鍛冶屋も子供のようになって床に座って、礼を言ってから甘い菓子を堪能し始めた。 「あー、うまい…  しかしこの急須はすごいな…  水がまだ冷えたままだ」 信長が機嫌よく言うと、誰もがつられるようにして水を飲んで笑みを浮かべた。 「法力が使えるようになったのです」と幻影が言うと、誰もが目を見開いた。 幻影は湯飲みを置いて水を注ぎ、湯飲みを中心にしてとんでもない速さで手を動かした。 そして湯飲みを取ってひっくり返すと、水が落ちてこない。 さらに、湯飲みを少し強く握ると、透明のものが出てきた。 「氷に変化させてみました」と幻影が言うと、誰もが開いた口がふさがらなかった。 そしてまな板の上に氷を置いて、刃のない包丁で軽く叩いて、氷を細かく砕いて、みんなの湯飲みに入れた。 「氷は超高級品だぜ」と幻影が言うと、誰もが一斉に氷を口に含んで幸せそうな顔をした。 「ひっはいはひをひゃっはんは!」と蘭丸が意味不明の言葉を述べると、「なんだって?」と幻影は言って大いに笑った。 もちろん、氷を口に含んだままだとまともに話せるわけがない。 「…これだけ生きて来て初めて食べたぁー…」と濃姫は大いに感動して泣いていた。 「ワシも初じゃ」と信長は機嫌よく言って何度もうなづいていた。 そして、「最後は逆をやったんだよな?」と信長が幻影に聞くと、「はい。湯飲みを少々温めました」と幻影は笑みを浮かべて答えた。 「治療でいい思いをさせてもらったからな」と信長が言って、老人ふたりを見ると、「仕事を始める前に施術をしましょう」と幻影は機嫌よく言った。 「怪我などの神経痛であれば、  治すことができますし、  一時的に代謝が上がって若返り効果も期待できます」 幻影の言葉に、真っ先に濃姫が幻影の前に座った。 「申し訳ありませんが、男性にしかできません。  女性は私の妻になる者だけですね」 「幻影、お前の母じゃ、遠慮はいらぬ」と信長が言うと、「はい、では」と幻影は言って、濃姫の肩と腕と腰に触れてしばらくすると、「あっつ!」と濃姫が叫んで飛び上がった。 「では仕上げに、首筋を」と幻影は言って、手のひらを近づけると、濃姫はうつらうつらとして船をこぎ始めた。 「個人差はありますけど、  寝て起きると別人になる人もいるでしょう。  父上はもうすでに若返っていますので」 幻影の言葉に、「…自覚はあった…」と言って笑みを浮かべた。 「それに、髪が大いに増えた」と信長が言うと、「高願殿!」と光秀が叫んで、幻影の前に座った。 「…効果は保証しかねます…」と幻影が眉を下げて言うと、「…若返りだけでも良いぃー…」と光秀は大いにうなった。 そして施術が終わると、光秀も眠っていた。 「温める方は、中国武術の気功術というものらしいです。  冷やす方は、私独自で考案して、  一点集中して早い風を起こしただけなのです。  これは自然現象の応用です。  例えば、空から降る雪や雹」 「…あ、なるほど…」と信長は言って、できる理由だけはよくわかった。 「風を送るだけではなく、  意識的に外を温めるようにすると、  温度差が発生して中心部は大いに冷えるのです。  放射冷却現象というものらしいです。  夕刻などに、打ち水をすると涼しく感じるというやつです」 「…また賢くなったぁー…」と蘭丸は拳を作って気合を入れていた。 「涼しくなるだろうと思って撒いていたが、  水で冷えるだけではないわけなんだな…」 「まずはその作用が起きるのですが、  水分が蒸発して空気中に混ざる時に、  さらに打ち水をした物体から熱を奪うのです。  ですので、思っていたよりも涼しくなるのです」 幻影の言葉に、信長は何度もなづいた。 「ですが、氷を作れるのなら、  この方が手っ取り早いです」 幻影は言っておけに水を入れて、高速で桶の回りをなでるようにすると、水が氷になっていく様子がよくわかった。 「そろそろ、長春と政江が戻ってきますから」と幻影が言うと、「…ま、知ったら怒るな…」と信長は眉を下げて言った。 幻影は今度は手拭いを凍らせてからまな板の上に置いて桶をひっくり返して持ち上げると、全く空気を含んでいない氷が現れた。 「なにっ?!」と信長が叫んだ。 「氷は必ず空気を含んでいるものです。  ですが、人間が作る場合、  このように空気が入っていないものを作ることが可能です。  この氷を真っ先に食べる者が日ノ本の覇者」 幻影の言葉に、「…うう…」と信長は言って大いに苦笑いを浮かべた。 すると長春と政江が戻って来て、不思議な顔をして氷を見入って、「ギヤマン?」と長春が言った。 「いいや、水を凍らせた氷だ」 幻影の言葉に、政江は両手で口をふさぎ、「…帝しか食べたことないって聞いてたぁー…」と長春は大いに嘆いた。 「ここにいる者はみんな帝だ」と信長が愉快そうに言うと、誰もが大いに眉を下げていた。 幻影は氷の前に桶を置いてから小鉢を出して凍らせる要領で冷やしてから、「冷たいぞ」と言って、小鉢を長春に差し出した。 長春は恐る恐る小鉢を手に取って、「ちめた」とかわいらしく言った。 「桶をこっちに向けて傾けて、桶の中に小鉢を入れて手で持っておいてくれ」 幻影の言葉に、長春は言われた通りにしたが、小首をかしけていた。 すると幻影は薄刃の包丁を出して氷を削り始めると、「…雪だぁー…」と誰もが言ってこの不思議な状態に笑みを浮かべた。 小鉢には正確に薄く削られた氷が積まれていく。 そして削るのをやめて、冷えた砂糖水をかいた氷にかけ、木のさじを出して小鉢に入れた。 「ほら、食ってみろ」と極が言うと、長春は大いに感動していて、ゆっくりと気のさじを手に取って、氷をすくって、信長の口に近づけた。 「…気を使わせてしまった…」と信長は言って口を開けてひと口にして食うと、「…うんうん、これはいい…」と笑みを浮かべて言った。 長春は安心したのか、今度は自分が一口食べてから、今度は幻影にさじを向けた。 長春は気づかいながら、かき氷を大いに堪能した。 「…まだまだある…」と蘭丸が円柱の氷を見て言うと、「全部削らないともったいないからな」と幻影は言って、また氷を削り始めた。 起き出してきた濃姫と光秀も仲間になって、ここにいる全員がかき氷を堪能した。 「みかんの砂糖水が美味であった」と信長が言うと、「私は苺ぉー…」と長春は幸せそうな顔をして言った。 「ああそうじゃ。  なぜ氷に空気が入っていなかったのだ?」 信長が思い出して聞くと、「井戸水には目には見えませんが空気も含まれているのです」と幻影が言うと、「…それを除去した…」と信長が言った。 「処理は簡単で、井戸水を鍋にかけて沸かしただけです。  そうすれば水から空気が逃げて、  透明の氷になるのです。  金持ち相手に商売をするのもいいでしょうね」 「一度行くだけで、大金持ち確実だな…」と信長は言って何度もうなづいている。 「…ここの殿様からふんだくって、民のために使えばいい…」 信長の言葉に、「素晴らしい提案です」と幻影は言って頭を下げた。 その殿様からの使いがやって来て、幻影たちを城に招きたいと言ってきた。 渡りに船で、幻影たちは作業を一旦中断して登城した。 そして簡単に大金をせしめて、庄屋に渡してから、作業を再開した。 もちろんここの殿様には脅しをかけているので、他言する可能性は低い。 言いふらせば、阿修羅がやってくるかもしれないと言っておいたのだ。 伊勢での噂はこの地まで届いていて、一夜にして城が解体されたと噂話は大いに風呂敷を広げていた。 貧乏だった村は大いに肥えたので、この翌日に旅を再開することにした。 この日は野宿をしたのだが、その翌日に陸奥に入ってすぐに、戦車めがけて走ってくる者がいた。 ひとりだと思っていると、その後ろから大勢の侍が走ってきていた。 「ここの殿様?」と幻影が言うと、「たぶん、伊達の子倅だろう」と信長は苦笑いを浮かべて言った。 「ふーん、ヤツも隻眼」と幻影が言うと、「柳生某と同じかもな」と信長は興味がなさそうに言った。 その子倅が戦車を見上げて、「祭りでもあるのか?!」と明るい笑みを浮かべて言った。 「その前に、その眼は病気かい?」と幻影が聞くと、子倅はうなだれるついでに肯定してうなづいた。 「以前にふたりほど治したことがある。  俺の施術、受けてみるかい?」 幻影の言葉に、「…知らない人は信用しちゃいけないって…」と子倅が言うと、幻影は大声で笑った。 「今からでも遅くない。  お前の見た目で決めてみろ」 幻影が言ったとたんに、戦車は侍たちに囲まれた。 しかし子倅と話をしているので口を挟まない。 「急かせはしないが、  病であれば一刻を争うこともあるから急いだ方がいいかもな」 幻影の言葉に、「治して!」と子倅は叫んだ。 「じゃあ、乗んな」と幻影は言って手を差しだると、「政宗様お待ちを!」とお付きの者が叫んだが、「ワシの客人だ!」と政宗は堂々と言ってのけた。 「いや、お前が客だ」と幻影が言うと、誰もが大いに笑った。 「眼帯、外すぞ」と幻影が言うと、「うん、お願いします」と政宗は子供らしくはっきりといった。 幻影は眼帯を外して、「さらに軽症でよかった」と安どの声を上げた。 「だがな、ほおっておくと確実に失明だ。  早く見つかってよかった」 幻影の言葉に、「ほんと?!」と政宗が叫んだとたんに、「はぁあ!」と幻影が気合を入れると、信長が笑い転げた。 幻影は政宗の顔を拭いて、「ほら、一瞬だけ目を開いてみな」というと、政宗は言った通りにして、「…いたくないし、きちんと見えたぁー…」と政宗は大いに感動して言った。 「あんた専属の医師に診察してもらえ。  何だった連れて行ってやる」 幻影の言葉に、「あ、ずーとまっすぐ!」と政宗が明るく言うと、戦車はゆっくりと動き始めた。 天下の往来で人も多いので、それほど速度を上げられない。 しかし、戦車に城の跡取りが乗っていることで、誰もがすぐさま道をあける。 ほどなくして大きな屋敷が見えて、「あ、ここここ!」と陽気に言って政宗は体を起こして、飛び降りようとしたが、「安静にと言った」と幻影が言うと、「…ごめんなさい、先生…」と政宗はうなだれて言ってから、お付きの手を借りて戦車を降りた。 「どうか、しばしお待ちを!」と別の側近が言うと、「ええ、それほど時間はかからないでしょうからそうします」と幻影は言ったが、大いに見世物になっていた。 「すだれを下ろしてもいいですよ」と幻影が言うと、「逆に監視してやるから構わん」と蘭丸は言って双眼鏡を目にすると、誰もが慌てて逃げるようにして通り過ぎるようになった。 「いい手だ」と幻影は陽気に言った。 「そろそろ惚れろ!」と蘭丸が叫ぶと、「別の者が別の者に惚れたようだ」と幻影が言うと、「困るだろうがぁー…」と蘭丸は言って、政江を見入った。 「ああ、事情説明が大変だ…」と幻影は言って、大いにため息をついた。 「子供だよ?」と子供の長春が言うと、それでもいいようで政江は大いに顔を赤らめて両手のひらでホホを押さえつけた。 「…あー、本気だ…」と幻影は大いに眉を下げて言った。 「付き合ってみればよくわかるさ。  年齢は、弁慶とほぼ同じだぞ」 幻影の言葉に、「え?!」と政江は叫んで、一気に夢が醒めていた。 「はい、解決」と幻影が言うと、「…残酷な兄だ…」と信長は大いに苦笑いを浮かべてつぶやいた。 「身体的には恵まれていないようだが、  あの心根は素晴らしいと思う。  政江が嫁ぐというのなら反対はしない」 「…さすがに、大人になってもあのままのように思えて、やっぱり嫌ですぅー…」と政江は大いにうなだれて言った。 「だが、一国一城の主だぞ。  お前の本懐でもあると思うんだけど?」 「…じっくりと、考えますぅー…」と政江が言うと、「数日はここで観光でもいいからな」と幻影は言って、政江を見てから少し笑った。 「ここの城主とは知り合いではなくてよかったよかった」と信長は自由人として肩の荷を下ろしていた。 すると政宗は大いに迷惑そうな顔をして医局から出て来て、その後ろに医師らしき者がいた。 そして戦車を見上げて呆けている。 「用がないのなら出立するぞ」 幻影の言葉に、「おっちゃん!」と政宗が叫ぶと、医師は目を覚ましたようで、まずは幻影に頭を下げた。 「…さすがにこれほどのものはどこにも…  しかも、獣が引かずに乗ってるし、  熊だし…」 医師の言葉に、幻影は大いに笑った。 「動物にそんな酷いことはさせませんよ。  この熊は寂しがりやでね。  家族の一員として、今回の旅に連れてきたんです。  で? どうなんです?」 幻影の急かすような言葉に、「一体、どのような施術をすれば、きれいさっぱり患部がなくなるのか教えていただきたく!」と医師は勢い良く頭を下げた。 「いいでしょう。  あなたの身をもってそれを証明しましょう」 幻影は言って戦車を降りと医師の正面に立つと、「えー…」と大いに苦情があるようで、大いに嘆いて、幻影を見上げている。 幻影は強制的に医師の両肩をつかん逆を向かせて、肩、背中、腰、そして首筋に施術をして、眠ってしまった医師を同僚たちに託した。 「死んでないことだけ確認してください」と幻影が言うと、「…何が起こったんだ…」と医師たちは大いに動揺した。 「起きたら聞いてください」と幻影は言ってから、「城まで送ろうか?」と政宗に聞くと、「うん! もっと乗りたい!」と陽気に叫んだ。 そして、「えへへへ…」と照れ笑いを浮かべながら乗り込んですぐに、ここで蘭丸に気づいてホホを赤らめた。 「斬ってやろう」と蘭丸が言って長太刀を立てると、「…あー…」と政宗は言って、長太刀を見つめた。 「太刀の方に惚れたぞ?」と幻影が少し笑いながら言うと、「癪だが、別にかまわん」と蘭丸は言って鼻で笑った。 「いい子にしてたら、太刀を送ってやろう」 幻影の言葉に、「これ、打ったの?」と政宗が長太刀と幻影を交互に見て聞くと、「ああ、俺が打った」と答えた。 「なんか兄ちゃん、いろいろできるんだね…  どうして城を持ってないの?」 政宗の素朴な質問に、「太刀で人を斬ることが嫌だからだ」と幻影が言うと、「腕だけで刀を折りやがったんだ」と蘭丸が言いつけた。 政宗は少しうなだれて、「兄ちゃん、後見人になってくんない?」と懇願して頭を下げた。 「積もる話は城で聞いてやるよ」と幻影は言って政宗の頭をなでて、戦車をゆっくりと走らせた。 幻影たちは入城して、城の中でも一番豪華な貴賓室に誘われた。 「…こんなお城建ててぇー…」と濃姫が幻影に懇願すると、「…面倒な日々になります…」と幻影は大いに眉を下げて言った。 「ああ、面倒じゃ…」と信長も賛同すると、「…それはそうね…」と濃姫はうなだれて言って諦めた。 「ばば様、あまり言ってると、家族じゃなくなっちゃうよ?」と長春がいつものようにかわいらしく言ったが、「脅してやるな」と信長が言って長春の頭をなでた。 「だって、ばば様だけなんですもの…」と長春は肩を落として言った。 「お姫様気質が抜けないんだ。  長い目で見てやってくれ」 「…抜けなくてごめんなさい…」とさすがに孫に言われて、濃姫は大いにうなだれた。 「…兄様…」と政江がホホを赤らめて幻影に言うと、「話の流れでやってみるさ」と言うと、政江はさらにホホを赤らめて腰を振って喜んでいる。 すると茶が出るだけと思っていたのだが、妙に豪華な料理が運ばれてきたついでに、城主の伊達輝宗までやってきた。 ―― む、病か… ―― と幻影はすぐさま感じ、政宗のこの先の非運を悲しんだ。 だがその非運も幸運に変えることは可能だ。 「まずはお父君に施術する必要があるね」と幻影が政宗に言うと、「…だよなぁー…」と政宗は眉を下げて輝宗を見た。 「…政宗に家督を譲ることはもう決まっておる…」と輝宗は言ってから少しせき込んだ。 そしてお互い自己紹介をしあったが、輝宗は退席しなかった。 「殿の今の行為は自死に向かっているだけです」 幻影の厳しい言葉に、「…わかっておるが、やめられぬ…」と輝宗は伏し目がちに言った。 「全責任は僕がとるから!  兄ちゃん、奇跡の施術を!」 政宗が懇願すると、「そうしてやろう」と幻影は答えて立ち上がると、「…えー…」と誰もが嘆いて大男の幻影を見上げた。 「背が高くて悪かった」と幻影が言うと、笑ったのは政宗と長春だけだった。 「先に言っておくが、殿様は目覚めてすぐに腹を下すからその準備を」 幻影の言葉に、医局の者たちは数名がこの部屋から出て行った。 医局間の話し合いは終わっていたようで、施術をした医師から話を聞き終わっていたようだ。 幻影が施術を終えると、輝宗は安堵の笑みを浮かべて眠りについた。 政宗は輝宗の顔を見て、「…あー… こんな顔もできたんだぁー…」と笑みを浮かべて言った。 幻影は運ばれてきた寝台に輝宗を乗せると、側近たちが静々と運んで行った。 「この城は安泰となったはずだが、  試練は多いぞ」 幻影の言葉に、「休養してからしっかりと頑張るもん」と政宗は答えてから、素晴らしい笑みを幻影に向けた。 「…棺桶に足を突っ込んでおったか…」と信長が小声で言うと、席に戻ってきた幻影は、「…風前の灯火でした…」と小声で答えた。 ここからは朗らかに語り合い、幻影が知り合いの屋敷に出向くというと、政宗は大いに寂しがったが、引き留めることはしなかった。 「…きちんと、大人になれるかもしれないよ?」と政江が小声で政宗に言うと、「今はまだダメだ」と幻影は言って政江の頭を軽く叩いた。 政江は大いに反省して、「…明日以降だそうですぅー…」と政宗に向けて言うと、「父様が元気になってからだ!」とすべてを察して政宗は明るく言った。 「いいや! 今すぐに施術を!」と若武者が胸を張って躍り出たのだが、高職の者たちに捕らえられて下がって行った。 「…片倉重長だよ…」と政宗は大いに眉を下げて言った。 もちろん幻影はもう知っていて、幻影の知り合いが嫁いでいることも知っていた。 「あの猛将相手だと、お梅様も苦労されていると思う」と幻影が言うと、「あれ? 姉ちゃんの知り合いなの?」と政宗は気さくに聞いた。 「俺のお師様の娘子だ」という幻影の言葉に、「…あー、よかったぁー…」と政宗は大いに胸をなでおろしていた。 もちろん、幻影と関係があったことを喜んだのだ。 「だけど姉ちゃんって、重長よりも怖いよ?」と政宗が言うと、幻影は大いに笑った。 「…手広くやっておる…」と信長は言って鼻で笑った。 「もっとも、お会いしたことはないから、  こちらには来られないようだ」 幻影の言葉に、「…武家の世界のあるあるだよね…」と政宗は言って大いに苦笑いを浮かべた。 幻影たちは城を出て、この城下町の少し東にある亀良屋の前に戦車を止めると、店主が飛び出してきて、まずは幻影と話をした。 屋敷は広く南に下ると大きな門があるそうなので、戦車を裏手に回した。 戦車が屋敷に吸い込まれると、やじ馬たちは、「…あーあ…」と言って大いに残念がった。 祭りでもあるのかと思ったようでついてきていたのだ。 幻影たちが朗らかに店主と挨拶を交わしていると、「ごめん!!」と店の方で男の雄々しき声が聞こえた。 「幻影様! いらっしゃるのですね?!」と今度は女性が叫ぶと、幻影は大いに眉を下げた。 幻影が眉を下げて弁慶に目配せすると、弁慶はすぐさま頭を下げて、店主とともに店に行った。 「夫婦ともに勇ましい…」と信長は言って苦笑いを浮かべた。 「どうして、弁慶お兄様なの?」と政江が少し悔しそうにして幻影に聞くと、「試すという意味もある」とすぐさま答えた。 すると、「違います! あなたではありません! いい男だけど!」と女の叫び声が聞こえると、幻影は大いに笑った。 「人を見る目はすごいものがあるね」と幻影は大いに眉を下げて言った。 「試すとは猪口才な!」とまた女性の声が聞こえた。 「…優秀な家臣のおかげで城は安泰だ…」と幻影が言うと、「さもありなん!」と信長は機嫌よく叫んだ。 この先は庭先でお見合いが始まって、「お初にお目にかかります、阿梅様」と幻影は言って頭を下げた。 「初めてじゃないもん!」と阿梅は言って幻影をにらみつけた。 「いえ、私にはお会いした記憶はございません」 「御屋形様の修行を受けてたもん!  ちゃんと見たもん!」 阿梅の言葉に、「見たって、当時はまだ乳飲み子、赤子だったはず…」と幻影が大いに嘆くと、「…たぶんそう、かもぉー…」と阿梅は一転して肩を落として言った。 常識的に考えて、一方的に阿梅が見ただけだと察したようだ。 「…きっと、私が五才児程度の頃です…」と幻影が言うと、信長は理解して何度もうなづいた。 「幻影様が政宗様とともに天下をお取りなさい!」と復活した阿梅が叫ぶと、幻影は長い話をして、阿梅とさらには重長に頭を下げさせた。 もちろん、信長がここにいることまですべてを話したからだ。 「…主がおられるのならば仕方ないわぁー…」と阿梅が大いに嘆くと、「…理解はしたようだけど、微妙な反応ね…」と濃姫が大いに苦笑いを浮かべて言った。 「しかしこの話は誰も信じません。  様々な者に無駄に疑わせると面倒なので、どうかご内密に」 幻影の言葉に、「我らだけが知っていることが重要なのです!」と重長が胸を張って言った。 「ええ、色々とお願い事もあるでしょうから」と幻影が答えると、重長も阿梅も素早く頭を下げた。 「ですが阿梅様には縁があります。  ここは袖の下を…」 幻影の言葉に誰もが笑って、長春と政江が静々と髪飾りなどを持って来て、机の上に並べた。 「全部下され!」と阿梅が大いに欲を出して叫ぶと、「…それは過ぎたる報酬だ…」と重長が窘めると、阿梅は渋々だが黙り込んで、「…あら、梅…」と笑みを浮かべて言って、梅の髪留めを手に取って笑みを浮かべた。 「…阿昌蒲の分ももらって行っていい?」と今度は阿梅は申し訳なさそうに言った。 「できれば直接お渡しいたします」という幻影の言葉に、「…交換しあいっこして使おうって思ってたのにぃー…」と言って少し悔しがっている。 「先に言っておきますが、今のお召し物とほぼ同額ですから」 幻影の言葉に阿梅は手が震えているのだが、すぐさま髪に差して知らん振りを決め込んだ。 さすがに高職の妻なので、素晴らしい着物を着ていた。 帯だけでも小さな家程度は建てられるほど高価なものだった。 「ちなみに、現在は琵琶高願と名乗っています。  髪飾りにも銘を刻んであります」 幻影の言葉に、阿梅はすぐに確認して、「…琵琶、高願…」と読んでひとつうなづいてから髪に戻した。 「琵琶高願!!  高野山の大天狗!!」 重長が叫んで幻影を見入ると、「はい、間違いありません」と幻影は答えて頭を下げた。 「…父様に会いに行かれたのですね…」と阿梅は言って少しうなだれた。 「ここ一年ほどは行っていませんけどね…」と幻影は苦笑いを浮かべて言うと、「…父様がいけないので構わないのです…」と阿梅は正しい見解を寂しそうに言った。 「私たちは素早い復興だけに従事するように決めているのです。  よって天下取りなど、一切興味はないのです」 幻影の言葉に、「…お仲間になりたぁーい…」と言って阿梅は戦車を見た。 「親睦を図るため、水遊びなどどうです?」と幻影が提案すると、「今、すぐに!」と阿梅が言ったが、すぐさま重長に窘められた。 もちろんお遊びは、様々な問題が解決してからの話だ。 しかし息を抜く話をしておかないと、早急な親睦は図れない。 「…親睦を図るため、寝所はここでもいいし、お城でもいいわぁー…」 濃姫の言葉に、今度は信長が窘めていた。 幻影はお家以外の杞憂などを聴取してから、重長夫妻は城に戻って行った。 やじ馬たちはこの大店で何が起こっているのか大いに考え込んでいて、城に向かって頭を下げていた。 しかし、ただただ興味があって野次馬をしているわけではないのだ。 「困った問題は、結局は人足不足だけのようですね。  街道整備は、散歩がてらにできますので簡単です」 「あとは、越後米沢との諍いか…」と信長はため息交じりに言った。 「兵不足も否めませんが、  農民が協力的なところが素晴らしいですね。  お殿様は大いに慕われているようです。  後押しとして天狗を出してもいいでしょう。  多少の足止めは可能です」 「よきにはからえ」と信長が機嫌よく言うと、「出番だ!」と蘭丸は大いに叫んだ。 「…天狗だけだ… 阿修羅とは言っていない…」という幻影の言葉に、蘭丸は大いに落ち込んで、長春と政江に慰められ始めた。 「だが、母君の立場がないだろ…」と信長が言うと、「琵琶高願が真田幻影という事実を知っている者は少ないですから」と幻影がなんでもないことのように言うと、「…そうであった…」と信長は言って大いに苦笑いを浮かべたが、すぐさま笑みに替わった。 「ですが、上杉側には特に隠すつもりはありません。  上杉のこの先は暗くはないですが、  頂点に立てるとは思えませんので。  真田幻影が謀反を働いたに等しいですからね」 幻影の言葉に、信長は愉快そうに笑って膝を叩いた。 「それに、祭りの中止は、  城下にとって大いにやる気をなくすことだと思います」 幻影は言って、菓子を入れている籠を手にとってふたを開けた。 「公言はできませんが、それなりの雰囲気醸し出すために、  この菓子を配るか安価で売りますか…  民たちはお祭り騒ぎをしてしまった私たちが来たことで、  希望をもってくれるような気がするのです。  もちろん、祭りを行う方向で、お殿様に上申しましょう」 「ああ、そういった平和な行事は必要だろう」と信長は言って腕まくりをした。 幻影たちは家族総出で菓子作りに従事した。 売っても配ってもいいほどでき上がったが、この城下の人口はそれなりに多い。 よって、大勢の人に行き渡らせるために、子供限定で安価で販売することに決まった。 亀良屋の店主に話を通すと味見をした結果、全てを買い取って店先で売ることに決まった。 それだけでも幻影たちは大いに助かるのだ。 翌日の朝から販売を始めると、子供たちは大いに喜んで買っていく。 そして大人たちは店番に、「祭り、やるの?」と必ず聞いてくる。 もちろんその事実はないので、「聞いてはおりません」とだけ答える。 幻影たちは早速登城して、殿様のご機嫌伺いに行った。 城主の輝宗は調子が悪いようなことを言っているのだが、食事をいつもの三倍ほど食べて、満腹感からなのか眠ってしまったようだ。 よって家老たちは大いに機嫌がよく、幻影たちに大いに礼を言った。 すると幻影たちの登城を知った政宗がやって来て、いきなり鼻を鳴らし始めた。 「若、何をしていらっしゃる」と家老の片倉重光が眉をひそめて聞いた。 「…いや、なんだか甘い匂いが…」と政宗は言いながらも、四つん這いで長春たちに近づいていく。 「あ、これ?」と長春が千代紙で作った袋を出すと、「お祭りにでも行ったのっ?!」と勢い勇んで聞いてきた。 長春が事情を話すと、「重長! 出るぞ!」と叫んだのだが、幻影の顔を見てうなだれた。 「菓子ならいくらでも作るから、大人しくしてな」と幻影に嗜まれて、「…ごめんなさい…」と政宗は素直に謝って畳に座った。 「…そういえば、確かに甘くいい香りが…」と重光が言い始めたので、幻影が祭りのことについて語り始めた。 「…殿の体調は、全く問題ないと察しますし、  今までで一番元気だと判断しています…」 重光は言って、改めて幻影に頭を下げた。 「何か杞憂がおありのようだ。  もしよろしければお話し願いたい」 信長の重厚な言葉に、「…はい、実は…」と重光は言って、重大な事情を話し始めた。 すると、「やだよ」と政宗は言ってそっぽを向いた。 「何をおっしゃるか、政宗様!」と重長が目くじらを立てて言い放った。 「…子供のままがいいなぁー…」と政宗が言うと、幻影は大声で笑い始めた。 「だったらさぁ、政宗が好きなように祭りを主宰すれば?  きっと、城下の誰もが喜んでくれると思うから。  政宗だって楽しいと思うし、  働くのは大人の仕事だから、政宗も祭りを楽しめばいいんだよ」 「…あっ あー…」と政宗はつぶやいて大いに考えてから重長を見た。 「政宗様の号令で、我らは大いに働きましょうぞ」と重長が堂々と言うと、政宗は今までに経験した楽しかったことや、別の地で聞いた催し物などを元気よく語り始めた。 今のところは家老の重光の考えでしかないが、輝宗は政宗に家督を譲る気でいると語ったのだ。 もちろんそれを政宗が嫌がった。 しかし、祭りとは別なので、幻影が提案すると、政宗は乗ってきた。 しかし、民たちは政宗が主宰する祭りだということは気付くので、政宗を大いに崇めるだろう。 よって政宗は家督相続を無碍には断れなくなってしまうはずなのだ。 それは今ここにいる陽気な政宗の存在感だ。 家臣たちはそれを盾にとって、政宗を説得するはずなのだ。 家老の重光は泣いていた。 今の政宗は子供に見えてもある意味大人の発言力を持って語っている。 まだ十六才なので、家督を継ぐことは確かに拒むだろう。 しかし、幻影たちの存在に大いに期待もしていたのだ。 まさに幻影は家督を継ぐようにと推薦したことと変わりがない。 事情は分からないのだが、重長と阿梅の機嫌がすこぶるいいので、いい友人関係を築いたのだろうとも考えていた。 ひと通り会議は終わり、家臣たちは決まったことから順に準備を進めた。 政宗は幻影にねだって菓子をもらう算段をして、亀良屋に戻って菓子を山ほど作り上げた。 そして屋台で売る子供だましのおもちゃなどの提案をすると、幻影が全て政宗が思った通りのものを作りだす。 年齢は近いが子供でしかない政宗を、幻影は友にしたいと思ってしまった。 幻影は真剣な顔をして、「最後の施術をいたします」と政宗に言うと、「あ、うん!」と政宗は陽気に言って、幻影の目の前に座った。 「じゃ、立って」と幻影は言って政宗とともに立ち上がって、肩、腕、背中、腰、脚に入念に気功を当てた。 そしてゆっくりと首筋に当てると、政宗は眠ることなく笑みを浮かべた。 「いやぁー… なんだかすごい」と政宗が言ったとたんにある変化に気付いた。 「徐々に大人になることでしょう。  ですが、政宗様はひとりではありません。  友人という私たちもいますし、  優秀な家臣の方々もおられます。  これからも堂々と過ごされよ」 幻影の力強い言葉に、「兄ちゃんは誰よりも大人だよ!」と政宗は言って幻影に抱きついた。 「体調を見ながら、剣も鍛えてやろう」 幻影の力強い言葉に、「蘭丸さんとどっちが強いの?」と政宗は言って胸を張っている蘭丸を見た。 「お蘭が泣くから本気では戦わない」と幻影が答えると、政宗は陽気に笑い始めた。 蘭丸はひとこと言いたかったようだが、勝てる自信が全くないので、何も言わずに立ち尽くしていた。 「なんなら、木刀で勝負するかい?」と幻影が言うと、「本気じゃないから、今日はそれで我慢してやるぅー…」と言って、蘭丸は庭に降りた。 幻影は異様に長い木刀を蘭丸に投げ、幻影は通常の長さの木刀を手に取って、片手で地面に向けて振ると、『ブンッ!』という普通ではない音がした。 「…木刀なのに、真剣と変わんない…」と政宗はマジメ腐った顔をしてつぶやいた。 「…うー… くっそぉー…」と蘭丸は言って、両手の震えが止まらない。 真剣ではないのに怖い。 しかし交えてみないとわからないと思い、「はっ!」と叫んで木刀を上段から振り下ろした。 「邪念だらけだ! もう一度!」 幻影の気合の入った言葉に、蘭丸は深呼吸をしてから、幻武丸を構えているつもりになって、いつものように振り下ろした。 すると、『ブンッ!』という手ごたえのある風切り音が聞こえて笑みを浮かべた。 「指導を受けて立ち直ったから、蘭丸姉ちゃんの負けだよ」と政宗が言うと、「まだ戦ってない!」と蘭丸は大いに抵抗した。 「お蘭の剣は決して受けてはいけない。  受けても、真剣と同じで斬られることだろう。  よって、どうにかして避けなければならない。  これは戦場でも同じことなんだ。  受ければ受けるだけ、太刀が悲鳴を上げて、  使い物にならなくなるものだ」 幻影の指導に、政宗は真剣な目をしてうなづいた。 蘭丸は上段に構え、幻影は中断に構えた。 勝負は一瞬だった。 蘭丸が、「キェ―――ッ!!」と気勢を上げた瞬間に、長い木刀は地面に埋まっていた。 「ほら勝った」と幻影が言うと、政宗は目を見開いていた。 幻影はいつの間にか、蘭丸の正面ではなく右側にいた。 よって、剣風を受けることはなかった。 さらには、長い木刀の峰に幻影の木刀を合わせて、さらに勢いをつけた。 よって木刀の勢いを抑えきれずに、蘭丸の長い木刀は地面に埋もれてしまったのだ。 「おふたりも、どこにもいない剣術家です」と政宗はつきものが落ちたように言って、ふたりに丁寧に頭を下げた。 「…こいつが剣を持ってることがおかしいんだぁー…」と蘭丸は言いながらも泣きだし始めた。 「剣がねえと届かねえだろ?  それに、この程度で泣くな」 「悔しいんだから仕方ねえ!」と蘭丸は涙声で叫んだ。 「そんなことよりもおもちゃの材料を切り出しておいてくれ。  あっという間だろ?」 「…俺のご神刀を何だと思ってやがる…」と蘭丸は泣き止んでから、幻武丸を鞘から抜いて、目に見えない速さで木を切り刻み始めた。 「ほら、お蘭だってとんでもねえだろ?」と幻影が言うと、「はい。お知り合いになれて本当に幸せです」と政宗は言って頭を下げた。 しばらくすると、政宗は書を認め始めた。 書簡ではなく、祭りの告知だ。 「…ふむ…」と幻影は言って、政宗の真似をするように広告を描き始めた。 「…兄ちゃんって、できねえことねえの?」と政宗が芸術作品のような広告を見て眉を下げて聞くと、「子供を産めない」と答えると、信長が大いに笑い転げた。 「…あはは… そりゃそうだ…」と政宗は言って大いに苦笑いを浮かべた。 「女子は男に子供を産ませられないからお相子だ」 「…うう… それはそうだけどぉー…」とつぶやいて、釈然としない思いが残った。 しばらくすると政宗の家来がやって来て、重大なことを告げて、政宗を大いに気落ちさせた。 祭り用の資材置き場に行って神輿を確認すると、虫食いが激しく使い物にならないと報告してきたのだ。 幻影はすぐさま神輿の確認をして、それを絵に描いてから、全く同じ神輿を作り上げた。 「手下に何でも言ってくれ」と幻影が言うと、「兄ちゃん! ほんとにありがと!」と政宗は言って、幻影に抱きついた。 そして新しい神輿は亀良屋の店先に飾られて、城下中が活気に満ち溢れ始めた。 もちろん、亀良屋が城に献上するという意思表示だ。 「あっ 子供神輿、いい?」と政宗が遠慮がちに言うと、「いいに決まってる!」と幻影は大いに張り切って、通常の大きさの半分の神輿を作り上げて、これも店先に飾った。 すると大勢の人たちが亀良屋を訪れて、新品の神輿を見ながら子供たちに駄菓子を買っていく。 しかし、買ってもらえる子供ばかりではない。 「…うふふ…」と長春は笑いながら、四人の子供の集団の前に立った。 「あら、お金が!」と政江が大いにわざとらしく言って、道に小銭をばらまいた。 「みんなで拾ってあげて!」と長春が叫ぶと、あっという間に拾い終えた。 「あー… 駄菓子が食べたいから買ってきてぇー…」と政江が甘えた声で言うと、子供たちはすぐに駄菓子を買って戻って来て、政江に差し出した。 すると政江はお菓子を六等分して、「お金を拾ってくれたお礼」と言って、長春を含めて五人に菓子が入っている袋を手渡した。 子供たちは大いに喜んで、「ありがと!」と陽気に礼を言って走り去った。 「正当な理由があるから大人に叱られない」と長春が言って、計画した政江に満面の笑みを向けた。 「次、あそこあそこ」と政江は言って、同じ手を使って子供たちに菓子を買い与えた。 「…って、いうことがあったのぉー…」と長春は大いに駄菓子を食い散らかしてた。 「いいことをしたようだが、その反動でブクブクに太るぞ」と幻影がにやりと笑って言うと、長春は慌てて袋の口に封をして、菓子籠に入れた。 「ご神体の神社に行きたいんだけど、案内してくんない?」と幻影が気さくに言うと、政宗は勢い勇んで立ち上がって、「え?」と言って辺りを見回して、同じようにして立ち上がった長春と政江を見た。 「あら? 身長が伸びたのね」と政江が笑みを浮かべて言うと、「…あー…」と政宗は大いに戸惑って言ったが、「ほら行くぞ」と幻影は気にすることなく政宗を急かせた。 もちろんお付きはいて、重長がぼう然とした顔をして政宗を見入っている。 「ほらほら、時間は無限ではないぞ!」と信長が笑みを浮かべて叫ぶと、重長と政宗は素早く頭を下げて、幻影を追いかけた。 目的の神社はかなり立派で、もうすでに櫓を組む作業をしている。 さらには一部のお囃子などの練習を始めているが、楽器がそれほどいいものではないようで、音が外れまくっているように聞こえる。 「楽器も造り替えた方がいいんじゃない?」と幻影が言うと、「…さすがに安くないんだ…」と政宗は言って少し落ち込んだ。 「…ふーん…」と幻影は言って、神社の奥に入って、竹の枝を数本切って来て、あっという間にしちりきを造り出して、素晴らしい音色を聞かせた。 すると多くの鳥たちと多くの子供たちと多くの大人たちが集まってきた。 幻影は笑みを浮かべて数本のしちりきを作り出して、軽く講義をしてから演奏を始めた。 そして竹を切って、今度は尺八を作り出し、さらには腐った木を切り倒して、使える部分だけを選別して、鼓や小太鼓、大太鼓を作り上げて、まさに祭り当日のように素晴らしい音色を境内に響かせた。 「…もう、祭りになっている…」と重長はつぶやいて大いに感動していた。 そして幻影がいなくなったが、境内に戻って来て、様々な音色の鐘を叩き始めて、大勢の熟練の楽師たちに託した。 その中にはここで作り上げた木琴があって、物珍しそうにして見入ってから、叩いて驚いている。 この知識も長崎から仕入れていたものだ。 やはり楽師は感性が豊かで、即興で作曲して演奏を始めると、誰もがうっとりとしたり空を見上げて大いに感動を始めた。 そして大太鼓を櫓の上に上げて、幻影はが試し打ちとばかりに叩くと、さらに大勢の民たちが集まってきたので、まさに祭りさながらとなっていた。 社務所の関係者たちや民たちが本殿などの掃除をしていたのだが、細かい部分が老朽化していたりしたので、幻影が新品同様になるように細工を施した。 「神も喜んでいることだろう」と幻影が胸を張って言うと、政宗は羨望の眼差しで幻影を見入って、「もう甘えてられない!」と陽気に叫んで幻影に頭を下げた。 「まだまだ甘えろ!」と幻影は気さくに言って、政宗の頭をなでた。 この近隣は果物が豊富だということに今気づいた。 祭りの日はまだ先なのだが、今日の分のお供えということで、常識的な量のものが、本殿内に奉納された。 「この山桃がうまそうだな…  菓子に流用するか…」 幻影は言ってから農家の者に聞き取りをして、様々な知識を仕入れた。 やはり農業はところ代われば品代わる、なので、大いに勉強になる。 逆に幻影が仕入れた知識などを披露すると、農民たちは礼を言って早速様々なことを考え始める。 幻影は長春と政江を連れて、農家や山を巡って、果物を大量に仕入れて来てから菓子を作り上げた。 現地の産物で作り上げた菓子に、一番に亀良屋の店主が飛びついて、「…懐かしい味だ…」と子供のころを思い出しながら感慨深げに食べ始めた。 ここですることではないと思ったのだが、この地にはせんべいを商売にしている店がないので、ここがせんべい工場になっている。 濃姫は食べることが目的で、率先して作業をして汗を流している。 くず米などを安く仕入れてきていたので、材料はいくらでもある。 その分農家も潤ったので、全ての者の利点となっていた。 まさにこれが祭り効果でもあるのだ。 政宗一行も戻って来て、城で執務をすると堂々と言ってから、幻影に丁寧に礼を言ってから、城に戻って行った。 その背丈はもう弁慶に近づいていた。 「素晴らしい可能性を秘めていたようですね」と弁慶が穏やかに言って笑みを浮かべると、幻影はハタと気づいて、自分自身の体の確認をして、「…生き急いでいるか…」とつぶやいた。 幻影は作業小屋に入り、大いに気合を入れて、手に気を集めて体中にかざすと、―― これは辛い! ―― と考えたが、これも修行とすることにして、両手のひらを首筋に当ててぐったりとした。 すると、体中の穴という穴から体液があふれ出したが、幻影は理解を終えていたので慌てることはなかった。 そして体の痛みもなく、汚れた地面の掃除をしてから、古い鎧を出して着た。 幻影の巨大だった体が、二年前とほぼ同じ背丈にまで縮んでいたのだ。 「…巖剛…」とつぶやいて、歯形がついている右手の小手に触れてから外に出た。 もちろん、何かあると幻影の家族たちは思っていたのだが、体が小さくなるとは誰も思わなかったようで、目を見開いていた。 中でも巖剛が一番に幻影に怯えていた。 「ほらほら、怖くねえぞ」と幻影が穏やかに言うと、巖剛は幻影に突進してきた。 体は小さくなったのだが、その力は体の奥から湧き上がってくる。 巖剛の巨体をもろともせずに、幻影は抱き締めた。 「あのままだと危険だったようだな」と信長が言うと、「私の技は、正常化に近づけるものだったようです」と幻影は機嫌よく言って頭を下げた。 「…俺の方がでかいんだけど…」と蘭丸は言って眉を下げている。 「だからこそ、俺からの見た目は魅力が上がったさ」という幻影の言葉に、蘭丸は大いに喜んだ。 そして勝負を挑んできたのだが、簡単に負けてまた落ち込んだ。 「正常化は、幻影の力だけではないように思うんだが?」と信長が言うと、「菓子を神社に奉納してきます」と幻影は笑みを浮かべてはぐらかすように答えて、菓子を見繕って大きな籠に入れた。 ここは家族総出で、神に礼に行った。 幻影はまだ有名人ではないので、旅人たちの中に体がでかい者がいないと思っただけで、民たちは誰も気にもしなかった。 城の役人もいるのだが、幻影たちに朗らかにあいさつをしただけだ。 「…お妙さんのいった通りだった…」と幻影が料理支度場の気のいいおばさんを思い出してつぶやくと、「里の会津にいるそうだぞ」と信長がすぐに答えた。 ここからだと近いので、帰りにでも会いに行くことに決めた。 幻影は今日のところは体を休めることにして、家族とともに風呂に行ってから、屋敷の中庭を片付けて、就寝まで穏やかな時間を過ごした。 この日から、祭り直前まで仕事に従事してから登城すると、早速政宗が出迎えたのだが、「どうして縮んだの?!」と大いに嘆いて幻影を見入った。 「化け物が人間に戻っただけだ」と幻影が気さくに答えると、「…そうか… ある意味病気だったんだね…」と政宗は正しく理解して眉を下げた。 「だがな! 前よりも強ええんだ!」と蘭丸は幻影に指をさして叫んだ。 「…あはは… すっごく濃縮されていることはわかってたよ…」と政宗は眉を下げて言った。 「…簡単に認められちまった…」と蘭丸は大いに嘆いてうなだれた。 「ここで戸惑ったら、破門になるからね」と政宗が言うと、「…まあ、それは、状況によるかな?」と幻影は眉を下げて答えた。 「だが、体が正常化したことで、  弟たちとさらに親密になった」 幻影は機嫌よく言って、弁慶と源次と肩を組んだ。 「…強くて仲のいい兄弟っていいなぁー…」と政宗は大いにうらやましがっていた。 「そこはな、血縁者ではなく他人だからかもしれないな」 幻影の言葉は目からうろこで、家族たちは大いに賛同した。 そして本題を幻影が語ると、「えっ! 祭りはもうすぐなのに?!」と政宗はさすがに大いに戸惑った。 「俺たちは十分に堪能したから。  それに、南側が気になるから見に行ってから、  俺の血縁者に会いに行ってくる」 この事情は政宗は聞かされていて知っていたので、「…できれば戦にしたくないけど、城主は民のために…」と政宗は決意の目を幻影に向けた。 もちろん敵対ではなく、その時々の状況に合わせて行動するという厳しさがある考え方だ。 「真の家族は代えられないから仕方のないことだよ。  それが、この戦乱の世だと理解している」 幻影のこの厳しい言葉を政宗はまた糧にした。 幻影たちは政宗の大勢いる配下たちに見送られて、戦車を南に向けて走らせた。 幻影たちは慎重に進み、米沢城下の監視を始めた。 今はそれほどに動きはないようなので、旅人を装って山を下りた。 もちろん関所で止められたのだが、「観栄寺に行く」と幻影が答えると、役人たちは目を見開いた。 すると早速早馬が関所を出て行った。 「待ってろって?」と幻影が機嫌悪そうに言うと、「…うう…」と役人はうなってから大いに考え込んで、「…通れ…」となんとか威厳を保って答えた。 戦車は一路観栄寺を目指して走り、あっという間に到着して、戦車を大回りさせて山頂まで登った。 「山道が整備されたわい」と住職の綿貫が機嫌よく言って、幻影たち琵琶一族を歓迎した。 この綿貫と幻影も実は血縁者で、大叔父と甥の関係になる。 「妙栄尼は健勝である」と綿貫がお堅く言うと、「それは何よりです」と幻影は答えて戦車を降りた。 「…まあ、武将がひとりだけおるな…」と綿貫は言って、蘭丸を見入った。 「…じじい、余計なことを抜かすな…」と蘭丸がうなると、「怖い怖い!」と綿貫は陽気に叫んで高笑いをした。 「…門番だからな…」と信長が鼻で笑って言うと、「光栄です」と蘭丸は快く答えて素早く頭を下げた。 「高野山の大天狗はそなたではなく、あの女人の方か?」と綿貫が幻影に聞くと、「琵琶高願の名は伝わってないんですか?」と幻影が聞いた。 「…あ、それは聞いているが…」と綿貫が大いに戸惑っていると、「琵琶高願です」と幻影が頭を下げて言うと、綿貫は大いに戸惑っていた。 「さらにややこしくなって都合がいいです」と幻影は言って、愉快そうに笑った。 「あ、そうそう、袖の下…」と幻影が言うと、「物騒なことを抜かすな」などと綿貫は言ったが、もらったものは駄菓子類だったので、大いに苦笑いを浮かべた。 しかしその中のひとつが異様に重かったので、綿貫は丁寧に頭を下げながら手を合わせた。 幻影は早速母親と面会を果たすと、妙栄尼は信長たちを見入って目を見開いた。 「…幽霊がおられるようです…」と妙栄尼がつぶやくと、「はい、寺ですから、幽霊の一体や二体はいることでしょう」と幻影はさも当然のように言った。 「おほほほ」と妙栄尼は愉快そうに笑って、幻影たちを貴賓室に誘った。 「実は、陸奥の方と懇意になりました。  次期城主の伊達政宗と義兄弟に」 幻影の言葉に、「…みなさん、大慌てね…」と妙栄尼は他人事のように言ってため息をついた。 「ええ、大慌てで城に早馬を送りましたので、  ほどなくここに来ることでしょう。  そして余計な者までついてくれば、  さらに都合はいいです」 幻影は言って源次を見た。 「あら、よく似ていらっしゃる」と妙栄尼は慌てることなく薄笑みを浮かべて言って、源次に頭を下げると、源次も笑みを返して素早く頭を下げた。 幻影はここまでの武勇伝をすべて語ると、妙栄尼は立派になった息子に涙して、大いに感動していた。 もちろん、幻影が表舞台に立たないことは理解しているが、祀り上げられることだけを杞憂に思っている。 すると門前で馬蹄の音が響き渡った。 「八頭」と幻影がすぐさま言うと、「いや、九頭」と蘭丸が対抗するように幻影をにらみつけて言った。 「八頭だと思ったが?」と信長が言うと、蘭丸は大いにうなだれた。 「だけど勘違いはするはずだよ。  一頭の蹄の音がおかしいから。  蹄鉄が外れかかってるんじゃないの?」 幻影の言葉に、信長は大いにうなづいて、蘭丸を大いに悔しがらせた。 「おほほほほ」と妙栄尼は淑やかに笑った。 すると玄関が大いに騒がしくなり、そして廊下ではなく中庭から鎧姿の武人が八名姿を見せた。 「合戦をする勢いだね」と幻影が眉を下げて言った。 その大将は、『愛』の兜をかぶっている、直江兼続だ。 八人は統率の取れた動きで片膝をついて、「ようこそいらっしゃった、我が主よ」と兼続は禁句を言って頭を下げた。 「誰のことだい?  また髷を斬ってやろうか?」 幻影の威厳のある言葉に、兼続は大いに戸惑った。 「先に言っとくけど、  北の方に心の友と愛する城下ができたから。  北進することはお勧めじゃないよ。  俺たちが全力をもって阻止するから。  越後の国がなくなることも示唆してもらっておいてもいい」 幻影の本気の言葉に、「この少人数で何ができる!」とひとりの荒れ武者が叫ぶと、蘭丸がふわりと中庭に降りて、すらりと長太刀を抜いて上段に構えた。 「…首をはねてやろう…」と威厳をもって穏やかそうに言うと、声を荒げた者は、「ひっ!」と短く声を上げて失禁した。 「教育がなってない。  誰が頭に立っても、  ここにいる八人は追放だね」 幻影が気さくに言ったのだが、誰も聞いていなかった。 今は阿修羅でしかない蘭丸を見入っていたのだ。 「試しに今から米沢を落としてもいい。  この阿修羅ひとりでな」 幻影の言葉に、「おう!」と蘭丸はすぐさま機嫌よく返事をしたが、「阿修羅じゃあねえ!」と大いに反論した。 蘭丸は長太刀を上段に構えたまま、「…琵琶、胡蝶蘭、ですぅー…」と恥ずかしそうに偽名を名乗ると、幻影は、―― いい名だ… ―― と思って、雄々しき蘭丸に笑みを向けた。 「琵琶?!」と兼続が叫ぶと、「琵琶高願を知ってるだろ?」と幻影がすかさず言うと、「…大天狗が出たとは聞いております…」と答えて頭を下げた。 「なんでも翼を持っていて空を飛んだそうだ。  こんなもの、子供でも言うはずがないね」 「飛んだじゃないか!」と蘭丸が大いに叫ぶと、「一緒に飛んだよ?」と長春もこの話に乗ってきた。 「もう飛んでやらない」と幻影が言うと、「えー…」と長春と政江が大いに嘆いた。 「政江は俺が恥ずかしいから、抱いて飛ぶことはないぞ」という幻影の言葉に、政江は、「大きくなりたくなかったぁー…」と大いに嘆いた。 「悩め悩め!」と幻影は陽気に兼続たちに向かって言った。 「…とにかく、太刀を納られよ…」と兼続が比較的穏やかに言うと、「ふん! やなこった!」と蘭丸は即座に拒否した。 「挑発すると太刀が届いていないはずなのに斬られるぞ。  それほどの剣風を持っているんだ。  その程度のことがわかんないの?  あんたたちとは格違いだから帰んな」 幻影の威厳がある言葉に、兼続は少し振り返って、「下がれ」と指示してから立ち上がって、素早く頭を下げてから、外に出て行った。 小坊主がすぐにやって来て、汚れてしまった中庭の掃除を始めた。 「みんな、ごめんね!」と幻影が陽気に言うと、顔を向けた三人の小坊主たち全員のホホが膨らんでいた。 「…菓子、もらったんだな…」と蘭丸は大いに苦笑いを浮かべて言って、長太刀を鞘に収めた。 「お堅すぎるのも問題さ」と幻影は気さくに言った。 「…あら、いいものをいただいたのね…」と妙栄尼がうらやましそうに言って幻影を見た。 「…和尚に頂いてください…」と幻影が大いに眉を下げて言うと、「…面会すると、俗世の想いが大いに沸くわ…」と妙栄尼は嘆いて、手のひらを合わせた。 「寺なんて、なまぐさ坊主ばかりですよ」と幻影は言って、きらびやかな巾着を妙栄尼に渡した。 「あら、きれい…」と妙栄尼は言って幻影に頭を下げて、中身の興味よりも巾着を大いに見入っている。 「そういったものも作って商売をしています。  今はまだ細々と、ですけどね」 「いいえ、その程度のものではないと感じています」と妙栄尼は穏やかに言って、巾着を手のひらに挟んで拝んだ。 「武力ではなく商売で天下を取る予定です。  今ある武力的力は、  我らの身を守る盾でしかないのです」 幻影の言葉に、「…平和です…」と妙栄尼は穏やかに言って、幻影に薄笑みを向けた。 「はい、平和も手に入れてみせましょう」と幻影はここまで言って言葉を止めた。 できればここで、妙栄尼を連れて旅を続けたいほどだったのだ。 しかしそれは、肉親に対する甘さでしかない。 「妙栄尼様は得意なことがおありか?」と信長が幻影の想いを察して聞くと、「…花嫁修業の、家事手伝い程度でございます…」と妙栄尼は肩を落としてつぶやいた。 「光るものを見つけられ、極められよ。  そうすれば大天狗が迎えに来ることだろう」 信長が予言のように言うと、「…精進いたします…」と妙栄尼は言って、手のひらを合わせて頭を下げた。 「…寺が潤うのであれば、奮起せねばなりません…」と妙栄尼はふつふつとその想いを高め始めていた。 幻影は庭を見入っていた。 「ふたりの残りましたね」と幻影が言うと、「追跡班じゃろう」と信長が答えると、幻影は音の出ない笛を吹いた。 すると、『ギャアギャア!』と鷹の鳴き声がした。 今は境内の一番高い木の上にいて、目標物に向かって鳴いている。 そして鳴きやまない。 しばらくして鷹は位置を変えてまだ鳴き続ける。 鈍い者でも、これが何を意味するのかは理解できたようで、二頭の小さな蹄の音が聞こえてきた。 しかし鷹はそれを追ってまだ鳴き続けている。 「よく理解できたことじゃろうな」と信長が言うと、幻影はまた笛を吹いた。 すると鷹は戻って来て、中庭に降りてきた。 長春が笑みを浮かべて餌と水を与えると、鷹はすぐさま高い木の上に向かって飛んで行った。 「…今のをやれと…」と妙栄尼が大いに嘆くと、「…今のができれば、この世で最高の武将にもなれるでしょうね…」と幻影は眉を下げて答えた。 幻影が人間的な特技として、様々な情報を提供すると、「…精査いたします…」と妙栄尼は答えて頭を抱え込んだ。 「…丁寧な説明でよい…」と信長は言って、頭を抱え込んでいる家族たちを見て鼻で笑った。 このあと、幻影たちは江戸に戻り、来る日を待ちながらも鍛え上げ、経済的にも大いにうるおい、時には旅をして、同志たちと肩を組んだ。 「ついに家康が秀吉に頭を下げた」と信長が書簡を見ながら声を発すると、「本格的に江戸に来そうですね」と幻影は明るい笑みを浮かべて言った。 もうすでに、江戸南部や北部などは、家康の手の者が配属されていて徳川一色に染まりそうな勢いだった。 しかし厳しいものは何もなく、小競り合いなどはそれほど起ることはなく、まさに平和に見える。 その実状を幻影たちはしっかりと理解している。 家康が秀吉に臣従したことで、時代は一気に動くと幻影は疑わなかった。 鬼や阿修羅や大天狗、さらには琵琶高願のうわさはその土地に残るだけで、もう広がっていない。 そして幻影は大人になっていたのだが、姿は全く変わらなかった。 しかし源次、長春、政江たちは大いに魅力ある男女に成長していた。 だが家族内での婚姻はなく、しかも誰も婚姻していない。 自分自身に見合う相手がいないからだ。 しいて言えば、政江と伊達政宗の関係がさらに近くなった程度で、今はまだ表立っての行動は慎んでいる。 するとまた伝令鳩が飛んできて、「家康、江戸城入府」と信長はにやりと笑ってつぶやいた。 「さあ、本領発揮と行きましょうか!」と幻影は陽気に叫んだ。 本能寺が炎上してから、四年が過ぎ去っていた。 まさに、本懐を遂げる日がやってきたのだ。 まずは一気に田畑を押さえ、商売も手広く広げ、漁場権も大いに獲得して、法源院屋はほんの数日で、名実ともに日の国一の商人となった。 まさに、カネにものを言わせて武家を畏れさせる位置にまでいた。 家康が江戸城に入って来た時、状況が一転していたことにすぐに気づき、大いに戸惑った。 この江戸は、大坂や尾張以上に活気に満ち溢れていたのだ。 しかも税の徴収も比較的抑え込んでいたことで、家康の懐が温かくなることはない。 さらにはもしも税を上げようものなら、商人が結託して徳川に盾を突く気概を大いに感じていた。 そしてここで、『琵琶高願』の名前が出て来て、家康は大いに怯えた。 まさに経済を押さえているのがこの琵琶高願だった。 巧に各城主の守る城にすり寄って、高額の貴金属を売り歩いたのだ。 それが一種の流行りとなっていて、家康は正室や側室に大いにねだられて思い知ったのだ。 家康はここは温厚に、琵琶高願に江戸城に来城するように告げたが、簡単に断られた。 『用があればそっちからこい』という文を持ち帰ったのだ。 「…たかが商人風情が…」と家康は言ったが、「いえ、行ってまいりましょう」と家康の大番頭でもある家老の井伊直孝が穏やかに言った。 早速直孝は数名のお付きを連れて、城の風格がある法源院屋に向かいながら、一抹の不安を抱えていた。 それは、『家康を連れて来い!』と言われるのではないかと感じていたのだ。 実はそうではなかった。 直孝が法源寺屋の玄関に入ると、不安とは裏腹に大いに歓迎された。 ―― 話が違う… ―― と誰もが不安に思うはずだ。 直孝は店の案内の者に誘われて、きらびやかな部屋に招き入れられた。 すると真っ先に、「琵琶高願でごさいます」と幻影は朗らかにあいさつをした。 そして、「申し訳ありませんがお人払いを」というと、ここは幻影に従って、お付きの者たちを遠ざけた。 すると一気に雰囲気が変わり、「今の家康は八代目」と幻影がすかさず言うと、直孝は大いに怯えた。 目的は偽物の家康などではなく、仕掛け人の自分自身だったとここでようやく悟った。 「今日のこの日を待っていた。  ほんと、平和にするのは日時がかかるもんだね。  あ、別に何も言わなくていいよ。  俺たちが全てを知っているという証明をしたいだけなんだよ。  あんたら…  いや、あんたの想いを遂げるために協力したいだけだ。  今のところは比較的平和だと言えるが、  まだ野望を持っている武将も多い。  しかしその野望は家康の下についてからにしてもらいたいわけだ。  あんたもそれが望みなんだろ?」 幻影の言葉に、直孝は同意するように小さくうなづいた。 「特に秀吉を倒せなどとは言わない。  どうせあの禿猿は近いうちにこの世を去るからな。  カネは余るほどあるようだから、大いに無駄遣いさせればいい。  そうすれば民が潤うからな。  そっちの方の戦いを俺たちはやっていたんだよ」 「…うう… そうだったのか…」と直孝は初めて言葉を口に出した。 「しかも、俺たちをだましたり、暗殺することは不可能だ。  全ての動きはわかっているし、  俺たち個人個人は、守られている武将以上に強いぞ。  鬼、阿修羅、大天狗」 幻影の言葉に、直孝はさらに怯えて、長太刀を持っている蘭丸を見入った。 「我が魂、使いこなせるぞ」と蘭丸は言って長太刀をすらりと抜いた。 蘭丸の身長以上に長い幻武丸はまさに脅威で、しかも蘭丸の僕でしかなかった。 「カネが要るのならいくらでもくれてやる。  よって、今までと同様に穏やかに日の国を制定しろ。  それが俺たちの唯一の望みだ」 幻影の重厚な言葉に、直孝はもう畏れることなく頭を下げた。 「…し、しかしなぜ、家康なのですか…」と直孝は主の名前を呼び捨てにした。 もちろん、本物はもういないし、『家康』という飾り物でしかなかったからだ。 「温厚に尽きるし、うかつなところが一番いい」 幻影が笑いながら言うと、家族たちも大いに笑った。 「その生き証人の進言があってこそ、俺たちはそれに従っただけだ。  何も考えなくていいから、本当に助かってるんだ。  だから俺がこの企みの頭目ではないんだよ」 幻影の言葉に、さすがに直孝は大いに戸惑った。 「その時がくれば、徳川軍の生き証人と顔を合わせてもらうから。  そうすれば一気に理解できるはずだ。  だが今は何も変えるな。  徳川家が弱体化する可能性が高いからな。  そしてまた戦乱の世に逆戻りだ…」 「言葉通りにしよう」と直孝は穏やかに答えた。 「だけど聞いておきたいことを質問してもらってもいいよ。  答えられる範囲で答えるから」 幻影の言葉に、直孝は頭の中で山とある聞きたいことを並べて、精査した。 そして、「あなたの正体」と直孝が言うと、幻影は驚くことなく、「真田一派」とだけ答えた。 「…武田の… あの、真田か…」と直孝は言ってうなだれた。 「あんたの所にもいるけど、  接触はしていない。  だから迂闊な行動は慎んでくれ。  よって俺は、真田信繁を師匠としているんだよ」 「…い、いや…」と信孝は大いに戸惑って尻込みした。 「師匠は好きだが、信繁は嫌いだ。  信繁は鬼でしかない。  俺が親心を出すわけにはいかないから何も変えない。  だからそっちも何も変えないで欲しいんだ」 直孝は同意するようにうなだれた。 「その師匠を鬼と変えたのはあんただ。  その理由はわかっているよな?」 幻影の言葉に、「元康公は首を失くされた…」とここでは直孝は我が主を重んじて答え、肩を震わせて涙を流した。 「その時俺も戦場にいたし、すでに信繁が師匠だった。  その現場は見ていないけど、  師匠は嘘はついていないと確信した。  だからこそ、鬼と化してしまったんだよ。  まさに、家康となった幽霊の元康に復讐をする鬼でしかないんだ」 直孝は涙を流しながら頭を垂れた。 そして、「すべてを理解した」と言って、一瞬信長を見た。 しかし何も言わずに、手拭いで涙を拭いた。 ここからは直孝を接待するようにして朗らかに茶を勧めた。 もちろん、心を落ち着かせるためだ。 敵対するわけでも傀儡となるわけでもなく何も変える必要がないという話し合いだったので、しばらくして直孝に精神的余裕が出てくると、美しい長春と政江と静香に大いに目を引き寄せられる。 「弱い者は嫌いです」と直孝の想いを察した政江がすぐに言った。 「それに、ここは武家ではありませんので、  私どもは自由に生きることに決めていますから。  それに、武家の力程度ではこの法源院屋は寸分も揺るぎませんわ」 「…あい、わかったぁー…」と直孝は大いに残念そうに言った。 「…どなたが高願様のお嫁さんになるのか、すごい戦いがあるんですぅー…」と長春が言うと、「あはははは…」と幻影は大いに苦笑いを浮かべて空笑いをした。 「俺が第一候補に決まっている!」と蘭丸が叫ぶと、―― それはない… ―― と直孝は思うだけにとどめた。 そして幻影を見たが、朗らかに笑みを浮かべているだけで、その心のうちはわからなかった。 「さて、最後にまた真面目な話です」と幻影が改まって言うと、その言葉に大いに反応した直孝は姿勢を正した。 「今の杞憂はあなたの寿命です」という幻影の言葉に、直孝は大いに反応した。 「あなたの想いを継ぐ者はいるんでしょうが、少々怪しく思っています。  元康公に忠誠を誓ったあなただからこそできることなのです。  あなたのお子様たちやお仲間たちに、そこまでの想いがおありだろうか?」 幻影の言葉に、直孝はさらに背筋が伸びている。 そして穏やかに、「…今となっては、その想いを継いでいるのは、唯一私だけです…」と直孝は言って頭を垂れた。 幻影は何度もうなづいて、「俺は、若返りの技を手に入れました」と言うと、直孝は目を見開いて、「どうか! 私にも恩恵を下され!」と大いに懇願した。 「ええ、いいですよ」と幻影は気さくに言って、直孝の体に触れ回り始めた。 そして触れられるたびに、体が熱くなっているように感じた。 「今日はこれでいいです。  ですが次が本番ですから。  時間がある時にでもゆっくりといらしてください。  明日からは生まれ変わったように元気になりますが、  それは一時です。  最後まで油断なさらぬように」 「はっ 守ります」と直孝はついに幻影の臣従に下った。 落ち着いた直孝は、「北の暴れん坊にはほとほと参っております…」とついには愚痴をこぼし始めた。 「戦国の世はまだ終わっていませんからね。  伊達政宗もできれば、  陽気な祭りだけをして日々を楽しんでいたいことでしょう。  ですが、まだまだ秀吉にも家康にも服従させるほどの威厳がない。  政宗も少々痛い目を見ないとわからないようです。  しかし、無碍な侵略的な戦いは起こしてはいないと、  俺たちの調べでは判明しています。  やはり古い考えが、新しい武将とそりが合わないのでしょう」 幻影の見解に、直孝は素早くうなづいた。 「もちろん政宗の弱点は握っていますので、  この近隣を襲おうなどと考えていたら、  まずは俺たちが動きますから。  俺たちが動いていないと感じたら、  平静を装っておいてください。  やはり若くして殿様になったもんだから、  大いに張り切っているといったところでしょう。  しかも、本人は城主になることを一旦は拒んだのです。  政宗の回りにいる大人のせいだと思って、  長い目で見てやってください」 「…うう… そこまでは、知らなんだぁー…」と直孝は言って大いに戸惑った。 「俺は彼の義兄ですから」 幻影の告白に、「…わかり申した…」と直孝は答えてうなだれた。 「…そろそろ、我が家からも家族が嫁ぐ日が来たかなぁー…」と幻影が寂しそうに言うと、政江は内心複雑だったが、喜びの涙を流し始めた。 しかし、一日では何も変わることなく、幻影たちは日々同じ生活を繰り返した。 そして秀吉は四国と九州を制覇して、残るは奥羽だけとなった。 幻影たちは政宗と頻繁に会い、その時は大人しいものだが、やはり売られた喧嘩は買うようで、ついには信州の中心部までその領地としていた。 まさに現在、日の国の北の方だけが戦乱の世となっていた。 脅威に思った秀吉は私闘禁止令を出したが、政宗は鼻で笑ってもちろん従わない。 秀吉は後方支援部隊を内密に送り、制圧に踏み込んでいった。 もちろん、大軍をもって止めにかかってもただでは済まないからだ。 しかしここで、政宗が怪我をしたという情報を手に入れた。 その実態は、幻影がこれからの予定を示唆しただけのことだった。 「いい加減にしないと、そのうち命を落とすぞ…」と幻影が眉を下げて言うと、「…うう…」と政宗はうなって、痛む足をなでた。 大した怪我ではなくただの捻挫なのだが、ここぞとばかりに幻影が政宗に会いに来たのだ。 「従ってやる!  と、大いに悪態をついて禿猿に言えばいいだけだ」 幻影の言葉に、「…禿猿…」と政宗はつぶやいて、腹を抱えて大いに笑った。 「その時、ワシたちもそれに混ぜろ」と信長が言うと、「ええ、戦うわけではありませんからね」と幻影が勝手に話を始めたが、政宗もその側近たちも止めることはなく眉を下げていただけだ。 腕力的にも威厳も勝てるはずがなかったからだ。 「…振り回していいか?」と蘭丸が言うと、「適当なところを斬ってやればいい」と幻影は言って少し笑った。 「ま、禿猿も死期は近いようだからね。  もっても五年、かなぁー…  それを哀れに思っておけば、腹も立たないだろ?」 幻影の穏やかな言葉に、「…兄者には従うよぉー…」と当時の少年だった政宗の気持ちに戻って言った。 「また、祭りでもやるかい?」 「うん! やるやる!」と政宗は大いに陽気になっていた。 しばらくしてのち、政宗が率いる軍の中に、幻影たちの家族が全員いた。 政宗は大いに誇らしく思い、幻影とともに進軍する。 さらにはこの戦には大いなる企てがあった。 まさに蘭丸が大いに燃え上がっていた。 政宗の軍は、法源院屋を後ろ盾にして、不死身の甲冑を身にまとっている。 まさに豪華絢爛の装いに、秀吉は大いに苦笑いを浮かべていた。 その姿をあざ笑うように、信長はひときわきらびやかな装束で進軍する。 そして日の国の大軍とともに、朝鮮半島に渡った。 もちろん、様々な準備は万端にしてある。 大陸に渡ってすぐに、幻影たち琵琶家一同は消え、朝鮮国の一員、さらには大国の明からの援軍の中に幻影たちはいた。 もちろん、政宗の軍は大いに目立つので、その軍は避けて大いに暴れまくる。 よって日の国の大軍は、早々に日の国に戻った。 江戸に戻った信長は、「してやったり!」と言って膝を叩いて上機嫌だ。 「…戦ったぁー…」と蘭丸は言って、幻武丸の鞘をなでている。 まさに大いなる息抜きを終えて、またさらに月日は流れた。 幻影たち家族は大坂城に忍び込んだ。 これで八回目の権力者の城への侵入だ。 この時、本能寺炎上から十五年が経っていた。 「…よう猿、死ぬるのか?」と信長が聞くと、秀吉は目を見開いて、『ひっ ひいぃー…』と声にならない声を上げた。 「おまえもそろそろ他界するようだが、  まだ六十を超えたばかり。  だがついに、お前の運も尽きたようじゃな」 信長が目の前にいるが、これは夢だ、と秀吉は思っていた。 しかし、あの恐怖する信長には違いなく、早く夢が覚めて欲しいと大いにげんなりとした。 「ワシもそれほど長くはあるまい。  どうじゃ、また一緒に戦わんか?」 信長の言葉に、秀吉は何とかそっぽを向いたが、戻されてしまった。 「なんじゃ、嫌か…  やはりお前はただの猿じゃ。  お前は死と同時に、その権力を失くし、  お前が培ってきた者はすべて屠られる。  お前、余計なことをしたなぁー…  さらには、誰も信じられなくなった。  体が動かなくなるとな、そうなってしまうそうじゃ」 信長は穏やかに長い話を続けた。 秀吉の命が自然に消えていっても、昔を懐かしみ、まだそれを続けていた。 江戸に戻って来て、幻影はかなり心配したのだが、信長は大いに元気だった。 もう七十を超えたのだが、若者とそれほど変わらずよく働く。 幻影の家族でここにいなくなったのは、政宗に嫁いだ政江だけだ。 幻影はまだ三十直前で、大いに働き盛りとなっていた。 弁慶は一旦家族の元を離れて、諸国漫遊の旅に出て、多くの知識を得てから戻り、また幻影のそばにいる。 源次も弁慶と同じ道を歩んでいる。 まだまだ天下泰平には程遠いと、幻影の家族たちは気合を入れていた。 羽柴軍と徳川軍が相対する関が原に出立する直前に、幻影はひとりの武芸者風の男と面会した。 「お師様にはご機嫌麗しく」と柳生三厳は頭を垂れた。 「…もう十三年も前になるんだなぁー…」と幻影は当時を懐かしく思って、青年期を過ぎてしまった熊の巖剛の体をなでた。 「…とんでもないものもいたんですね…」と三厳は大いに眉を下げて言った。 「家族だからな」と幻影は大いに穏やかに言った。 「俺たちは戦見物だけど、  金光は戦うんだよな?」 「戦には出ますが、後方支援です…」と三厳は答えてうなだれた。 「…ふーん… その程度の者は、俺の弟子にはいないんだが…」 幻影の厳しい言葉に、三厳は大いに反応して背筋が伸びた。 「宮本武蔵のうわさは聞いたか?」 「…はい、人ならざる武芸者と…」と三厳は答えて頭を下げた。 「できれば一騎打ちがいいけど、  戦場で出会ったとしたら気をつけろよ。  ヤツは俺と剣を合わせたことがあるからな」 幻影の言葉に三厳の背筋がさらに伸びた。 そして、「…お師様は無傷でここにいらっしゃる…」とつぶやくと、「…弱っちい奴だったなぁー…」と幻影もつぶやくと、「…今は、違う…」と三厳はまたつぶやいて、眼の光が戻っていた。 「武芸者の場合、好敵手は必要だ。  そして相手も自分も一番強い時がまさに幸運。  今がその時だと俺は思っているんだ。  その後の武蔵は見てはいないが、  情報によるとそれなり以上のようだぞ」 幻影の言葉に、三厳はまた背筋を震わせた。 恐怖ではなく喜びに満ち溢れた武者震いだ。 「だけどなぁー… 楓には勝てないと思うんだけどなぁー…」 幻影の言葉に、長い髪を後ろで束ねた、二刀を脇に差している楓を見入った。 「勝負、してみれば?」という幻影の言葉に、「はっ」と三厳は穏やかに答えて、楓に声をかけた。 楓は魅力的な殿方に誘われて笑みを浮かべたが、「…えー… 稽古なのぉー…」と大いに不服に思って嘆いた。 「たまには木刀もおつなものだ。  何なら後で相手になるが?」 幻影の言葉に、「…お師様の動きは何もかも見えないから稽古になりませぬ…」と楓は言って唇を尖らせた。 そして楓は木刀を三本持って、一本を三厳に渡した。 「…勝ったら言いなりぃー…」と楓は勝手に陽気に言い始めると、幻影は大いに笑った。 「金光」と幻影が呼ぶと、三厳はすぐさま振り返った。 「今使っている武蔵の太刀は、俺が打ったものだ」 幻影のこの言葉に、三厳は大いに悔しがった。 そしてさらに気合を入れた。 「勝って、我にお師様の太刀を!」と三厳が勝手に言うと、幻影は愉快そうに笑った。 「…うふふ… 私の太刀はお師様が打ってくださったのよ…」という楓の挑発に、三厳は大いに頭に血が上っていた。 「…お師様の浮気ものぉー…」とここは三厳は軽口をたたいて、幻影を大いに笑わせた。 三厳は一般的な中段の構えだが、何かある、と幻影は感じて笑みを浮かべた。 楓は見慣れてしまった二刀を両手に握って、仁王立ちしているだけだ。 ―― 隙だらけだが? ―― 三厳はこう思ったのだが、自分自身に隙がないのか考え直した。 ―― 心に隙があった… ―― と三厳は考えてすぐに、目尻を吊り上げた。 ついさっきまでの朗らかな三厳は、もうどこにもいない。 ―― 両刀とも振り上げる ―― と三厳は読み、それをどうかいくぐるかを思案しながら、かすかに右前であることを知り、半歩左に回り込んだ。 楓は少し眉を上げ、今の動きにどんな意味があるのか考えた。 三厳の足は右が前で、体は楓の真正面を向いている。 よって、ここは動くべきではないと楓は考え、三厳が出てくるまで待った。 三厳は木刀を振り上げることなく、中段に構えたまま間合いに入ってきた。 ―― 突きか?! ―― と楓は考え、両刀とも振り上げた。 楓の左の木刀の先端が三厳の木刀の先端にかすかに触れた時、三厳はまた一歩踏み出したのだが、なんと楓の右の木刀が、三厳の脇に触れていたのだ。 幻影はにやりと笑っただけで何も言わなかった。 三厳は前に出ただけで何もできないまま頭を下げて、元いた場所に戻ってまた中段に構えた。 「…倒したのにぃー…」と楓は大いに嘆いたが、また仁王立ちの構えを取った。 ―― まさか、遅らせて振り上げるとは… ―― と三厳は考えて、歯ぎしりでもしたいところだった。 ―― となれば! ―― と三厳は素早く左に回り込みながら徐々に上段の構えに変えて行った。 すると今度は楓が前に出た。 「キイェ―――ッ!!」と三厳は奇声を上げて木刀を振り下ろしたはずなのだが、それは叶わず、また右の木刀を脇に食らってしまった。 楓の左足の蹴りを、柄の底に受けていたからだ。 「…うふふ… 二刀なんて隙だらけのはずなのに…」と楓は言って頭を下げて、少し弾みながら走って、幻影の前に立った。 「欲しいものでもあるのか?」と幻影が気さくに聞くと、「すっごく手抜きして戦って下さい!」と楓は明るく言った。 「…難しいことを言うなぁー…」と幻影は大いに苦笑いを浮かべて言って立ち上がった。 「今楓がやったことと同じことをしてやる」と幻影が言うと、「あら? お師様に教わったんですよ?」と楓は明るく言った。 「じゃあ、それ以外で簡単に勝とうか」と幻影は余裕の面持ちで答えた。 「打たれてもいたくないからな。  まあ、これも問題か…」 幻影は言いながら、鎧を手のひらで叩き始めた。 そして太ももに仕込んである手甲とふくらはぎに仕込んである兜を組み立てて被った。 もちろん、楓も幻影と同じように完全防備で向き合った。 すると幻影は無防備に楓に向かって普通に歩き始めた。 楓は木刀で細かくけん制をしながら、間合いを保つ。 幻影は少し大股で、楓の間合いに入り込んだ。 楓は二刀を振り上げようとしたのだが、なんと幻影に両方の木刀の峰を押さえつけられていた。 「参りましたぁー…」と楓は言って大いにうなだれた。 「いや、大いに力が上がっていた。  だけど、太刀筋を読まれていたら、何の意味もない。  力を出し切る前に、今のように邪魔をされるから、  小太刀で戦う覚悟で挑んだ方がいい」 幻影の言葉に、「…あー…」と言って、楓は半身どころか、幻影に対して直角に身構えた。 「最低でも右の木刀には力が入る。  いくらこの手甲でも、押さえれば少々痛い」 「もう一本の願いします!」と楓が気合を入れて叫ぶと、「甘い顔は一度だけだ」と幻影は言ったのだが、またゆっくりと楓に向かって歩いたいたはずなのだが、もう楓の目の前にいた。 「えっ?!」と三厳が叫んだ途端に、幻影は楓の兜を右手で鷲摑みしていた。 「…参りましたぁー…」と楓は今にも泣きそうな声を上げた。 「今のは教えない。  それを悟ることが修行だ」 幻影の厳しい言葉に、「…はいぃー… お師様ぁー…」と楓は言って兜を脱いでから頭を下げた。 「…妙な足技を使いやがってぇー…」と蘭丸が言いながら、長い木刀を持ってやってきた。 「おまえとやったらみんなとやらなきゃいけなんだがな…  俺以外とやってくれ」 幻影の言葉を蘭丸は無視して、「おい男、お前が相手をしろ」と三厳に言った。 三厳は蘭丸の迫力もそうだが、異様に長い木刀を見入っている。 「言っとくが、怪我覚悟で来いよ。  それにな、間合いを取り過ぎると、  剣風で切れるから用心しろよ」 蘭丸の言葉に、三厳は目を見開いた。 「いや、本当だから…」と幻影が言って苦笑いを浮かべると、三厳は大いに戸惑った。 「だけど、手加減してくれるはずだから、防具は付けずに」と幻影は大いに厳しいことを言った。 「それなり以上なら手加減なしだ!」と負けたくない蘭丸は大いに気合を入れて叫んだ。 ―― 全力で間合いを詰める! ―― と三厳は初手をもう決めていた。 蘭丸は中段の構えから上段にゆっくりと構え替える瞬間に、三厳は地面を蹴って前に出た。 しかし、もう蘭丸の長い太刀が三厳を襲っていて、木刀で受ける間もなく左腕の肩口に木刀を当てられていた。 ―― …ああ、死んだぁー… ―― と思って天を仰いで、「…ありがとうございました…」と何とか言って、その場に座り込んだ。 「なかなかすげえな」と幻影は言って、蘭丸に拍手を送った。 「おまえの言った通りに訓練した成果だ!」と蘭丸は言ってから、少し考え、じわじわと怒りが湧いてきて、「お前の指導のおかげじゃあねえか!」と大いに憤慨すると、幻影は愉快そうに笑った。 「…簡単に負けて… 木刀も寸止め…」と三厳は大いに嘆いた。 「ま、稽古だからな。  だけど逆に、稽古の方が厳しいことがよくわかったと思う」 「…はい、お師様…」と三厳は言って、正座したまま頭を下げた。 「相手の太刀に太刀を合わせないことを前提に指導している。  この部分は実戦に基づいているんだ。  刃こぼれひとつで、打ち損じる場合もあるからな」 「あ…」と三厳はつぶやいて、また幻影に頭を下げた。 「あとは二刀の場合、  でたらめに振ってこられると手も足も出ない。  体力切れを待つしかないが、この楓には底がない。  よって、計画的に隙を見せてやるんだ。  もちろん計画的にだから、  その先を読んで、出す手を考えておく必要がある。  まさに将棋と同じだよ。  さらには引き足を鍛えること。  前にばかり出てたんじゃ自殺行為でしかないからな。  戦場の場合はそうも言っていられないから、  俺たちの鎧のように身を守るものは確実に必要だ。  俺の弟子には死んでもらいたくないから、  鎧を打ってもいいぞ」 「はい! この命、守り通します!」と三厳が気持ちを込めて言うと、「じゃ、鎧を着たら寸止めなしな」と蘭丸が言うと、三厳は大いに苦笑いを浮かべた。 現在の幻影の苦悩は、家康が秀吉に臣従した時に、真田昌幸、信繁親子は晴れて自由の身となって、古巣である信州を守ることになったことだ。 真田親子は秀吉亡き後は豊臣秀頼に臣従し、越後の上杉対策で迎え討つことになる。 今回の関が原でもこの任につくことになり、信繁が家康を討つ機会の可能性は薄い。 捕らわれの身で討てないことはまだ我慢できるのだが、自由の身であるにも拘らず討てないことは苦痛でしかない。 真田家の居城である上田城には、猿飛佐助こと佐田与助と、信楽お京と名乗っていた女も住処を移していた。 幻影は自由の身となった信繁に商人として会いに行ったのだが、寂しそうな笑みを浮かべるだけだ。 しかし女子が多いことで、商売は受けがよく繁盛してしまった。 幻影は与助と話をしたのだが、こちらも歯切れが悪い。 やはり仕える主に筋が通っていないと、従う方にも大いに戸惑いが生まれるものだ。 「ところで、信楽お京がいないようですけど?」 幻影の言葉に、「江戸に潜伏中です」と与助は苦笑いを浮かべて行った。 「さすがに会いには来ないようですね。  熊の巖剛がいるので、  来ていたとしたら捕まっていたことでしょう」 幻影の言葉に、与助は目を見開いていた。 「今も共同生活しているのです。  年を重ねてさらに温厚になりました。  時には旅に出るので、同行させていますから」 「…うかつ癖は消えたかもしれない…」と与助は言って何度もうなづいた。 「もうすっかりと忘れていましたが、服部刑部一味がどうなったか知りませんか?」 「確実ではないが、刑部は死んだと判断しました。  その一派も、姿がないようです…  徳川についている斥侯は、  身軽な武士が担っているようです。  琵琶高願様の敵にもならんでしょうなぁー…」 すると女性らしき忍びが木から飛び降りて来て、何を慌てたのか、幻影たちがいる場所から少し離れた場所でしりもちをついた。 「…ドジな忍者だ…」と幻影は大いに呆れていて、与助は瞳を閉じて頭を振っていた。 「…かんざし、売ってぇー…」とお京が言うと、幻影は大いに笑った。 そして、「買えるわけがねえ」という幻影の言葉に、お京は懐を探って、金塊らしきものを出した。 「最低でもその倍」と幻影が突き放すように言うと、「…守銭奴…」と言って金塊を懐に忍ばせて、これ見よがしにふくれっ面を向けた。 「俺と同じ運命を背負っているのなら、上杉の方が羽振りがいいぞ」 幻影の言葉に、「…そうしようかしら…」とお京は言って本気で考え始めた。 「…江戸の、法源院屋がいいなぁー…」と誰に言うでもなくつぶやくと、「使えないやつはいらない」と幻影は即断した。 「…すごい情報を手に入れたのにぃー…」 「だったら御屋形様に即報告だろ…」 与助はこのやりとりに堪忍袋の緒が切れたようで、幻影に素早く頭を下げてから、お京を縛り上げてから、城に連れて行った。 ―― 怪しいな… ―― と幻影は漠然と考えた。 与助も同じように考えたので縛り上げたはずだ。 ―― 寝返り? ―― とすぐに頭に浮かんできた。 幻影が帰り支度をしていると、その姿を確認したのか、与助が猛然たる勢いで走ってやってきた。 「どうしたんです?」と幻影がごく普通に聞くと、「…あ、いや… ここを立たれてしまうと思い…」と与助はバツが悪そうに言った。 「もちろん、こちらの御屋形様にご挨拶をしてから帰りますから」 「…そりゃそうだ…」と与助は自分の行動を大いに恥じた。 「じゃあ、ご挨拶に上がりますよ」と幻影は大八車を引いて歩き始めると、「寝返りました」と与助が言った。 「もう消したのですか?」と幻影が聞くと、「…はあ… さすがです…」と与助は言って頭を下げた。 「放っておくわけないじゃないですか…  ここが主戦場になったら、  援軍は見込めませんよ?」 「…うう…」と与助はうなることしかできなかった。 「御屋形様の心ひとつですけどね」と幻影はさも当然のように言って、堀にかかる移動橋を渡った。 「…おや? 音が…」と与助は言って、大八車の車輪を見た。 「木から抽出した粘液を固めて埋め込んであるんです。  特に橋や石畳では滑らないので重宝しますし、  ほとんど音がしませんから」 「…はあ… さすが発明家…」と与助は言ってまた頭を下げた。 「すべてはお師様の教えですよ。  どんなことでも追及せよという。  人よりも見分が多い分、色々と知っているはずですから」 「…他人事のようですな…」と与助は機嫌よく言って少し笑った。 幻影は家老に江戸に帰ることを告げると、「…殿は混み入っておりまして…」とバツが悪そうに言ったので、「どうか、お気になさらないように」と幻影は丁重に答えて、頭を下げてから外に出た。 もちろん与助もついてきて、「…ダメで元々ですが…」とバツが悪そうに言うと、「なんです?」と幻影はとぼけるように言った。 「殿に言われたわけではないのです。  どうか、この上田城に居を構えていただきたく」 与助は思いの丈を込めて幻影に言って頭を下げた。 「私は我が主に、未来永劫の忠誠を誓いました。  世間一般の武将のように、ころころと主を代えるつもりはないのです。  仕える主がいなくなっても、この思いは変わることはないでしょう。  我が主は、我が父となりましたので。  お師様には恩はありますが、  それを返せというお師様ではありません。  真田信繁は、それを言いたいはずですけどね」 幻影の言葉に与助は納得して、言葉を発することなく頭を下げた。 「どうか御屋形様とお師様によろしくお伝えください」と幻影は言ってから頭を下げて、まるで逃げるように猛然たる速度で走って行った。 「…ワシも、やはり… いやいや…」と、与助は大いに戸惑い始めていた。 与助が天守に登ると、昌幸も信繁も大いに憤慨していた。 「消してよろしいですか?」と与助が無表情で言うと、「…そうしたいのもやまやまじゃ…」と昌幸は何とか心落ち着かせて答えた。 「余計なことでございますが、  幻影様は私が言ったようにすぐさま冷淡におっしゃいました。  そして全ては、お師様…  信繁様の教えだと…」 与助の言葉に、「…はぁー…」と昌幸は大きなため息をついて、信繁をにらみつけた。 「あいつは誰にも扱えませんから。  修行は付けましたが、  身の振り方を自分で考えろと言った私の言葉を常に信じて行動しているだけです」 信繁は冷静に言い放った。 「家臣にしなくてもよい。  何とか手伝いだけでも…」 昌幸の言葉に、「畏れながら申し上げます」と与助が頭を下げて言うと、「遠慮など無用じゃ」と昌幸は笑みを浮かべて言った。 この初老の与助も、真田一派の重要な頭脳なのだ。 「情報の横流し程度であれば、  協力してくださると。  もちろんその選別は、幻影様の想いひとつですが」 「すまぬが、掛け合って欲しい」と昌幸が言うと、「はい、直ちに」と与助は言って、小さな書を書いて、指笛を鳴らした。 すぐさま鳩が飛んできて、書簡を筒に仕込んでから、指先で指示を出して飛ばした。 「幻影様は鳩よりも先に江戸に到着されると思います」 与助の言葉に、昌幸はまた大きなため息をついて大いにうなだれて、また信繁をにらみつけた。 「私も彼を自慢の息子にしたい想いで一杯です」と与助が笑みを浮かべて信繁に言うと、信繁は満面の笑みを浮かべて何度もうなづいた。
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