涙は生命と同義

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涙は生命と同義

人間が一生のうちに流せる涙の量は決まっている。生まれ落ちた赤子が泣き喚くのをよく観察してみて欲しい。どんなにわんわん大声で全身を震わせて泣き叫んでいても、実際には涙の一粒も流れていないことが多い。自我が芽生える遙か前から、人は本能的に知っているのだ。この涙には限りがある、と。 人体のおよそ60%が水分で出来ている、とは周知の事実だ。科学が我々人間の生態を次々に明らかにしていった結果、たった2%の水分が失われるだけで不調を来たし始めることが分かっている。3%なら喉が渇き、食欲不振になり、ぼんやりする。5%なら熱中症やら脱水症状やら、本格的に生命が脅かされ始める。じゃあ、その体内の貴重な水分の一部である涙が大量に失われるとどうなるか。 ──この世から消えてしまうのだ。 ***** 眼球の下部、皮膚に覆われたところにその袋はある。その名もズバリ、涙袋だ。 流した涙の量に応じて膨らんでくるソレは、思春期を終える頃に最大化すると一般的に言われている。逆に成人してしまうと、どんなに辛く悲しい場面に行きあっても泣くに泣けない人が増えるのだという。感性が年々鈍化したり、体面を気にしたり、単に神経が図太くなったり、と理由は様々推測されてはいるが、若い頃に比べてルーティン化していく日常を過ごすうちに感情が揺さぶられる機会自体が減っていくためだろう、と大半の大人たちは諦め顔で高説を垂れる。 兎にも角にも、幼な子ほど出し惜しみせずに涙を見せる。日に何度も何度も飽きもせず、些細な喧嘩や癇癪で涙を零す度、親は子供に言い聞かせる。お前のその涙はいつか訪れる大切な時のためにとっておきなさい、と。 思春期になるとプライドや羞恥心なんぞを覚えて簡単には泣かなくなる。それでもまだまだ柔らかな感受性は許容範囲を超える情動のせいで、いとも容易く涙を体内から押し出してしまう。感情のコントロールが難しい多感な時期なだけに、いずれ乗り越える壁だと大人たちも静観している。 そして社会に出ればもう、泣くという行為自体が難しくなる。毎日毎日飽き飽きするほど同じルートを辿るだけの人生に、ドラマチックなことなど何も起きないのだと乾いた笑いを漏らす、無味無臭の大人に成り下がる。ひょっとしてもう涙は枯れて打ち止めてしまったのではないか、と恐れを抱く者が出てくるのもこの頃だ。 人生は節目節目で波立つ。恋人や友人や家族を得たり失ったりする過程で、或いは仕事や家庭に疲れ果てて人生の意義などを思い起こす過程で、人知れず涙を飲む。涙を流せば流すほど、人生の終わりが近づいてしまうから、どんなに辛く悲しいことか起きても歯を食いしばって耐え忍ぶ。 涙が溢れそうになっても堪えなければ存在そのものが消えてしまう、しかもいつその時を迎えるかは神のみぞ知る、という現象は生命と似ていた。健康を害すれば遠からぬうちに寿命が尽きるが、そのタイミングを知る者はいない。惜しまねば生き長らえないのだから、誰もが涙そのものを恐れ、涙を誘発するような事象に触れることをも恐れた。感情が波立たないように、涙を誘う娯楽は劇物扱いされて終いには敬遠された。何かに心動かされれば柔らかな人の心はすぐに反応してしまう。スポーツも、映画もドラマも小説も音楽も、片っ端から危険のレッテルが貼られていく。 とはいえ、死に至らしめる有害物質を含んでいても酒やタバコが公然と売られているように、娯楽もしぶとく生き残ってはいる。ただ、一分一秒でも長らえたい人にとっては避けて通るべきものというだけだ。未成年のガキである僕としては、親の教えに右へならえ、を通している──今のところは。反抗するほど熱心に何かを求めているわけでもなく、かといって素直に従えるほど子供でもなかった。思春期ってやつは自分自身でさえコントロールが難しい。 味気ない灰色の毎日に辟易した人びとが徒党を組んで、たとえ消えてしまったとしても涙に怯えて人間らしく生きること、感情すらも失うのは耐えられない、と主張して享楽的で刹那的な生き方をしているという話も聞いたが、少なくとも僕の周りにはそんな集団は生息していない。いないのなら存在しないのと同じ、本や映画の中に描かれた絵空事の生き物くらい遠くに感じてしまうのも仕方ないことだろう。つまるところ僕は、積極的に死ぬ勇気もなければ、消極的に死期を待つ諦観も持てなかった。やりたいこともやる気も見つからない無気力な高校生活を送っていた頃に、まことしやかに囁かれる噂を耳にした。 世の中には涙が無尽蔵に溢れてくる一族がいると。彼らの一族は感情に邪魔されることなく望む時自在に涙を流し、どんなに泣いても尽きることない涙を有し、そして信じられないことに『消えることがない』のだという。まるで都市伝説だ。 そんな亡霊じみた噂にうっかり取り憑かれてしまったのは、親戚の葬式が発端だった。
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