涙は生命と同義

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「自由奔放に生きた人だったわ」 呆れたとも羨ましいともとれる乾いた笑顔で伯母は言った。母の年の離れた姉である伯母、その伴侶である伯父には会ったことがなかった。伯母夫婦は離婚していないだけで、随分前から、それこそ僕が生まれるその前から既に別々に暮らしていた。取り立てて不仲だとか暴力やギャンブルが過ぎるとか、そういう分かりやすい理由があったのかと訊ねたが、そのどれにも伯母は首を振った。 ひと言で例えづらい人なのよね、と喪服を着た母もしたり顔で頷いた。悪い人じゃなかったんだけど、と前置きした上で伯母が言うには、感情の起伏が激し過ぎる人だったらしい。喜怒哀楽のうち、怒ることは滅多になかったそうだが、喜ぶのも哀しむのも楽しむのもいつも全力だったという。それ自体は悪いことではないと思うが、と首を傾げると、伯母は僅かに声を潜めて囁くように言った。 「泣いちゃうのよ、すぐに」 え、嘘でしょ、と思わず声に出していた僕を見て伯母は、困ったもんよねえと諦めに似た笑みを浮かべた。 「あの人が近くにいると引き摺られて泣きそうになるのよ。あんまり情感たっぷりに泣くもんだから、つられちゃうのね。本人が泣くだけならまだ許せるんだけど、子供たちの前でも構わず泣くから怖くてね、離れることにしたのよ」 「それは、なんと言うか、」 「子供が泣くから止めてよ、って言ったところでね。もう自分では制御出来なかったんでしょうね。薬とかにも頼ったんだけど、体質的なものなのかあんまり効かなくって、最後にはもうお互いお通夜みたいな顔して別れ話よ」 あら、お通夜は今だったわね、とブラックなジョークをかましてから伯母は、あの頃は他に選択肢がなかったの、と居心地の悪そうな顔で弁解した。子供たちの安全を選んだ伯母は実家に戻り、シングルマザー状態で子育てに励んだが、当時は両親つまり僕にとっての祖父母も健在だったし、伯母は手に職を持っていたので大きな問題にはならなかったという。喧嘩別れでもないから離婚はせずに別居の形をとり、伯父も実家のある南方に戻ったが、子供たちの運動会や発表会などの行事ごとには足繁く参加もしたらしい。子供たちも父親は長期の単身赴任に出ている、くらいに思っていたそうで、家庭崩壊などもせずそこそこ円満だった、とその場にいた姉弟の姉の方が教えてくれた。 頼りない笑みを浮かべる、感情豊かな優しい人だったと懐かしそうに語る従姉は、伯父に対する嫌悪はないようだった。世間的には弱い人だったかもしれないけど嫌いじゃなかった、と喪主を務める従兄が淡々と語る。成人してからは父親の住む南の島に旅行がてら彼らの方から会いに行くこともあったそうで、家族仲は決して悪くなかったと言うのだから不思議なものだ。 「そんなに良く泣く人だった割には、こう言ったらなんだけど、随分長生きでしたね」 祭壇に乗り切らないほどの花たちに囲まれた伯父の写真を見上げる。線が細くて中性的で、ともすると頼りなくも見える柔和な笑顔。薄目の顔立ちで、群衆の中にいたら簡単に紛れてしまいそうな平均的な中年日本人男性の顔立ちをしていた。従姉兄たちと見比べてみると血の繋がりを感じはするが、それほど目立った特徴がないせいか、親戚に対する親近感みたいなものは余り感じられなかった。そもそも伯母と従姉兄たちですら地方に住んでいた為に頻繁には会っていなかったし、こんな機会でもなければあと五、六年は平気で経っていたことだろう。 「ホント、自然の摂理に反してるっていうか、ひとりだけ異質な感じだったわ。見た目は普通なのにね。恥も外聞もなくワンワン泣くことには恐怖もあったけど」 スっと目を細めて遺影を見つめる伯母の横顔には明らかに、懐かしいと書いてあった。 「正直に言うと、心のままに泣けるあの人が羨ましくもあったわ」 私たちじゃこんな時にだって泣けないから、と諦めの笑みにほんの僅か湿っぽさを滲ませて伯母は言った。こんな時くらい泣いてもいいんじゃないですか、とは言えなかった。少なくとも悲しみも寂しさも感じていない僕が言う台詞じゃない。 しんみりとした空気が流れた頃に、斎場のスタッフがそろそろ開始の時刻だと告げる。着慣れた制服の短くなった長い袖をぐいぐい引っ張って、緩んでいたネクタイを締め直した。
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