「泊まっていけ」だなんて大胆ですね、先輩?

1/1
前へ
/1ページ
次へ

「泊まっていけ」だなんて大胆ですね、先輩?

 大槻唱歌(おおつきしょうか)という、この世で一番かわいい後輩は、夜八時にクリスマスケーキを持って、ぼくの下宿にやってきた。 「二千円をお願いします」 「(たけ)えよ!」  見るかぎりだと、ケーキがふたつくらい入っていそうだ。ふたつ――ということは、唱歌は、ぼくがこう言ってくれるのを待っているのだろう。 「上がってく?」――という言葉。  もう八時だ。むかし、唱歌を家まで送っていったことがあったけれど、人通りの少ないところを何度も通ったし、ひとりで帰すのは心配だ。 「……はやく帰らないと、ナンパされたり不審な人に声をかけられたりするかも?」  だからその上目遣いは、卑怯なんだって。かわいすぎるだろ。心臓がどくんどくんと波打っているのが、唱歌に聞こえていやしないだろうか。  それにしても――真冬の夜は凍えるほど寒かっただろうに。 「修論の執筆でお忙しいでしょうし、わたしは帰りますね。それでは、メリークリスマスでした!――って、ちょっと、先輩……?」  唱歌をこちらへと抱き寄せる。ブラウンのコートは冷え切っている。白色のマフラーがするりと抜け落ちて、スリッパの上へかぶさった。 「寒かっただろ?」 「いまは、あったかいです……というか、びっくりしてます」 「いいから、上がっていきな」 「お邪魔でしょう?」 「このまま唱歌が帰ってしまったあとのことなんて、考えたくないけれど」  唱歌がクスクスと笑う声が、ぼくの胸のなかで押し潰されている。 「ちょっとだけ、苦しいかも……です」 「わっ、わるい!」 「でも、いまは……顔を見られたくないので、もう少しだけこのまま……」  ぼくも、いまの自分の表情を見られるのが恥ずかしい。唱歌だけじゃないよ。      *     *     *  黒色のハイネックにブラウンのパンツ。シンプルであり、くつろぐ気まんまんなコーデだ。(そで)からちょこんと顔を出した手が、ぼくの膝を(無意識に?)撫でている。  湯気の立ったコーヒーとココア。フォークがふたつ、空になった小皿の上に仲よく寝転がっている。  ドラマの一挙放送を、ベッドの端に腰をかけて見ている唱歌を横目に、英語で書かれた論文集を、ボロボロになった辞書を頼りに読んでいく。 「先輩、口にクリームがついていたり、いなかったりしますよ?」 「どっちだよ」  ぼくは、論文の中心的な議論の部分から、目を離すことができないでいる。 「ぬぐってあげましょうか?」 「これを読んでいるから、そうしてくれると助かる」 「はーい」  すると、唱歌の両手がぼくのほほを抑えて、ぐいっと首を持っていかれた。そして、唱歌の甘い香りのするほんの一、二秒の口づけが、ぼくの頭をくらくらとさせた。  わたしの思い通りになりましたね?――と言いたげな表情をしている唱歌。ペーパーバックは、ページを開いたまま床に落ちてしまった。  腰をひねってそのまま押し倒し――というわけにはいかない。なぜなら、ぼくたちは付き合っているわけではないからだ。ほーんと、不思議なことに。というか、意味が分からない。  修士論文の執筆の邪魔になってはいけないから、付き合うことはやめましょう。告白は、修論を提出したあとに受け付けますと、あのとき唱歌は言った。  でも実際は、こうして、もし第三者ならハンカチを噛みしめてしまいそうな、いちゃいちゃカップル――みたいなことをしているわけで。  なんというか。すでに付き合っているという事実があって、それを裏付けるエビデンスとして告白が(ひか)えている……みたいな感じだろうか。 「ところで! こんな時間なので、わたしはもう帰れません!」 「泊まっていっていいよ、べつに」 「へえ……送っていくよ、とか言わないんですね」 「ううん……寂しいし。最初から、帰す気なんてなかったし」  ぼくたちの間に、気まずい沈黙が流れだした。  こうして見つめ合ったままでいると、恥ずかしさが募ってくる。肩に手を置いて、ぐっと引き寄せると、唱歌はぽんと自然に飛びこんできた。 「泊まっていって、本当にいいんですか?」  ぼくの耳元で、唱歌がそうささやいた。温かい息が、ふんわりと吹きかかってくる。 「うん、いいよ」 「大胆ですね、先輩って?」 「ちょっとだけ、このままでいていい?」 「……わたしも、もう少しこのままじゃないと、ダメみたいです。ねえ、先輩。もうちょっと、ぎゅっとしてくれませんか。この幸せが、逃げていかないように」  ぼくたちは、あふれんばかりのこの幸せを、沸騰(ふっとう)するくらいに温めあう。 「修論の提出って1月7日でしたっけ?」 「うん。それまで、待ってくれるよね?」 「待てるわけないって思っちゃうくらいですから、もう答えは決まっているんですけどね。だから……」 「だから?」  唱歌は、身をよじってぼくの両腕をゆるめると、ぼくの耳元に口をつけて、こうささやいてきた。 「とびきりの告白の言葉をくださいね、先輩」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加