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このマンガは売れた。コミケでは強気と言われる300部だったが、完売だった。
この完売の喜びを海流と直接分かち合いたかった。しかし海流の実体は地縛霊のようなものだ。行ったことのあるところにしか行けない。昨年の夏コミそして冬コミではインフルエンザに感染しており、海流は幕張メッセに来ていない。そのため、連れて来ることができないのだ。
私たちの最初にして最後の作品「美空と青い海」についてはSNSの告知などは一切行わなかった。しかし、口コミでその評判が広がった。
「先輩凄いじゃないですか!」
「先輩なら乗り越えると思っていましたよ!」
「まさか自伝的な話をもってくるとはねぇ。あんた肝座ってるわよ」
などと言った賞賛を受けた。みんな違うよ。ホントはこれ全部海流の作品なんだよ。私はイラストを描いただけ。海流をいるんだよ。
そんなことを言っても信じてもらえないし、ただ混乱を招くだけだ。「海流はこの世に存在している」という言葉がのどの奥につっかえている。その感覚が気持ち悪いが仕方がないことだった。
夏コミ会場の幕張メッセを後にする。
西の空は夕陽で真っ赤に染まっている。少しずつ街に沈んでいく太陽を見ているとまだ暑さは相変わらずではあるものの、何か夏の終わりを感じた。
夏コミへの出店、そして300部完売の偉業を達成したのだ。これでおそらく海流は成仏していることだろう。もう海流の姿を見ることもないのだ。
そう思うと少しだけさびしくなった。
私だけがひっそりと海流と2度目のお別れをするのだ。
「碧野海空」のペンネームはどうしようかなと思ったが、私はこのペンネームをこのまま使い続けることにした。
「碧野海空」は青井海流がこの世で創作活動をしていたという証。そう思うと頬をつたうものがある。
私はそれを夕陽が眩しいせいだと思うことにした。
こうして私の―――いや、私たちの夏が終わった。
「で、なんでいるのよ?」
「いやぁ、なんでかな?」
「それにここ私の部屋なんだけど?」
「でも、ほら。俺の家はここの隣だし、窓の向こうは俺の部屋だからさ。位置的には誤差なかんじでもあると思うんだよね。幼馴染みなんだし、良くない?」
「信じらんない!」
感傷にひたりながら家に帰り、部屋のドアを開けると海流、それに彼担当の死神である雀のピッピがいたのだ。
「成仏するんじゃなかったの?」
「いやぁ、まぁ、ねぇ。もう少し―――」
「もう少しなんなのよ?」
「それは私が説明しよう」ピッピが空気を読んで説明を始める。姿はかわいらしい雀ではあるが、その声は相変わらず大塚明夫だ。
「成仏するには生前の願望を叶える必要がある。それは前にも言ったな」承知の意を込めて頷く。
「海流の願望は今回のそれよりも強かったということだ」ピッピが視線で海流を促す。
「というわけで―――」海流は恥ずかしそうに頭を掻く。そしてはにかんだ表情を浮かべる。
「俺の夢は売上げ部数100万部だからさ―――もちろん1冊で」海流の視線が私を捉える。
「だから、もう少し一緒にいていいかな?」
バカバカバカ! 勝手に死んで! この私を悲しませて! 私の本当の気持ちなんて知らないくせに!
あの時の涙を返せ!
バカバカバカ! ほんとバカ!
でも―――帰って来てくれて―――自分の家族ではなく、私のところに帰ってきてくれて―――
「―――ありがとう―――」
「え!?」
「うっさい! バカ! 最低! もう知らない!」
「海流には聞こえなかったか? 美空はありが―――」ピッピが余計なこと言う前に機先を制する。
「ピッピもうるさい!」私はそう言いながら枕やクッションを投げつける。
「ちょっ―――美空、あぶないって!」
「あんたはユウレイなんだからあぶなくないでしょ?」
「うわぁ、今のはショックだわー」その棒読むが鼻につく。
「今の棒読み引くわー」そう、これなのだ。このくだらないやり取りが好きだった。ずっと終わらないと思っていた。
でも、あの日、終わりは急にやってきた。
しかし、帰って来た。また、会えたのだ。
彼がいつか成仏するまで私は描き続ける。描き続けたい。
一筋の涙が頬を伝う。海流やピッピからは悪ふざけの泣き笑いと思われていることだろう。
「ああ! おかしい! ホント泣けてくるわ!」涙の雫が落ちた。
「―――ごめんね、美空。ホントごめん―――」海流が後ろからそっと私を抱きしめる。
そんな彼の身体は震えていた。
窓から夕陽が見えた。
沈んでいく太陽は悲しい。しかし、その真っ赤な日輪は再生し、また東の空から昇るのだ。
それは私たちの夢と同じ―――今日、この日から「碧野海空」がマンガ界を席巻する。
私は今日がその第1日目であることを確信したのだった。
しかし「1冊で100万部」というフレーズはどこかで聞いたことがあるような―――。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ひとしきり美空に罵倒(それは不満と好意が入り乱れたものだった)され、新作のベタとトーンを手伝った後、美空が寝落ちしたので、俺は神野神右衛門は美空家の屋根で休憩する。まだ夜明け前だ。
「で、目的については達成できたか?」神野神右衛門が問う。
「まぁ、一応は」
「しかし、君も欲張りな男だな。『夢を叶えた愛する人に会いたい』を成仏の条件にするとは」
「会いたい人に関する縛りはなかったはずだけど」
「まぁ、そうだな。やはり君は策士だよ」
現世での執念―――それは青木美空―――その人だった。
幼馴染みで趣味も同じ。それは思春期を経ても変わらなかった。
夢も同じだ。彼女の夢は俺の夢でもある。それに―――愛していた。これは好きとか嫌いとかではない。『愛』なのだ。
「でもいいのか? 美空も年頃。好きな男子の一人や二人―――いや、それだけではない。いずれ結婚もするかもしれない。そうなると―――」神野神右衛門は少し下世話なところがある。
「あいにくだが、これは『純愛』であって『性愛』ではないのだよ」
その事を考えると本当はハラワタが煮えくり返そうな思いがする。
それでも―――。
「愛別離苦 怨憎会苦」そして神野神右衛門は宗教的で哲学的なところもある。
「それでも俺はいくよ」
「いばらの道でもか?」
「もちろん」
ようやく夜のとばりが明け、東から日が昇る。
絶望も後悔も―――それは一瞬の出来事に過ぎない。
望めばまた日が昇るのだ。
「俺の屍を越えて行け!」いつかそんな力強いセリフを言えた時―――。
それが俺たちの夢が叶う時であり、俺が成仏する時だ。
俺は神野神右衛門に問う。「なぁ、Going my wayって知ってる?」
その時までは自分のやりたいようにやらせてもらうことにしよう。
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