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「すみません、わざわざ」
薄く開いたドアから声をかけると、疲れ果てて憔悴しきった顔がぬっと隙間からのぞいた。
ぎょろっとした目に不気味な光が宿っている。
「いいよいいよ、こっち来る用事あったし」
高橋、という名前の男だった。下の名前は知らない。いや、覚えていないというべきか。名刺はもらったはずだが、すぐにどこかへ行ってしまった。メールに署名もないので、もう覚える気もないが。
ギィと小さくきしんでドアが開く。
高橋がゆらりと生気のない様子で、滑り込むようにして中に入ってくる。
「適当に座ってください」
靴を脱ぐと、すぐにリビング。狭いワンルームに、所狭しと机やプリンターといった仕事道具が押し込まれ、床には漫画本や雑誌、文庫本が積まれて、息苦しいほどに部屋を圧迫している。
高橋がチラッと窓ぎわを見たのに気づき、しまったと思う。
すっかり乾いた洗濯物が吊るされている。いつもはベッドの毛布の中に押し込んで見えないようにしているのだが、今日は突然だったので忘れてしまった。
自然と、私の目が洗濯物の横に吊るされた赤いワンピースに向いた。
二年前、脚本の受賞パーティで着て以来、そのままになっている一張羅だ。ホコリをかぶっているのが、離れていてもわかる。
私は何も見なかったことにして、仕事用の椅子に腰かけた。
高橋は明らかにあきれたように、机の上にかけられた一年前のカレンダーに触れた。
「…もうすこし片付けたら」
「すみません。いろいろと忙しくて」
「え、脚本の仕事、ほかからも来てるの?」
「わけないやないですか…バイトですよ、バイト」
「だよね。愛子ちゃんがあちこち営業できるわけないもんね」
高橋は遠慮もせず、ベッドの上に腰かけた。
少しイラっとして、椅子から立ち上がる。
キッチンと呼ぶには小さすぎるスペースに向かうと、電気ポットを揺らす。
中の雰囲気からして、二人分のコーヒーを淹れる量はありそうだ。
「…また急ぎの仕事なんですよね」
「リメイクなんだけどさ」
「リメイクねえ…」
適当に相槌を打ちながら、カップにインスタントコーヒーの粉を入れる。
高橋は特に何を言うでもなく、ぼうっと中空を見つめていた。
なんとなくその間が気まずい。
「--どうぞ」
「ああ、ありがとね」
カップを手渡しする。
滅多に人など来ないので、来客用のテーブルなどはあるはずもない。
私は自分の分のカップを仕事机に置くと、ゆっくりと一口、飲んだ。
「……ホラーでしたっけ」
事前の電話で聞いた内容を思い出して、私が尋ねる。
高橋を見ると、また焦点の定まらない様子でどこかを見つめている。
--何を見ているんだ。
「高橋さん?」
「あ、そうそう。昔の本があるからさ、それを参考にちゃちゃっと書いてもらえれば」
「ちゃちゃっと…」
高橋は、カップをベッドわきに置くと、鞄に手を突っ込んで何かを探し出した。
カップを倒したらさすがにキレるかも、と思っていると、高橋は一冊の脚本を取り出した。
「これなんだけどね」
脚本を手に取る。パステルカラーの表紙。
表に「闇の病」というタイトル。裏返すと「法子」と大きく書かれていた。
「……のりこ?」
「気になる?」
「…まあ」
この業界では脚本の裏表紙に、所持者の名前を書く風習がある。
つまりこの脚本は「法子」という人の持ち物、ということ。
「いや、ぼくもほうぼう探し回ったんだよ。当時の制作会社にも当たったし。けど、これしかなくって…」
「はあ…」
「…あれあれ。もしかして乗り気じゃない? 断るとか言わないでよ」
「いえ…私にも生活があるんで、書くのはいいんですけど」
「大丈夫大丈夫。お話はこの本をちょっといじるだけなんだから、気楽にやろ」
「……脚本より映像を見た方がイメージしやすいんですけど」
高橋はあえて間を作るようにコーヒーを口に含んだ。
「映像はね、うん、ないんだよね」
「…なんでですか?」
ある程度まで撮影は済んでいたと聞いている。
何らかの事情があってお蔵入りになったのはわかるが、撮影済みの素材くらいは手に入りそうなものだ。
「ま、とにかく一度読んでみて。夜また電話するから」
それだけ言うと、高橋は立ち上がった。
自らカップをシンクに置き、私を振り返ることもなく玄関へ向かう。
私は高橋を見送ろうと、慌てて椅子から立ち上がる。
「あの、お疲れ様です……」
高橋の背中に声をかける。
高橋は私を一度も振り返らず、靴を履いてさっさと出て行ってしまった。
なんとなく、嫌な予感がした。
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