夜想2-⑴

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夜想2-⑴

『水菓子 果物 水華堂』  温泉客に果物を食べさせるという件の店は、和洋折衷の建物の一階にある小さな店だった。 「いらっしゃいまし。まあまあ、若い方がこんなにたくさん」  棒縞の袷を着た主らしい女性は、入ってきた流介たちを見ると物珍し気に目を見開いた。 「実はまだ湯にも浸かっていないのですが、こちらで珍しい果物を食べられるとうかがいまして」  芦谷が慣れた口調で来意を告げると、女主人は「そうですか。何にいたしましょう」とよく通る声で応じた。 「ここから歩いてすぐのところに『水晶宮』という温室があるのをご存じですか」 「ええ、ええ。遠くから拝見したことがございますが、綺麗な建物ですねえ」 「そこの主人から聞いたのですが、なんでも南国で獲れる「バナナ」という果物をこちらでいただけるとか」 「バナナですか……ちょうど熟した物が一房、ございます。生で召し上がっていただいても結構ですが、まずはお味を見るためにすり潰した果実に牛乳と蜂蜜を加え、飲み物風にした物を召し上がっていただきましょう」 「バナナをすりつぶして飲み物にするですって?そんな食べ方があるのですか」 「私が考案いたしましたの。でも蜜柑だって絞って汁を飲んだりするじゃありませんか。騙されたと思ってお上がり下さいな」 「ううむ、主の話ではねっとりと甘いとの話だが……」 「その通りですわ。狭いですがどうぞ奥のお座敷でお待ちください。持ってまいります」 「わかりました。ではそれを頂きましょう」  芦谷が頷くと、女主人は「どうぞこちらへ」と流介たちを奥の小さな座敷へ招じいれた。 「うふふ、楽しみねえ」  亜蘭が期待の言葉を小声で漏らすと、それに便乗するかのように「やっぱり先輩についてきてよかったです。ああ、どんな不思議な味がするのだろう」と弥右が言った。  弥右の無邪気な期待に流介は「瑠々田君、貴重な果物を口にするのだからちゃんと味を記事の形で伝えてくれないと困るぞ」と釘を刺した。 「どうしよう、自信ないなあ……果物のおいしさを記事にするなんて難しすぎます」  流介がもはやバナナのことしか頭にない弥右に呆れていると「お待ちどうさま、バナナ牛乳でございます」と江戸切子を思わるコップの乗った盆を手に、主が再び姿を現した。 「おお、この硝子は高そうだ。よく手に入りましたね」 「これは元々私の家にあったもので、外国の物だそうです。商いを始める時、父から譲り受けたのです」 「ううむ、これからは湯上りにこのような果物を使った飲み物を頂ける時代が来るのかな」  芦谷はそう言うとコップ掲げ、注がれた黄色い飲み物をしげしげと眺めた。 「では、私から味を見させていただきます」  芦谷はコップに口をつけ、未知の飲み物を一口すすると「おう」と声を上げ目をぱちぱちさせた。 「甘い。まるで菓子を溶かして喉に流し込んでいるようだ。これがバナナという果物の味なのかな」 「さようでございます。甘いだけでなく、栄養もたっぷりとございます」 「うん、確かに深い滋味を感じるな。皆さんも召し上がってみるといい」  芦谷に促され、「では」とコップを手にしたのは兵吉だった。口につけたコップを傾け、中の液体を口に流しいれた兵吉は途端に「おう、これはすごい。水菓子はあまり口にしないのですが、このねっとりとした甘さと香りにはやられてしまいますな」と言った。 「ふふっ、新しい時代にふさわしい味ということが、お分かりになりましたかしら」  女主人はそう言うと、丸顔の中の目を細めた。
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