夜想2-⑵

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夜想2-⑵

「なんだかすっかり暗くなりましたね。早く湯に浸かって寝てしまいましょう」  焼いた干魚、煮物、こぶいかと呼ばれる漬物と味噌汁で夕食を済ませた流介たちは、宿から三間ほど離れた別棟にある温泉へと繰り出していった。  流介たちが泊まっている宿は漁師小屋――いわゆる番屋を改造したもので、「ニワ」と呼ばれる真ん中の土間を境に漁夫たちが雑魚寝のように休んでいた「ダイドコロ」と、網元などが休む座敷とに分かれていた。  急に訪ねて行った流介たちは値段の安い元「ダイドコロ」の部分があてがわれたが、とにかく体を横たえられさえすればよい流介たちにとっては安くて使い勝手のよい宿であった。  流介たちが暗い敷地を湯治小屋に向かって歩いていると、向こう側から見慣れた顔がやって来るのが見えた。 「おや飛田さん、ひょっとして同じ宿ですか」  湯上りの顔を見せつつそう言ったのは、兵吉だった。 「やあ兵吉さん、どうもそうらしいですね。顔を合わせなかったところを見ると、ひょっとして座敷の方にお泊りですか」 「いかにもそうですが……飛田さんたちは?」 「土間の向こうの「ダイドコロ」で雑魚寝ですよ。なにぶん宿代が安いもので」 「はあ、なるほど……亜蘭はそちらでもいいと言ったのですが、さすがにそんなことを許すわけにはいかないので少々、張り込んだのです」 「いや、それが正しい考えだと思いますよ。若い娘さんを襖もない台の上で休ませるわけにはいかないでしょう」 「そんなことをさせたら親に叱られますからね。ところで番屋と言えばこちらでは漁師の泊まる建物ですが、得戸で番屋と言えば自身番の詰所のこと。いわば交番のご先祖様で偶然にも私の仕事場と縁があったわけです」 「面白いですね。……や、あまり長く立ち話をしていると湯冷めしてしまいますね。では僕たちはちょっと湯に浸かりに行ってきます」 「いいお湯ですよ。ではおやすみなさい」  流介たちは兵吉と別れると馬車鉄道で通うであろう人々の目的地、温泉へと足を向けた。  小屋そのものは簡素だったが浴槽にはお湯がたっぷりと満たされ、流介たちは長い馬車旅の疲れを落とそうと熱い湯に身体を沈めた。 「……ああ、これはいい。身体の芯から温まりますね、先輩」 「うん、素晴らしいお湯だ。湯の川とはよく言ったものだね。番屋で海の物を食って湯に浸かる……はるばる尻の痛い思いをしてやってきたかいがあった」 「あのくらいの道、どうってことないじゃないですか。しかし『水晶宮』といいバナナと言い、山の手から半日かけてやってくるだけの価値はありますね」  流介は湯の中を泳ぐように移動する弥右を見て「やれやれ、湯船で戯れるとはやはりまだ、子供だな」とのぼせかけた頭で思った。 「さて、そろそろ宿に戻ろう瑠々田君。あまり長く湯に浸かっていると……おや?」  流介はふと言葉を止め、外の物音に聞き入った。何やら甲高い獣の哭き声らしきものが聞こえてきたからだった。 「あの哭き声は何だろう。鳥にしては太いような気がするが……」 「おかしいですね。北開道には猿はいませんし……」  二人で首を捻っているうちにやがて不気味な哭き声は消え、あたりには元の静寂が戻った。 「ふう、やはり温泉地とはいえ田舎だな。次は明るい昼間に入るとしよう」 「記事には夜の温泉も味な物だと書きたいところですけどね」 「そう言う外連味は慣れてからにしたまえよ瑠々田君。馬車鉄道でどれだけの湯治客が来るか、そいつは君の書く記事次第だ。腕の見せ所だよ」 「うへえ、こりゃ大変な仕事を仰せつかっちまったなあ」  弥右は大袈裟に顔をしかめると、噴き出した汗を拭った。
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