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夜想2-⑹
「さあ、お目当ての動物も見たし、『水華堂』に行ってひと休みするとしよう」
流介が立ち去りがたい素振りを見せている亜蘭と弥右を促すと、「ほう、『水華堂』に行いかれるのですか」と主である九兵衛が言った。
「ご主人もよく行かれるのですか?」
「いや、そうではなくあそこの女将が私の亡くなった弟の妻……つまり義理の妹なのです」
「そうだったんですか。これは意外な縁ですね」
「会ったらよろしく言ってください」
「わかりました。貴重な動物を見せて頂いたお蔭で、記者として珍しい体験ができました」
流介は丁重に礼を述べると、亜蘭と弥右を急かしつつ九兵衛の動物小屋を後にした。
※
「ええそうです、尾藤九兵衛は私の義理の兄でございます」
『水華堂』の女将、尾藤菊乃は流介のぶしつけな問いにも嫌な顔を見せず即答した。
「こんなところに……と言っては何ですが、あのような不思議な動物たちを飼われている方はいらっしゃるとは思いませんでした」
「私も、あの裏庭の小屋を初めて見た時には驚きました。商売のためとはいえ、逃げたりしたら大変なことになると……」
「ひと騒動起きるでしょうね。温泉の客足にも影を落とすかもしれない」
「そうならないことを祈っております。……それで、今日は何にいたしましょうか」
「またバナナのような珍しい果物でもあれば……」
「まだバナナのケーキが少々、残っておりますのでそちらでもよろしいですか」
「もちろん構いません。むしろ貴重な物を私たちが食べつくしてしまうのではと心配になるくらいです」
「そうですね、来週からはしばらくお出しできなくなるかもしれません。白石さんという設計をされている知り合いの方が、いずれこの近くに小さな温室を造ってバナナを栽培したいとおっしゃってくれているのですが……」
「ああ、白石さんというとあの『水晶宮』を設計された方ですね」
「その通りです。よくご存じですね」
「実は昨日『水晶宮』の主の有馬さんと一緒にいる所に出食わしたのです」
「ああ、あのお二人ですか……近頃はあまりうまく言っていないとか言う話も耳にいたしましたが」
「えっ、どういうことです?」
「あ、すみません。お気になさらないでください」
菊乃はそこで言葉を切ると、そそくさと厨房の方へ姿を消した。
――ふうむ、素晴らしい温室の中で不穏な空気が広がり出したと言うわけか。
流介はもしこの後、主と会ったとしても白石の名前は出さぬ方が無難だな、と思った。
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