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夜想3ー⑸
――おかしいな。もっと悔しがるかと思ったのに。
流介が「どうだ」という顔を引っ込めて名探偵の反応をうかがっていると、それまで黙っていた天馬がふいに「飛田さんの推理には、もっとも重要な部品が欠けています」と言った。
「部品が欠けている?どういうことだい。動かせる硝子といい、木の下で亡くなっていたことといい、あらゆる事実が下手人が猿だと示している――これこそ真実だと思わないか?」
「……では伺いますが、飛田さんはその下手人である「猿」をご自身の目で目撃していますか?」
「……それは」
「僕が足りないと言ったのは、そこです。いいですか飛田さん。この世界に真実などという物はありません」
「真実が無いだって?君はいつも謎の裏にある真実を見事に言い当てているじゃないか」
「違います。真実とはその人が真実そのものであるか、真実らしき何かを目撃しているか、そのいずれかである場合にのみ成立するのです。そして多くの場合、さまざまな仮説の中から多くの人が納得するであろう「それらしい」説を仮の真実として選んでいるに過ぎないのです。
それを選ぶ際に最も重要なのは、「真実を感じさせる何か」です。ここでは「猿」がそれに当たります。この部品なくしてこれが真実だと断言することは不可能なのです」
「しかし、僕と瑠々田君は温泉で奇妙な動物の声を聞いたぞ。あれは「謎の外国人」が尾藤氏の檻から盗みだそうとしてうっかり逃がしてしまった猿の声ではないのか」
「その哭き声の正体も、その目でしかと見てはいないのでしょう?」
「……まあ、確かに」
「飛田さんが見た「猿」は檻の中にいる、おとなしい猿ですよね?誰一人、硝子の壁をよじ登っている「猿」を見たものなどいないのです」
「するとどうなるんだ?やはりただ単に足元を誤って転倒しただけの「事故」なのかい?」
「そうかもしれませんし、また別の可能性があるのかもしれません」
「別の可能性だって?しかしあの屋根に人は登れないし、玄関には内側から鍵がかかっていたんだよ。他にどんな可能性があるって言うんだい」
流介が問いただすと、天馬はしばし上を向いて沈黙した後「白石氏の死と、現場の状況とはそれぞれ別の悪意が関わっているのかもしれません」と言った。
「別の悪意?」
「この舗道を見て下さい。椰子の木の向こうあたりからごつごつした面に変わっているでしょう。あのごつごつした部分で頭を打てば、運次第では亡くなることもあり得ます」
「やはり事故だったと言うんだね。……しかし白石氏が倒れていたのはごつごつした部分の手前の床だし、見つかった時はうつぶせになっていたんだよ。おかしいじゃないか」
「そう、不自然なのです。この表面の質が変わっている境目の所を見て下さい。何か「のり」のような物が固まった痕がありますね。僕はこの痕こそが下手人だと考えています」
「床が下手人だって?」
「正しくは一昨日の夜、ここにあったある物です」
「ある物とは?」
「……これです」
天馬はポケットから新聞紙に包んだ握り拳大の物体を取り出すと、流介の前に差し出した。
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