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夜想1-⑶
「さてと、日没まで間があるし、浜の方に向かって歩いてみるか」
「道がありますかねえ、先輩」
「松倉川に沿って歩けばたぶん、出られるだろう。夕日を拝んでから戻ってくればちょうどいい」
境内を出た流介たちは来た道を引き返しつつ、馬車を預けた宿を横目に浜に向かって歩き始めた。小さな宿屋がぽつぽつと見える一角をやり過ごし、人気のない川沿いの道に足を向けかけたその時だった。
一件だけぽつんと離れた川沿いの宿からまたしても見知った顔が二つ、通りに姿を現すのが見えた。
「あら飛田さん、珍しいところで」
「亜蘭君……それに兵吉さん」
目を丸くして流介を見たのは末広町の写真館の娘亜蘭と、その兄で巡査の兵吉だった。
「ポオも一緒ですわ」
亜蘭はそう言うと、足元にいる黒い猫を見遣った。
「ああ、弁当騒ぎの時の……あ、いや賢そうな猫ですね」
「両親の古い知人で芦谷さんという方いて、元々はその方が飼ってらした猫ですの。今日はその芦谷さんご夫婦が温泉に行きたいというので、兄と付き添ってきたんです」
「なるほど、では薬局も警察もお休みと言うことですね」
流介が訪ねると、兄妹はよく似た笑顔で「はい」と頷いた。
「まさか君たちも来ていたとは……」
「君たち……も?」
「実は先ほど湯倉神社で住職やウメさんたちとすれ違ったんだ。なんでも知り合いが宿を始めたとかで温泉旅行を兼ねて来たらしい」
「まあ素敵。そう言えば宿の方から戦争の時は榎本様もお湯に浸かられたと聞きましたわ。……ところで飛田さん、お隣の方は?」
「ああ、今度見習い記者として入った瑠々田君だよ。馬車を操って僕をここまで連れて来てくれたのだ」
「はじめまして、瑠々田弥右です」
「こちらこそ初めまして。私は平井戸亜蘭。写真館の娘で、今は薬局で働いています。……こっちは兄の兵吉。今日はお休みですけど巡査をやっています」
「どうぞよろしく。……やあ、可愛らしい猫ですね」
弥右はポオの背中をひと撫ですると目を細め、年相応の顔になった。
「僕たちはこれから浜の方に行って夕日でも眺めてこようかと思うんだが、亜蘭君と兵吉さんは?」
「実は私たちも浜の方に行くつもりなんですが、夕日が目当てではないんです。ある珍しい建物が浜の方にあるらしいという話を芦谷さんにしたら、ぜひ見てみたいって。だから兄とお連れすることにしたんです」
「珍しい建物?」
「ええ。なんでもあるお金持ちの方が浜の方に『水晶宮』という温室を作られたとか……」
「水晶宮……」
「南の方の珍しい植物を集めて、この辺りの皆さんに披露しようとしているのだそうです」
「ああ、なるほど。温室の中は陽当たりが良いから、南の植物を植えたら楽しいでしょうね」
流介が頷いていると、亜蘭たちの背後から「やあお待たせ」という声と共に恰幅のいい年配男性が姿を現した。
「飛田さん、この方が芦谷さんです。下宿を二軒経営されていて、うちにもよく遊びにいらっしゃいます」
「亜蘭さん、この方は?」
「匣館新聞社の記者さんで、飛田さんと、ええと……」
「瑠々田弥右です。見習い記者です」
「ああ、どうもこんにちは」
芦谷は初対面の若者にも偉ぶることなく、柔らかな笑みを返した。
「芦谷さん、飛田さんたちも浜の方に行くみたいだから、一緒に『水晶宮』を見に行きませんかって誘ったところなの」
「うん、それは賑やかでいいね。みなさん、よろしくお願いします」
芦谷は深々と頭を下げると、「おお、ポオよ。ほったらかしてすまなかった」と寄ってきた猫を愛おしそうに抱きあげた。
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