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夜想1-⑷
「それにしても温室に『水晶宮』などと名付けるとは、大それた資産家ですな」
芦谷は田舎道を歩きながら、子供のように浮きたった調子で言った。
「どういうことです?」
「そもそも水晶宮と言うのは今から十年以上前の倫敦万博で、新しい技術や珍しい文化を展示するために造られた建物なのです」
「ほう……」
「大量の硝子を鉄骨と組み合わせて作るので、相当な技術を持った建築家じゃないと造れないとも言われています」
「硝子でできた巨大な建物というのも怖いですね。でも南の植物にとっては天国だろうなあ」
「飛田先輩、気のせいか何だか地面もあったかい気がしますよ」
突然、割って入ってきたのは弥右だった。
「そりゃあ、このあたり一帯が温泉の出口なんだから……」
流介が諭すように言うと、弥右は「そうか、こんな場所に建てたのは地熱があるからか」と頷き、足元の土をとんとんと踏み鳴らした。
「――ほら、見えてきましたよ。あれが『水晶宮』です」
芦谷がそう言って指で示したのは、建物もまばらな平地の一点にある白っぽい影だった。
「ああ、本当に光っていますね。温室と言うよりまさしく硝子の城だ」
西日を受けきらきら輝く建物を見た瞬間、流介は「あれが全部硝子だとすると、いったいどんな人たちがどうやって造ったのだろう」と首を捻った。
「温泉の匂いと潮の匂いが一緒に漂ってくる場所なんてここしかないわね、兄さん」
亜蘭が隣を歩く兄兵吉に聞くと、兵吉は「うん、もしかしたら数年後には大変な名所になっているかもしれないな」と返した。
「あの中って、今はまだは入れないんですか?」
弥右が無邪気な問いを放つと、芦谷が「どうでしょうね。うまく建物のご主人と会えたら聞いてみますか」と答えた。
流介たちが近づくにつれ『水晶宮』はどんどん大きくなり、全容がわかると一同の口からほぼ同時に「おお」と感嘆の声が漏れた。
海辺から五十間ほどしか離れていない場所に忽然と現れた硝子の城は、中央にピラミッドのような尖った屋根を持つ部分、そしてその両側にかまぼこ型の棟がくっついているという異形の宮殿であった。
「まさかこれほど大きいとは……」
「確かにそうですね。本物の『水晶宮』には及びませんが、田舎の街に建てる温室としては驚くほど大きい。主の情熱がうかがえますな」
「中に見える緑色の影はあれは、植物なのでしょうか。だとしたら小さな森が温室にすっぽりと収まっていることになりますが」
兵吉が唸りながら感想を漏らすと、芦谷は「恐らくそうでしょうな。しかも丈と葉の大きさを見る限り、南洋の植物に違いありません。熱帯の密林を丸ごと運んできたような物です」と言った。
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