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夜想1-⑸
「ううん飛田さん、僕はもう中に入ってみたくてたまらなくなりましたよ」
弥右は子供のように足を踏み鳴らすと、止める間もなく温室の方へとすたすた歩き始めた。
「しょうがないな。……みなさん、ちょっと連れ戻してきます」
流介は亜蘭たちにそう言い置くと、硝子の建物を眺め回している弥右を追っていった。
「瑠々田君、そりゃあ僕だって中を見たいのは山々だ。しかしだね、取材には段取りと言う物が不可欠なのだ。礼儀を欠いては見られるものも見られなくなってしまう」
「こっそり入ってしまったら怒られますかね」
「そんなことになったら、僕は君を置いてさっさと帰ってしまうだろうね」
いよいよ呆れた流介が温室に背を向けかけた、その時だった。ふいに近くから聞き覚えのある声が自分の名を呼ぶのが聞こえた。
「やあ、飛田さんじゃありませんか。こんなところまで、疲れを癒しに来たのですか」
はっとして声のした方に顔を向けた流介は思わず「君たちは……」と声を上げた。二つ並んだ馴染みの顔は、伝馬船の船頭にして通訳の水守天馬とその許嫁、安奈だった。
「これほど街から離れた場所で、未来の若夫婦と出くわすとは。君たち二人はつくづく驚かせてくれるな」
「ふふ、梁川様と榎本様がどうしてもここの湯に浸かりたいというので、僕らもお伴してきたのです。今ごろは宿で昔話に花を咲かせていることでしょう」
「なんと、榎本公まで来ているのか。こいつは驚きだ。しかしあの悪路をよくやってきたな」
「実を言うと、すぐそこの河口まで僕の船で来たのですよ。ぐるっと匣館山を回ってね」
天馬が笑いながら言うと、脇で控えていた安奈が「もちろん、私も天馬も馬の手綱はさばけますから、馬車でも来られましたわ。でもお二方が『幻洋館』に乗ってみたいというので」
安奈が日本人離れした美少女顔をほころばせて言うと、弥右が初対面であるにも拘らず「ゲンヨウカンとはなんですか?」と丸い目をくるくる動かしながら尋ねた。
「あ、天馬君。紹介が遅れたがこの少年はうちの社員で、瑠々田君という見習い記者だ」
「はじめまして瑠々田さん。僕は水守天馬。通訳として時々、新聞社にお邪魔している者です。本職は伝馬船の船頭ですけどね」
「あっ、もしかしてあなたが噂の船頭探偵ですか。いやあこんなところでお会いできるとは」
流介は目を輝かせてはしゃぐ弥右に冷や冷やしつつ、「と、ところで天馬君たちも『水晶宮』を見に来たのかい?」と話題を逸らした。
「ええ、その通りです。期待にたがわぬ美しさで僕も安奈も大満足です。ああ、あと数日ここにいられたなら開館日に中を見られたのになあ」
「船をつけられそうな岸もわかったんだし 、あらためて来たらいいじゃない、天馬」
「ああそうだね。いいことを言うじゃないか。うん、楽しみだなあ」
天馬がにこにこしながら頷くと、弥右が「船で……いいなあ」と物欲し気な口調で言った。
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