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夜想1-⑺
「有馬さん、温室を見たいという方たちがいらっしゃるんですが」
大楠が入り口から一間ほどの所で立ち話をしている男性たちに声をかけると、仕立てのよい服を着た中年男性が「この中をですか?……まだ正式に開館してないのですが」と口ごもった。
「すみません、無理を言って。私は芦谷と言って大沼の方で下宿屋をやっております。こちらへは湯治に来たのですが偶然、ここの噂を耳にしましてどうしても見たくなったのです」
商人らしくもの慣れた口調でそう切り出したのは、芦谷だった。
「ううむ……まあ確かに近々、街の人たちにも公開するつもりでしたが。……わかりました。まだあちこち整っていない部分もありますが、それでもよければご覧になってください」
有馬という男性は戸惑ったように眉を寄せつつ、懐の深いところを見せた。
「ありがとうございます。こちらの二人は私の連れで友人の子供たちです」
芦谷が背後を目で示しながら言うと、亜蘭と兵吉が「はじめまして」と一礼した。
「あ、あのっ、僕たち『匣館新聞』の記者なんですが、一緒に拝見してよろしいでしょうか」
亜蘭たちに乗り遅れまいとするかのように、弥右が見学願いを口にした。
「ええ、いいですよ。ただ植物にはなるべく触らないでください、それと……」
有馬はいったん言葉を切ると、世間話をしていた男性の方に目を向けた。
「――温室の壁にも触らないでください。硝子ですし、温まっていますので。……申し遅れましたが、私はこの温室の設計者で造園業と輸入業を営んでいる白石と言います」
額の広い童顔の男性はそう言うと、丁寧に一礼した。
「有馬さん白石さん、はじめまして。『匣館新聞』の飛田と言います。素晴らしい温室ですね。なんでも『水晶宮』と呼ばれているのだとか」
「その通りです。この温室は第一回の倫敦万国博覧会で会場となった硝子の建物を模しているのです。私は趣味で温室をいくつか持っていますが、数年前に仏蘭西の田舎で出会ったある人物の夢に感銘を受け、いつか自分の宮殿を造りたいと思うようになったのです」
「仏蘭西の田舎……ですか」
「はい。その人物は郵便配達夫らしいのですが、家の庭に拾って来た石でせっせと自分だけの宮殿をこしらえていたのです。誰に知られることもなくただ、理想の宮殿を作りたい一心で、です。私はここの土地を手に入れた時、今がそれを造る時だと思ったのです」
「硝子にされた理由は?まさかこの匣館で万国博覧会を開くわけにもいかないでしょう」
「中を見て頂くとわかりますが、私は硝子の宮殿をそのまま熱帯植物の密林にしたいのです」
「熱帯の密林……?」
「はい。この場所に温室を造ったのも地熱が高く、熱帯を思わせる土地だからです。さらにあらゆる角度から太陽の熱を受け止められ、熱帯の陽射を再現できる建物でなければならない。私は温室の設計を多く手掛けられていた白石与志夫さんに、どうにか巨大な温室をこの場所に造れないものかと相談しました」
有馬が視線を向けると、白石は「話を聞いたときは驚きました。なぜならこれほど巨大な建物を造るには、日本で製造されている硝子では間に合わなかったからです」と言った。
「ではどうやって建造されたんですか」
「一部の硝子を海外から輸入したのです。お蔭で建設費より輸送代の方が高くつきそうになりました」
「……そうだったんですか。ますます中を見てみたくなりました」
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