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「なんで……颯くん、どういうこと?」
「……隠していてごめんなさい。僕はこいつの……あなたへの“恋心”のドッペルゲンガーなんです」
颯は私の方を見ずに、そう言った。
彼がドッペルゲンガー? そんなの信じられる筈がない。颯は戸惑う私に構わず、まるでもう時間が無いとでも言うように早口で語った。
彼は私と初めて会ったあの日、すぐに私が恋の相手だと気付いたという。自分の正体を知っている彼は、最初は私に接触する気はなかったらしい。が、どこか寂し気に見えた私に衝動が抑えられず、思わず声を掛けてしまった。そうして私と彼の、表と裏の道が交わってしまったのだ。
「あなたと居ると、まるで自分が生きているみたいで。もしかすると僕が本体なんじゃないかって、思い上がったりもして……」
彼の悲痛な声に心が捩れる。
「ストーカーが僕の本体だなんて知らなかった。本当に……どこまでクズなんだこいつは! こんな陰気で愚図で仕事も出来なくて、好きな人に声も掛けられない奴が、なんで本体なんだ。なんで僕がドッペルゲンガーなんだ!」
いつも穏やかな颯が激情に溺れている。彼は男の顔に拳を振り下ろすが、それは虚しくすり抜けてしまった。悔し気に悪態を吐く颯の姿は、刻々と薄れている。
私はドッペル一号が言っていた事を思い出した。ドッペルゲンガーは本体の近くでなければ存在できないという。ならばもし、本体が居なくなれば? その時もまた、彼らは……。
「どうすれば、颯くんを助けられるの?」
私の問いに、彼は泣きそうな顔で振り返った。
「ごめんなさい。悲しい思いをさせて」
「謝らなくていいから……消えないで」
颯の手が私の頬に伸びる。そこにはもう何も感じ無い。たった数時間前には手を繋いでショッピングモールを歩いていたのに。次は遊園地に行きたい、なんて話していたのに。彼に送ってなんて貰わなければよかった。一時間……たった十分でもいいから、時間を戻して欲しい。
彼の両腕が私の周りを優しく包んだ。
「好きです。生まれた時からずっと、あなたが好きです。ずっとあなたに会いたかった。……あなたと一緒に居たかった。あなたと生きたかった!」
彼の瞳から流れる涙。こんな時でも、母の呪縛に囚われた私の目は涙を思い出さない。泣きたくても泣き方が分からないのだ。
その時、夜道に足音が響いた。見知った女の姿に、私は驚かない。
「もう分っているわね。私はあなたの最後のドッペルゲンガー。あなたが失った“涙”の形よ。受け入れれば、辛く苦しく悲しいけれど、いいわね?」
「……早く、戻って来て!」
大切な人の為に涙を流せないなんて、それ以上に辛い事などありはしない。
ドッペル三号はこちらに歩み寄ると、その手で私の目を覆った。彼女の手が触れた瞬間、鼻の奥がツンと沁みる。目が熱くなり、顔の筋肉が強張る。自分の中で暴れていた感情がようやく出口を見つけたのだ。
「僕の為に泣いてくれて……ありがとう」
初めてのキスは、触れることのないキスだった。
彼の姿が夜闇に溶け込み、見えなくなる。大人の上手な泣き方を知らない私は、子供のように大きな声を上げて泣きじゃくった。
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