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――葬儀から一月。彼……霧島 颯は、まだ私に失望していないようだった。私達は連絡先を交換しなかったが、街や駅でいつも偶然に出会う。そして他愛のないお喋りをした。颯は私より少し年下で、ブラックコーヒーが飲めなくて、古い映画が好き。照れ屋なその目は、見つめるとよく泳ぐ。可愛げのある男だった。一般的に見て魅力的な彼が、いつ私に飽きるのかと考えながら、私はその時が来るのを恐れている。
(私が彼に釣り合う人だったら良かったのに)
私の日常に起きた変化は、彼の存在だけではない。最近、人から妙な視線を感じる事が増えた。駅で、会社で、人々が訝しむように私を見る。毎朝寄っているコンビニでも、いつも陰気に俯いているバイト店員に目を瞠られてしまった。上司からは「この間、駅前のバーに居なかったか?」と全く心当たりの無い事を言われた。一体何だというのだろう。
夜八時。人の減ったオフィスに、今しがた帰ったばかりの同僚が戻ってきて私を呼んだ。
「下で妹さんが待ってますよ! 用事があるそうです」
「……妹?」
一体、誰の? 私は一人っ子である。
「妹さんとそっくりなんですね! 双子だったりしますか?」
何故かテンションの高い同僚を軽く流して、私は早足でエレベーターに向かう。
私に瓜二つの他人。それは一体何者なのか。私の脳裏に数日前の女子高生達の会話が蘇る。……ドッペルゲンガー。下らないとは思いつつ、それを振り切ることは出来なかった。
一階ロビー。その女は私に気付くと、明るい笑みで大きく手を振った。ピンクの花柄ワンピ―ス。小さすぎるバッグ。華やかなメイクに、手入れの行き届いた巻き髪。全くもって私ではないが、完全に私だった。顔も背丈も体型も、もっと本質的な部分も。理屈ではなく本能で、私は彼女が私だと知った。
まさか、こんなオカルトが実在するなんて。彼女が本当に私のドッペルゲンガーだとしたら、何故私に会いに来たのだろう。噂では会うと死ぬか、なり替わられるかだ。
リボン付きのパンプスをコツコツ鳴らして、女が近付いてくる。
「こんばんは。あなたのドッペルちゃんでーす」
緩く甘い声は、まるで録音した自分の声。得体の知れない存在に硬直する私の手を、女が掴む。自分で手を組んでいるように、二つの手はぴったりフィットした。彼女は強引に私を外へと連れ出す。信号機と車のイルミネーションが眩しい。
「……あなた何? 何が目的? 私を殺しに来たの?」
「は? 何でよ。私はあなた自身なのよ?」
「私、自身?」
「ええ」
女は頷き、ごく軽い口調で語り出す。
――ドッペルゲンガーは、人間の切り離された心の一部。例えばそれは夢を諦めた人の、夢を追う心。自分を偽り生きる人の、人には言えない本性。心や生活、何かを守る為に切り離した一部が、別個の人格を持ち具現化した存在。それがドッベルゲンガーだという。ドッペルゲンガーは実体はあるが心臓はなく、本体の近くでなければ存在できないらしい。
ドッペルゲンガーは昔から存在していたが、近年増加傾向にあるそうだ。現実とオンライン、会社と家庭。多面的な生活になればなる程、心は分かたれやすい。そうして生まれてしまったドッペル達は、情報や知識を共有し合い本体を守る為に隠れて生活している。ドッペルゲンガーに遭遇した人間は、自らが諦めた可能性の姿に嫉妬し、絶望し、命を絶つこともある為、彼らは身を潜めるのだ。
「全く信じられない。それが本当だったとして、私に会いに来たのは何で?」
「あなたに会いたかったから」
「だから何で」
「今のあなたには、私が必要だと思ったから。最近、何か心境の変化があったんじゃない? ……彼、いい人よね」
彼。それで思いつく人物など一人しかいない。何故彼女が颯を知っているのだろう。
「優しくて誠実そうで。お母さんの言っていた男の人とは大違いだわ」
「もしかして彼に気があるの? それで私になり替わって、彼に近付こうとしてる?」
「だったらどうする?」
ピンクのルージュがキュッと弧を描く。カールされたまつ毛がパチパチ瞬くのを見て、私は負けたと思った。
「……仕方ないかもね。彼も、あなたみたいに可愛くて明るい方がいいだろうし」
「は? 本気で言ってるの? ……あーもう! 我ながら重症ね! もっと自分を大切にしなさいよ」
女は形の良い眉毛を釣り上げて私に詰め寄った。
「可愛くて明るい方がいいって思うなら、そうなればいいでしょ!」
「いや無理」
「無理じゃない。私がそれを証明してるでしょ? ほら、行くわよ!」
女は私の手を握り、有無を言わせず夜の街に飛び込んだ。閉店間近のショッピングセンターで似合いそうもない服を合わせられ、大量の化粧品を買わされ……生クリームたっぷりのクレープを頬張って、タピオカドリンクで乾杯し、人気のない公園でブランコを漕ぐ。
驚きも疑心も全てが疲労に変わり……その先に、妙な気持ちが湧いてきた。顔の同じ三十路女が二人、何をはしゃいでいるのかと思ったら、笑いがこみ上げてくる。
「ふふっ! 何なのあなた、本当に私? なんか滅茶苦茶!」
「滅茶苦茶、なに?」
「楽しい。ヤバイ」
「ヤバいよね」
こんなに笑ったのはいつぶりだろう。
彼女はブランコから降りて隣にやってくると「良かった」と私を抱きしめる。人との接触は苦手だったが、彼女に触れられると心地良くて安心した。抱きしめ返そうとしたその手は、彼女の背をスルリとすり抜ける。……彼女の姿が、半分透明になっていた。
「どうしたの!? 体が、」
「大丈夫、心配しないで。これは私が望んだことなの」
「……え?」
「ドッペルゲンガーは、本体に受け入れられると消える。私はようやく、あなたに帰れるんだわ」
可愛く楽しい友人が、夜色の靄となり消えていく。……違う。私の中に戻っていく。私は自分の中の空白が、温かな何かで埋まるのを感じた。
突然現れ、突然消えた彼女。彼女の目的が、彼女と一体化した今の私にはよく分かった。彼女は私が捨てた“可愛い女の子”の形。私の変化を後押ししに来たのだろう。もっと一緒に遊んでいたかったが、寂しくはない。だって彼女はこれからも、ずっとここに居るのだから。
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