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新宿5
当時の新宿医科大学付属病院で懇意にしていた看護師が、今勤めている病院内で新蔵姫乃を見かけたと言うのだ。飛んで行きたかった。しかし、ここを離れる訳にはいかなかったし、覚えられているかもわからない私に心を許すとも思えなかった。だから私は手紙を託した。
手紙には私が当時の主治医だったこと。会って話がしたいこと。もしも家庭内のことで抱えていることがあるなら相談に乗ること。意思があるなら当時の真相を明らかにする手段があることなどを綴った。
私の手元には胎児のDNAサンプルがあった。もちろん同意もないし合法ではない。たとえ鑑定結果を警察に持ち込んだとしても証拠の効力はない。ただ真犯人に結果を突き付ければ、彼女を自由にしてあげられると信じていた。
看護師の話では、手紙は受け取ってくれたらしい。その後、通院はしていないという。住所を調べてもらうよう頼むことも出来たが、私の勝手な思いで不適切なことをさせるわけにはいかなかった。
十六歳の彼女から連絡がないまま二年が過ぎた。全ては私の思い込みだったのかもしれない。もう本人はあの夜のことなど忘れて幸せに暮らしているのかもしれない。そう思えたなら。そうだったなら。
嫌なニュースを見聞きする度に、あの夜の光景が脳裏をよぎった。タイルの床の上で鮮血に染まった胎児。感情が抜け落ちたように光を失った瞳。危なげな家族と消えた少女。
「あなたは今、何処でどうしているの」
老人ばかりで深夜ともなれば静かすぎる町だ。ついつい物思いにふけってしまう。精神衛生上、良くはない。
寝ようと電気を消した時だった。こんな時間に珍しく携帯電話が鳴った。急患なら家の電話が鳴るはずだ。画面の非通知という文字に胸騒ぎがした。
「もしもし」
相手は無言だった。切られたくない私は、あえて昔の病院名を名乗った。
「新宿医科大学付属病院の倉本です」
「あ。あの。新蔵、姫乃です。前に。お手紙頂いた」
自信無げなその声は、記憶の中にある声よりも大人びていた。生きていてくれた。私は涙声を悟られないように、彼女の決意に耳を傾けた。そして心から安堵した。
「わかった。待ってるね」
電話の通話が切れた音を聞いた私は、電気をつけキッチンに向かうと朝ごはんの下ごしらえを始めた。
〈チャプター新宿〉
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