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◇ ◇ ◇
四肢のすべてが溶け落ちる頃には、公務のために寝台から起き上がるのも人の手を借りねばいけなくなった。
発作の度、あらゆる箇所の皮膚が溶けては乾き、ふたたび溶け、一日に何度も敷布を替えるよう命じるはめになった。常に火の棒で内臓をかき回されるような痛みがある。
まだ意識ははっきりしているが、やがては日に数時間しか起きられなくなり、正気が消え、昏睡状態に陥るだろう。そうすれば、あとは死を待つだけの身になる。
過去、グエナヴィアは病床の母を訪うたび――やがては自分もこの宿業の道を辿らねばならない事実を前に――強い恐怖と、血に対する強い憎しみを覚えたものだった。
寝台の天蓋から落ちた薄い紗の覆いのむこうに、数人の人影が見える。
眠りから醒めたばかりのぼんやりとした頭で、グエナヴィアは耳を澄ます。
「グエナヴィア様の命を救う手立てはひとつ、魔術配列の編集を完遂すること」
――サイラスの声だ。
「だが、それは現状の生体干渉魔術では不可能だ。魔術配列は、《門の島》の認証鍵であり、解明されていない部分が多い。下手にいじれば宿主の命さえ危く、より安全な手法を探さなければいけない」
「何か案があるというわけですね」
「《門の島》で〝クリスパー〟を入手する。古代種だけが持つ、魔術配列の編集技術のことだ。彼らが渡った土地に行けば、ヒントが得られるかもしれない」
熱弁をふるう彼をたしなめるように、ジェイシンスが「そんな御伽噺を信じるものじゃありませんよ」と穏やかに囁きかけた。
「他にもっと効率的な手法はないんですか?」
「ない。それに、御伽噺でもない。俺は諦めない。グエナヴィア様を死の淵からお救いすることを」
サイラスの声に、グエナヴィアは声もなく微苦笑を漏らす。この男は、いつだって変わらない。本気で自分を救えると信じている。
愛おしいほどに愚直で、眩しいほどにまっすぐだ。
遺伝病は、本来は、古代種であった湖藍灰女王から子孫へともたらされた遺伝魔術だった。彼女とともに永い時間を生き、恙なくこの国をしろしめそうという祝福である。その祝福こそが、この国が古代種の特別な加護を受けた証であり、ゆえに女王がこの国の女王である根拠とされた。
しかし魔術配列の劣化によって――祝福は呪いに変貌した。
遺伝病は女王の体を蝕み、短命に変えた。
一方で、古代種を根源に持つ神話を維持するため、女王はその象徴に戴かれ続かれなければいけない。間もなくその統治権ははく奪され、彼女らは円滑な人民統治システムの一機構になり下がった。
みずからの子孫に宿業を受け渡したことを嘆き、始祖は《門の島》で入水し、かの海で永遠に漂うことを選択した。
(ああ……行っておいで、サイラス。お前が、わたくしの死で、悲しみによってその愚かで清らかな心が、美しい眼が潰されないように……)
彼は行くだろう。その果てにどんな困難が待ち受けているとしても。
(お前が帰ってくるころには、きっと、わたくしは死んでいるだろう)
けれどもそんなことは露ほども想像していない。そう言われたとしても、信じない。必ず自分を生かせるものだと思っている。
(それなら私は、お前のために、お前が生きる意味を遺そう。完璧な胚とお前の名付けた胚を。健やかなもうひとりのわたくしを)
――そして、もうひとつ。
「馬鹿げている。《門の島》に無事渡れるかもわからないじゃないですか。グエナヴィア様は、あなたが戻ってくる前に、きっと……」
言葉を濁らせたジェイシンスが、何と伝えようとしたのかは明白だ。
彼はサイラスほど愚直ではない。けれども繊細で、それゆえに悲観的だ。やがては訪れる瞬間を見据え、恐怖に今にも胸が張り裂けそうになっている。
(お前のためにも、希望を遺そう)
自分の代わりを。
この二十余年、自分を支えつづけた男たち。そのひとりひとりに、褒賞をやらねばならない。自分が正気を失う前に、そのための采配を終わらせねば。
それが神に背いた行いだとしても、多くの愛を集めた代償ならば――仕方ない。
「……魔術配列を正常な形にさえ戻せば、呪いは祝福に戻るのだろう。グエナヴィア様の寝所は、私がこの剣に誓って守り抜こう。だから安心して行くといい」
「ナサニエル」
「一時休戦だ、サイラス。ジェイシンスもな。いくら今はご就寝されているとは言え――グエナヴィア様の前で、みっともなく言い争うべきじゃないだろう?」
ナサニエルの言葉に、周囲に沈黙が落ちる。
グエナヴィアは彼らの声を聞きながら、ふふ、と口元をほころばせた。
彼とは婚約者の間柄だったが、数年前、サイラスによる胚の編集計画が順調に進むなかで、自分は誰の子を産むつもりもないと言って婚約を破棄した。それでもナサニエルは彼女に忠誠を誓い続けたが、周囲からは自分を棄てた女に仕える男として批難轟轟の嵐を浴びたと聞いている。
そんな彼も、先日ついに婚礼を挙げた。相手は気立てのいい貴族の娘だそうだ。
(お前は私でない他の女を選んだな。かまわない、許そう。その代わり、私をこれからも守り抜くんだ。正気を失い、自我の消えた私を、それでも――死ぬまで)
サイラス、ジェイシンス、ナサニエル。
誰も特別扱いはしない。口づけさえも交わさない。
けれども全員を――グエナヴィアは心から愛している。
◇ ◇ ◇
複数の足音が地に響く。
海水に濡れた長い階段を降りながら、エリファレットは苦痛に顔を顰めていた。滑る足もとに気を遣い、壁に手を突くその両肩は震えている。いつもの発作ではない――頭痛とともに押し寄せるグエナヴィアの記憶に、今にも自我が押し潰されてしまいそうだったのだ。
先行していたはずの男ふたりは、とうに姿が見えなくなっている。一刻も早く追いつきたいのにままならない現状。エリファレットは歯痒さを覚えた。
(先生……)
足を滑らせ、濡れた階の上に尻餅をついた。必死に立ち上がろうとしたが足に力が入らず、諦めて冷たい壁にもたれかかった。
深く息を吐いて、耳の裏でどくどくと血が脈打つ音を聞く。周囲の静寂に耳を澄ましていると、ふと、冷たい声が心の隙間に忍び寄った。
(……私は、先生のために生かされた胚だった)
ジェイシンスが、自分を欲しいと言ったから。
グエナヴィアが、それを与えた。
彼女の頭、胚に対する感情はひとつも無かったに違いない。何も慮られることはなく、エリファレットは彼女の代替物として生まれたのだから。
サイラスは何かの手違いだと言った。偶然の重なった末に生まれたならば、それでよかった。自分が女王の複製であっても、相手は見たことも話したこともない相手だ。エグランタインのように彼女と比較されて育ったわけではない。
延命手段として薔薇鉄冠が必要で、王位を継承しなければいけないと聞かされても、現実味はあまり無かった。非人道的に生まれた自分の存在は、どちらにしろ議会や教会によって審問に付されるだろう。継承者になったところで、女王の位を継ぐことには真実味がない。その事実はむしろ好都合だと思えたし、だから楽観的に構えることができた。
けれども最初から、そこに『エリファレット』が存在しなかったのだとしたら。
自分が生きる意味は、どこにあるのだろう。
記憶が渦巻く。ひっくり返した砂時計の砂がサラサラと落ちるように、エリファレットという人格は、別の女の砂と混ざってゆく。生きた年数で言うならば、経験の数で言うならば、圧倒的に彼女の方が濃く、長い。自分の生きていた時間は――学園で過ごした時間は――どれほど、ささやかなものだったのか。
(どんなに取るに足らない記憶でも、私にとっては大切なもので……)
自分という存在が今にも押し潰されてしまいそうだ。強い眠気に抗がうことが難しいように、グエナヴィアの影響下から逃れることができない。それでも歯を食いしばり、「自分は自分だ」と言い聞かせた。
「私は……エリファレット・ヴァイオレット……」
――しかし、今求められている存在は?
逆説的に考えるのだ、とエリファレットは思い至る。今、周囲から求められているのは、エリファレットがエリファレットとして君臨することではない。
ならば、その要求を飲みくだし、利用すればいいのではないか?
それが荊の道であっても、物事を解決するための最善策であるならば――
風が吹く。潮の匂いを含んだ冷たい風は、湿り気を帯び、少女の未成熟な体に絡みつく。わずかに鉄錆びた匂いが――血の匂いが鼻腔を突いた。
開け放たれた扉の向こうには、広大な空間が広がっていた。その巌窟にはどこか朴訥とした空気さえある。青潭色に赤紫色に、日の加減によって色を変えるアレキサンドライトを思わせる水晶が地面から無数に生えている。
そしてそのずっと先に、一本の大木がそびえ立っていた。
アカシアの樹だ。
陽の届かない地下だというのに、アカシアの花は満開だ。重たげに垂れた何本もの梢に茂る樹葉でほころぶ黄色い花。冷たい風に、その花びらが宙を舞った。
「おい……おめえ、何でいるんだよ」
水晶の根元に、ひとりの女が座り込んでいる。エグランタインだ。肩の傷を押さえた彼女の足もとには、無数の薔薇の荊棘の残骸が散らばっていた。それがサラサラと灰になってゆくのを横目に、さらに先に進んでいく。
彼女を庇うようにたたずむサイラスとナサニエル。そしてその先――鋼鉄の冠が輝く祭壇の前、アカシアの樹の根元に、ひとりの男が佇んでいた。
形のよい頤をついと上げ、すみれ色の瞳でまっすぐに前を睨みすえる。
風が彼女の顔に吹きつけると、その美しい髪は汚れた白い衣裳の肩を打ち、後方へとなびいた。
「ジェイシンス」
呼びかけたのは、エリファレットではない。
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