最終話 冠冕を捧ぐ

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最終話 冠冕を捧ぐ

最終話 冠冕を捧ぐ  ――静寂が満ちる。 「クソッ……、離せ! おい、この野郎! 離せよっ……!」  意識のないエリファレットの体を揺さぶり、エグランタインが必死に叫んだ。靴底で死後硬直の始まった腕を踏みつけ、何とか彼女の抱える冠を引きずり出せるだけの空間を作ろうとする。 「薔薇鉄冠を渡せ……! お前ごときが持っていていいもんじゃねえんだよ……!」  エリファレットの左胸から、地面に滴った血は海水と混じりあい、色を薄くして溶けてゆく。それを踏みしめ、サイラスがふたりの少女の前に立った。 「生体情報が記録された。お前の負けだ、エグランタイン」 「死者が女王になるってか!? ふざけんな! ああ、お前には何もわからねえだろうな! 女王になることに対する、俺の思いの強さがどれほどかなんて――!」  投げ出されたエリファレットの体を抱き起こし、呆然自失としたジェイシンスがその小さな頭を抱く。「ああ……」と小さな吐息が漏れた。 「エリファレット……。どうして……」  「お前らのせいだ!」といきり立ち、エグランタインが周囲の男を――すぐ傍まで歩み寄ってきたナサニエル含めて――睨みつけた。  血に濡れた両手の拳を強く握りしめ、すべてを拒絶するよう両肩を強ばらせて叫ぶ。 「俺だって殺さずに済んだならよかった! 結局――お前らがくだらない感傷に(ひた)って、命を弄んだ結果なんだよ! 何が完璧な胚だ、失敗作だ! 俺たちの人生はそうやってラベリングされるためにあるんじゃねえ!」  喉を震わせ、枯れた声を引き絞る。エグランタインはすみれ色の瞳に涙を溜め、しかしけっしてこぼすまいと顎を上げ、さらに怒声を響かせた。 「お前たちは俺らから尊厳を奪い続けた! ただ一個人として生きる自由を――グエナヴィアの名のもとに!」  服の袖でぐい、と目元を拭い、エグランタインは唇を噛みしめた。「どうして……」肩を落とし、鼻を(すす)る。 「どうして俺を認めてくれないんだ…………」  か細い囁きに、サイラスは目を瞬いた。 「エグランタイン」  背後から歩み寄って、ナサニエルが伸ばした手を、エグランタインは見向きもせず振り払う。渋面を浮かべた男は眉根を寄せ、それでも負けずと震える少女の肩を抱いた。 「お前は私の娘だ。グエナヴィアの代わりなど――一度も思ったことはない。そうならないように、グエナヴィアとはまったく異なった環境を与えてきたつもりだった」  ――伯爵家の隔絶された環境で育ったグエナヴィアに反して、エグランタインは侯爵家の息子たちと実のきょうだいのように育てられた。 「けれどもそう思わせてしまったら、その否は私にある。容赦のない悪意の渦から、お前を守り抜くことができなかった」 「ナサニエルだって、グエナヴィアのほうが大事だった。あいつが死ぬまで――俺のことなんて、ほとんどかまいやしなかった」 「もっとも信頼できる者が、お守りしなければいけなかった。正気を失った先代陛下を、不埒な輩の手から。歴代陛下も、そうして御子を身ごもられたことは少なくないから」  寝所にさえ忍び込めば、四肢もない、昏睡状態に陥った女を自由にすることは簡単だ。貴族院と対立したグエナヴィアによって地位を追われた者もいるなか、復讐を目論む輩がいてもおかしくはなかった。あるいは、継承者の父となることで、政治的な利権を得ようとする人物も少なくはない。  だからこそ、グエナヴィアはもっとも信頼のおけるナサニエルを、最期まで傍に置くことを選んだのだ。  深い忠誠があり――もはや自分に情愛を傾けることのない男を。 「…………知らねえよ、そんなの」  ナサニエルは肩を竦めた。その背後で、サイラスはジェイシンスの腕に抱かれたエリファレットに手を伸ばす。 「……俺たちは誤っていたのかもしれない。祝福されて生まれるべき命を、歪んだ形で祝福した。きっと、許されることではない」  深く項垂れ、乾いた髪を撫でつける。彼女が薔薇鉄冠を抱いた左胸の傷が、徐々に塞がってゆくのを目に留め、小さく息を吐く。  肩から力を抜き、柘榴石(ガーネット)の瞳を一度きつく閉じる。の言葉に胸を打たれたのは、けっしてジェイシンスだけではない。  本当は、心の底で分かっていたのだ。自分が帰還する前に、グエナヴィアが命を落とすことを。それでも門の島へと至ったのは、彼女の死を見ることが――生きる意味を失うことを、恐れたから。 「……グエナヴィア様のために培った、すべての知識と技術を発揮するときがきた」  サイラスは懐を探ると、そこから金属製の容器(ケース)を取り出した。  蓋を開けると小指のつま先ほどの――黄金の翼を持った、金属質の球体が姿を現した。せわしなく翼を揺り動かし、その奇妙な生き物はサイラスの肩に飛び移る。 「これが〝クリスパー〟――古代種の用いた生体情報(ゲノム)編集用のツールだ」  エリファレットを地面に寝かせ、サイラスが正面に立つ。一度深呼吸をすると、彼は周囲に文字盤(サークル)を出現させた。 「――」  低く、落ち着いた声でつぶやく。そして前かがみになると腕を伸ばし、エリファレットの抱いた薔薇鉄冠に触れた。  すると、そこから膨大な量の文字(スペル)が周囲に浮かんだ。 「」  薔薇鉄冠から浮上したのは、歴代女王すべての生体情報(ゲノム)だ。それらを指先で辿り、行き着いたのは――始祖と呼ばれる湖藍灰女王のものだ。  指先で文字群をスクロールし、そこから特定の文字列を引き出す。サイラスの肩に乗ったクリスパーが、大きく口を開き、その何千もの文字(スペル)を吸い込んだ。  意気揚々として自由に飛び回ろうとするクリスパーを掴むと、サイラスは迷わずそれを口に含んだ。  地面に膝をつき、エリファレットの顎を支える。  そして、その小さな唇に自分の唇を重ねた。  舌を使ってクリスパーを押し出し、彼女の口に含ませる。クリスパーは光の粒子に変貌すると、喉の奥へと消えていった。  エリファレットは薔薇の迷路園のなかを彷徨っていた。朝露に濡れた薔薇があちこちでほころび、周囲にはむせるような花の芳香が漂っている。  いくら歩けども出口は見つからない。袋小路に迷い込んでいて、もう二度と出られないのではないか――そんな不安に駆られた矢先、前方に人影を発見した。  白い薔薇の垣根の前に立った、美しい女性だった。  真紅のドレスに雪豹の毛皮。白金色の髪(プラチナブロンド)を風になびかせ、けぶるような睫毛の下には鮮やかなすみれ色の瞳。二本の足でしっかりと芝生を踏みしめ、その嫋やかな指は咲き初めの薔薇のつぼみを撫でる。  たとえ実際に会ったことがなくとも、エリファレットは彼女の名を知っていた。 「――グエナヴィア様」  グエナヴィアは振り返り、「娘よ」と囁いた。  その口元には鮮やかな笑みがある。 「……娘ではありません」 「いいや、娘だ。生体干渉魔術の母がわたくしなのだから――その技術によって生まれたお前は、まぎれもなくわたくしの娘」  凛然と、迷いなく言い放つその姿に、エリファレットは胸打たれた。この高潔な精神に、これまでどれほどの人が惹きつけられたことか。 (ああ……)  遠い、とエリファレットは思った。  どう足掻いても――この人そのものにはなれない。 「……グエナヴィア様。私は、生まれてこないほうがよかったのでしょうか。私が生まれたせいで、身近な人を苦しめてしまった」  強い絶望を感じ、項垂れたエリファレットの肩にそっと触れると、グエナヴィアは(かぶり)を振った。「生まれるべきでない命などない」はっきりと宣言する。 「わたくしは選択を間違えた。けれどもそれは、お前が生まれてこなければよかったという意味では、けっしてない」  長い睫毛を伏せ、グエナヴィアは歌うように続けた。 「何も案ずることはない。もう一度、お前に生命の祝福を与えよう。始祖女王から連綿と続く血の呪いは、今あるべき姿に戻る。そしてお前は、お前が生まれてきたことの意味を知れ――エリファレット」  長い(かいな)が、エリファレットの体をかき抱く。温もりに触れると、安心感がこみあげると同時に、強い眠気を覚えた。  甘い薔薇の香りに包まれ、エリファレットは夢見心地で目を閉じた。    薄目を開き、エリファレットは、自分の唇に重ねられた唇の存在に気付いた。 (サイラス……?)  全身の感覚がない。かと思えば、次の瞬間、右腕に()けるような熱が走った。右手首から強烈な光が拡散し、膨大な文字(スペル)がエリファレットを囲む。豆粒ほどの大きさもない文字(スペル)のひとつひとつが、彼女を構成する生体情報(ゲノム)だ。  その一部が目まぐるしく反転しては、またたく間に書き換えられてゆく。  右腕の熱量が増し、あるときを境に、赤い光が頭上で収束した。そして、地下神殿の天井にひとつの図を結んだ。  いつか王城で見たときのように、その線はぼやけていなかった。《奇しき薔薇の聖女》とよく似たそれは、けれどもまったく同じではなく――薔薇を描いたように見えたそれは、見る間に形を変えていった。    ――アカシアの花へと。
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