最終話 冠冕を捧ぐ

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◇ ◇ ◇  曠野(あれの)を駆け抜けた風が、赤い砂塵を宙に舞い上げる。からりと晴れ上がった空の青色とコントラストを成すと、砂は海の方角へ運ばれてゆく。  《女王の死庭》――鬱蒼と茂る薔薇の園の深部に、エリファレットはたたずんでいた。彼女の視界には、梔子(ガーデニア)の苗木を植えるサイラスの後ろ姿がある。素手で土をいじる彼の真正面にそびえたつのは、木立性の薔薇。  花咲く季節を過ぎた若い荊棘は、もの寂し気に風に揺れるばかりだ。  梔子の根に腐葉土をかぶせ、汚れた手をはたく。満足そうに出来上がりを確認すると、サイラスはその場を立ち上がった。ヘウルウェン伯爵家の庭から株分けされたという梔子のみずみずしい花は、薔薇の下で優しく微笑んでいる。 「――グエナヴィア様の薔薇は、思ったよりも控えめだった」  梔子から薔薇に視線を移すと、サイラスは思い出したように言った。  彼女の生涯を考えると、豪奢な八重咲き、そうでなくとも鮮やかな真紅や紫に色づくものが採用されるものかと思っていた、と。  エリファレットは薔薇鉄冠の儀で目にした彼女の薔薇を思い起こす。グエナヴィアの薔薇は、一重咲きの小ぶりな白い花を咲かせていた。そこから想起されるのは、グエナヴィアの苛烈な人生とは程遠い――少女のような清廉さ、無垢さ。 「他の人から見たら、グエナヴィア様は、愛を知らない――恋に迷う、孤独な女性に見えたのかもしれません」  彼女を愛する者は、女王狂信者とまで揶揄された。ただひとりに決めることのないその態度が、いっそう彼女を慕う者に愛を競わせ、過熱させた。それは権威ある女王として君臨するための策略だったが、逆説的に、他者からはその姿が孤独に映ったのかもしれない。  しかしエリファレットは知っている。彼女は多くの愛で人々を包み、包まれていたことを。その人生を、何ら憂いてはいなかったことを。  薔薇の木立に歩み寄ると、エリファレットはか細い枝に顔をすり寄せる。硬い棘に頬で触れ、目を閉じる。 (……私のお母さん)  エリファレットに父はいない。――エグランタインも同様に。  自分たちは、グエナヴィアの強大な影からのみ、生まれいずる存在だからだ。  三十四年の人生。表舞台に立った時期はそれよりも遥かに短く、しかしあらゆる人々の記憶に克明に刻まれた(ひと)。その強大する影は、彼女の複製(クローン)である自分や、娘であるエグランタインに、死ぬまでつきまとうに違いない。  溜息をついて顔を上げる。  背筋を正そうとしたところで、肩に重みを感じた。 「……前々から思っていたんですけど」 「何だ?」 「私とグエナヴィア様では、明らかに接し方が違いますよね」  自分を背後から抱き締めようとする男の腕から逃れ、チクリと指摘する。  『記憶』が確かなら、彼はもうすこし距離を保って接してきたはずだ。それが、自分に対してはどうしてこうもグダグダなのか。顰め面で振り返った少女に対し、サイラスは苦笑を漏らして跪く。  恭しくエリファレットの右手を取ると、その甲に口づける。顔を上げると、眩しそうに柘榴石の瞳を細めた。 「俺は主人にはうるさい。グエナヴィア様につけ入る隙は皆無だったが、お前はまだその努力が足りない」 「……要求が多いですね」 「きちんと躾をして、適度に褒美を与えることを心がけるように。犬に最高のパフォーマンスができるかどうかは主人の采配にかかっているんだ」 「それ、自分で言うことですか? だいたい、私はもうあなたに命令できる立場でも何でもないんですが」  身にまとう黒衣の裾を掴み、エリファレットは眉尻を下げる。 「立場は関係ない。大事なのは心の在りようだと考える。俺がお前を必要とし、お前が俺を必要とする――俺はお前の願いを叶え、お前は俺の望みを叶える」  一度はサイラスの手を振り払うが、迷った末に、指先で彼の顔に触れた。 「そうだ……」  喉を撫でれば心地よさそうに目を細める。顎の裏をくすぐろうとすれば、わざとらしく指を噛まれた。 「……なるほど」 「誰かに強く必要とされなければ、俺は生きる価値などないゴミ屑だ。もっと俺を隷属させてくれ。お前が俺なしでは生きていけなくなるくらいに。――俺を必要としてくれ、エリファレット」  ()けるような熱を帯びた眼差し。けっしてきつい口調ではない。しかし穏やかに語りかけるようでいて、有無を言わさぬ圧力がある。 「そこに俺の幸福がある」  死の(ふち)から救いなさい、とグエナヴィアはサイラスに命じた。  それ以外の価値はないのだと彼に教えた。  その願いは永久に果たされず、彼女は死んだ。  路頭に迷った彼は、自分を再び繋ぐ鎖を得ることで、心の穴を埋め合わせることを選んだ。そうして、幸福な物語を続けようとする。  彼を傍に置くことは、自分の痛みを一層強くするかもしれない。  けれども同じ女に悩まされる自分たちは、ある意味でひとつの共同体(チーム)なのだ――そんな意識を、エリファレットは抱きつつあった。  サイラスが喪失の痛みに苦しめられるように――  遺伝病は克服されたが、彼女の影で生きていかねばならないという消え難い痛みを、エリファレットは引き受けた。  けれども肉体の痛みとともに生きた日々のように、いつかはその心の痛みも、自分の一部として受容できる日が訪れるだろう。 (その頃には……生まれてきた意味を知ることができるかもしれない) 「……まあ、努力はします」  風が吹いて、エリファレットの長い髪が肩を打ち、背中に流れた。彼女のまとう黒衣が揺れ、梔子(ガーデニア)の匂いがあたりに漂った。  サイラスが立ち上がり、エリファレットを先に行かせた。彼は最後にグエナヴィアの薔薇を振り返ると、懐から香水瓶(ヴィネグレット)を繋いだ金無垢の鎖を取り出した。それを薔薇の根元に供え、一度硬く目を瞑る。  そして小さな声で、祈りを捧げたのだった。 「――おやすみなさい、グエナヴィア様」    ◇ ◇ ◇  二年後――第二百代アケイシャ女王として、グエナヴィアの娘・エグランタインが即位する。  彼女の治世は六十年の長きに渡って続くことになる。前女王の功績を引き継ぎながらも、『君臨すれども統治せず』の姿勢を貫く彼女の治世では、男女や身分の貴賤を問わず多くの優れた人材が発掘された。アケイシャは二度の対外戦争を経て世界経済の波に乗り出すと、その後百年以上に渡って続く最繁栄期が幕を開けることになる。  女王エグランタインの功績は多岐にわたるが、医療目的の生体干渉魔術の保護とその研究促進は実を結び、アケイシャの一大産業にまで発展した。宮廷魔術師を中心として設立された生体干渉魔術の専門研究機関は、特にその技術の研鑽と一般層への普及に努め、後の医療融合型魔術の基礎を築いたとされる。その多大なる貢献を讃え、当該機関には旗章として湖藍灰女王の紋が下賜され、今日びに至るまで使用されている。
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