第一場面

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第一場面

 探偵は、女子高生にタバコを一本要求した。女子高生はタバコを一本、スカートのポッケから差し出した。探偵は「うん」とだけ言って、後は何も無かった。女子高生は平気な様子でタバコをしまって、ポンと一つポッケを叩いた。  ポッケを叩くとビスケットが一つ、増えるらしかった。今女子高生はポッケを叩いたから、しかしビスケットが突如に顕現するはずもないわけなので、ひょっとするとタバコが一本増えるとも知れなかった。箱ごと増えるとも知れなかった。けれども、女子高生は、きちんと現実と夢想との分別を弁えていた。だから、この時はそんなはずもないと済ませて、とみに浮上した愉快な当空想は打ち切ってしまうのだった。事実、ビスケットがポンという軽妙な音に乗って精巧な形を作り出すのだとすると、それほど愉快な事象は女子高生の人生においては滅多に現れないのであった。だから、この虚構をあっさりと認めてしまうのは残念で、少々勿体無いことのように思われた。そのようにして、夢想への未練が離れまいと管を太くして、女子高生の脳みそにしがみつく時分に——あっさりとちょん切られてしまう。 「苦しいね」と探偵は憂慮する。探偵は芸術的な形の煙を吐く。女子高生の鼻をつく。やはり平然として「ちっとも」と答える。 「そうだね。君はちょっと鈍感が過ぎる。『ちっとも』と言うのは『ちっとも分かっていない』と言うんだ。私が苦しいのはね、ただね、息が苦しいとかそういうことでは無論無いんだよ。心が苦しいなんて、陳腐なことを言うつもりもない。ただ——苦しいのだ。分かるね?」  少し間を置いて「いや、分からないから、そうなのだろう。君は。そういう態度なのだろう」 「師匠の煙が、混迷を極めています。そういう時は、師匠が苦しんでいる時です」 「そう思うか」  女子高生は股の前に手を組んで「苦しいですね」と煽った。 「苦しいよ」  探偵はまんざらでもなさそうに、繰り返すのだった。 「今日のような日はちょうど……気圧が低いのに違いない。頭痛が重なっては、心の晴れるはずもない。どうにか君が励ましてはくれないかと思うけれど……」  女子高生は黙る。 「君は助手なんだから、私を手伝わなくちゃいけない。ほら、おこづかいまで、くれてあげているのだから。だから、手伝わなくちゃいけない」 「どうするんですか」と聞く。 「どうもしないよ。話を聞いてくれているだけで良い。——ちょっとそこに腰掛けよう」  探偵が示したのは、湖畔に橋のかかったところのベンチであった。背景はどんよりと浅緑色に塗り込められている。湖は沼のように濁っている。滅多に人は、通りがからなかった。ただ頭を垂れた街灯だけが、ぽつんと側に立っていた。二人はそちらへ歩んだ。  探偵は、女子高生に先に座るよう促した。渋々と従い、探偵が続いてタバコをふかした。 「外にいれば、嫌なことも幾らか忘れられる。そうだ、それからせっかく君がいるのだから、君が私を慰めてくれれば良い——肩に手を置いてみてくれ」  女子高生は言う通りにする。 「少々落ち着いたよ。次は、頬に触れてみてくれ」  探偵の頬に注目してみると、浅い毛が揃って力無く靡いていた。彼女は、頬に触れた。 「うん。それで良い」 「だいぶん、冷たいです」 「そうだろう」  探偵は納得した様子で言った。 「温めてくれ」  生ぬるい風が吹いた。紺の車が、行き過ぎた。女子高生は蒸し暑くて、左の手を鎖骨にやった。  不意に糠雨が落ちた。頬と、彼女の指先は離れて、彼女は掌を天に向けた。 「雨ですか」 「どうりで、鬱屈とするはずだ」  探偵はなぜだかニヤリと笑った。鬱屈が嬉しいのか知れない。 「手を握ってはくれないか」と更に探偵は要求する。女子高生は否応なく乾湿対照的な指と指とを絡める。探偵は、これを強く繋ぎ止めた。女子高生は極自然に、その把握を受け入れた。 「安心しましたか」 「幾らか」と答える探偵は、澱んだ目をしていた。 「でもね、決して安心なんてしてはいけないんだ。私は、この鬱屈とした景観とは、一線を画していなくてはいけない。画していると、苦しいんだ、でも、それが良い。そうでなくては、いけないと思う」  女子高生はうんと頷いた。 「君の温もりを感じていると、私はもう、ここに居ても良いのかなという気になってくる。目を瞑り、湿りも低気圧も何もかもを受け入れて、ここと同化してしまっても良いかなと考える——頭痛なんか忘れて。それくらいに、君の温もりは、優しい」  女子高生は視線を下げ、繋がれた手に落とした。依然、把握は強いままだ。 「そう。目的も、やるべきことも忘れてね。おかしいね。人間は一所に留まっては生きていかれるはずも無いのに。植物とは違うんだよ?」 「はい」 「分かるね? それじゃあ、さっきの話は無かったことにしよう」  女子高生は目を細めて、探偵の横顔を見据えた。一時目が合ったが、あっという間に探偵の方が逸らしてしまった。手を解いて、そのまま立ち上がった。女子高生は座ったまま見上げた。一瞥もせずに、探偵はそのままスタスタ去っていった。いつか振り返るとも知れない、と思って女子高生はずっと見ていたけれど、最後までそんなことは無かった。探偵が丘を下って見えなくなると、チッと舌打ちをして地面を蹴った。
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