「へんじがない。ただのしかばねのようだ。」は文学か

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「へんじがない。ただのしかばねのようだ。」は文学か

いつもありがとう、出雲黄昏です。 「へんじがない。  ただの しかばねの ようだ。」 引用:ドラゴンクエストシリーズ/株式会社スクウェア・エニックス  (シリーズによって漢字を用いる場合もある)    これは文学か否か。あなたはどう思う?      ドラクエの代名詞と言ってもいいほど有名なこのセリフ。  ドラクエにわか勢の僕がこのセリフを引用して語るとガチ勢の人に叱られそう。  もっというと、僕はファイナルファンタジー(FF)派ですと、あえてドラクエガチ勢を煽っておく。おー怖。  ともあれ、この言葉ってとても強力というか、印象的というか。  事実テレビゲームのセリフがミーム化しちゃってる状況から、多くのユーザーに響いた言葉であることに違いない。  これが文学か否かという考察、出雲黄昏の審美眼をもってして文学性を評価できるかは置いといても、興味深い事実だなぁと考えているわけです。  やはり物書きとして、人の心に響く言葉について考えるというのは、大切なこと。     ということで、この文章が持つ魔力を分析していこう!   学術的ではなく感覚的な自論を。好き勝手に。      先に結論から。  答え:文学ではない。     いかにも文学です! 意外でしょ? どや!  みたいなこと言いたそうな導入とタイトルでしたが、そういうわけでもないのです。  さーて、  ひとまず漢字に変換しましょか。   「返事がない。 ただの 屍の ようだ。」    いや、やっぱひらがなだからこそ魅力あるなこれ。   「へんじがない。 ただの しかばねの ようだ。」  うん。  こっちのほうが良き。  この感覚も世代や育った環境でギャップがあるかも。  僕は平成初期生まれですが、漢字がほとんど使われていないテレビゲームもプレイ経験がある。  このひらがなの羅列を見るとドットグラフィックのチープな感じが脳裏に浮かび紐づいて、よりゲームっぽい。  漢字にすると、途端にゲーム味が薄まってしまうように感じる。  ゲーム容量の都合上、あまり漢字を使えなかった時代背景を考えて、  歴史や遺跡に思い馳せるような、そんな類のものかもしれません。ロマン。  ですから、近年のゲームを好んでプレイしている方は漢字表記の方が、しっくりくるかも。  この言葉を3つのブロックに分けてみる。  ①へんじがない。  ②ただのしかばね  ③のようだ。  一個ずつ見ていきます。  ①へんじがない。  返事がない。ここから得られる情報は、  ドラクエの主人公がこの倒れこむ屍に何か声をかけた結果ということ。しかし作中では主人公が何を語りかけたのかは表記されません。  ②ただのしかばね  この部分、なぜ「ただの」という修飾語を用いたのでしょう。  「へんじがない しかばね のようだ」  でも伝わるものにあえて、「ただの」を付けて詳しく説明しています。    取るに足らないちっぽけな存在である。  あるいはゾンビでもなく、骸(むくろ)でしかない、物理的な死体が転がっているだけだということだろうか。    ③のようだ  確定しているわけではない。死人であるかも未確定ということだ。  主人公の希望的観測が、ほぼ確実に死人であるにも関わらず生きていると願う。モンスターが氾濫するこんな世の中に対する救いがあってほしいと願う想いが反映されているのでしょうか。  あるいは、ゾンビ系のモンスターの可能性があり、警戒を怠ってはならないという主人公の思考から、この表現になっているのか。  加えて、この部分で「ただの しかばね」という部分が効いてくる。  仮に 「へんじがない。 しかばね のようだ。」と 「へんじがない。 ただのしかばね のようだ。」  を比較したときに「ただのしかばね」と言ったほうが、屍に対して一言多く言及しているところから、屍である可能性がより高まる印象を受ける。  ①②➂のまとめ  へんじがない→主人公のセリフ描写を省略する意。  ただのしかばね→骸でしかない物理的な死体。  のようだ→確定ではない。   「へんじがない。  ただの しかばねの ようだ。」  はおそらく作中何度も目にするセリフ。  この文章の語呂感や、ワードセンス。 「しかばね」というパワーワードに「ただの」をつけるコントラスト。  こんな簡単なセリフで片付けられてしまう死人。死人としての虚しさ、儚さ。  確かに生きていたであろう死人に対してこんなにもあっさりと調べられ、主人公は去っていく。  主人公は他人の家の壺を覗いて調べるどころか、割って調べるほどのサイコパスであるにも関わらず、わざわざ屍には語りかけるという行動。  人間に対するいつくしみのような感性を持ちつつも、アイテム欲しさに荒々しく壺を割るような人間性。  様々な背景が混ざりあって、この言葉の強さをより際立たせているのではないか。  前後のストーリーや行動があってこその、このセリフ。単純に一文だけ切り出して語れるような代物ではなく、とても奥深いものかもしれない。  と、好き勝手に散らかった考察をし、文学的であると感じでいるにも関わらず、なぜ文学ではないか。    答えはシンプルで、テレビゲームだから。  文章で構成された奥行きではなくて、テレビゲーム内の行動等、様々な分岐があり、メインストーリーこそあれプレイヤーによってプレイ状況が違う。  それらで構成された上でこのセリフに出会う。  つまり、小説であれば前後の文脈があってこそ味わい深い文章になり得るのであって、  このセリフはそれらを構成する媒体が文字ではなく、プレイヤーの行動や、グラフィック等に左右されるということ。  これを文学と呼ぶには相応しくない。  しかしながら、書き手として得られる学びはあると感じるし、文学的であるとは思う。    強いてネーミングするなら、ゲーム文学。とでもカテゴライズしておくか。    ◯結論 「へんじがない。  ただの しかばねの ようだ。」  は、文学的であるが、文学ではない。  
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